29・竜
竜の谷と呼ばれる谷がある。
そこには、文字通り、竜族だけが住む聖域である。
人の世に伝説がある。
竜の力を手に入れるならば、世界をも手に入れるだろう、と。
そして、竜の世にも伝説がある。
真の自由を望むなら、決して人と関わりあうな、と。
ガルーディは火竜族の王の息子。第七子。人で言えば十代半ば。まだまだ若い竜である。
谷の果て。人の世ともっとも近い場所。
彼は好んでそこに行く。
引き止める両親、兄や姉たちに隠れて、一人、こっそりと。
そして、そこで少女と出会ったのだ。
真っ白い神官衣にも似たドレスの上に、軽装な鎧。
短く刈った金髪の、だけど、とても可愛らしい人の娘。
ガルーディは遠くから少女の様子を伺う。
たまに、谷にだけ生息する植物や、此処だけで採れる鉱物を求めて、人間の冒険者たちがやってくる。
他の竜族は彼らを追い出しに掛かるのだが、ガルーディだけは彼らを見逃してやる事にしていた。
人間は嫌いではない。
この狭い谷だけではない。外の世界、全部を知っていると言う人間が、ガルーディは好きだった。
ガルーディは自分の姿を確認する。
紅い竜。この姿で現れたのなら少女は驚くだろう。
ならば、と。
ガルーディは最近覚えたての呪文を使う。変化の呪文。
「――よし」
呪文は完成し、そこに立っていたのは、十代半ばぐらいの少年。紅い髪と黒い肌。呪文が不完全なのか、頭部に残る一対の角、あちこちに残るウロコは少々魔物的要素を持つが、十分に人間に近い。
これならば話しかけても少女は驚かないだろう。
ガルーディは満足し、隠れていた場所から少女の前に現れた。
「人間、此処に何の用だ?」
兄たちが人に話しかける言葉を真似る。
少女は驚いたように身体を強張らせた。
ガルーディは言葉に迷う。
だが、緊張しているのはこちらも同じだ。それ以上の言葉を発せず、ガルーディは少女を見るだけ。
やがて、少女はその場に膝を付いた。
祈るような仕草で、ガルーディにこうべを垂れる。
驚くガルーディに向かって、少女は言った。
「竜よ、お願いです。私たちの国を助けて下さい」
ガルーディは意味が分からぬまま、その場に屈みこむと少女と視線を合わせた。
「…意味分からないけど、なぁ、あんた、何の用だ?」
話してみろよ、と促せば、少女は涙を溜めた瞳で話し出した。
少女はこの近くの国の皇女だそうだ。
だが、戦争で少女の国は滅ぼされかかっている。それを救うためには竜族の力がどうしても必要なのだと言う。
「敵国は、飛竜の使い手です」
「飛竜?」
一部の地竜を除いて、竜が飛ぶのは当たり前だ。
ガルーディの無知に、少女は少しだけ驚いたような、呆れたような表情の後、言った。
「知識の無い、獣と変わらない竜族の事です」
「へぇ、そんなのが居るんだ。
世の中は広いなぁ」
ガルーディは感心したような声を上げる。
少女は困ったような表情を浮かべている。が、ガルーディは気付かない。
少女はひとつため息。
そして、言葉を続ける。
「…そんな飛竜ですが、一般の兵士では到底適いません。
なら、もっと上位の竜族の力を得れるなら、と…」
「竜を探しに来たんだ?」
「えぇ」
よし、とガルーディは自分の胸を叩いた。
「なら俺が行ってやるよ」
「貴方が?」
「そ! ちょっと待ってろよ、親父たちの許可を貰ってくるから!」
「…貴方の御父様?」
「人間だって知ってるだろ? 火竜の王。炎の支配者ルーザックが俺の父親だよ」
少女は驚いたようだ。
今更ながら蒼くなる。
その少女に「待ってろよ」と笑いかけ、ガルーディは駆け出した。
「あの!!」
駆け出したガルーディを呼び止める声。
振り返るなら、少女はゆっくりと笑みを浮かべた。
「有り難う…」
ガルーディはその言葉に、とびきりの笑みを返した。
父も兄たちも、居なかった。
ガルーディは唯一家に残っている母の元へ駆け出した。
そして、人の国を助ける為に外へ行くと伝えたのだ。
「やめなさい、ガルーディ」
母親は普段は穏やかな声を怒りに染め、そう言った。
「何でだよ」
竜の姿に戻っているガルーディは叫ぶ。「困っている相手を助けてやるのは当たり前だろ!」
「それは竜族に対してのみです。人に関わってはなりません」
「どうして」
母は青い瞳を伏せた。
紅い鱗の竜。美しい細身の肢体。緩やかに伸びた尾が、身体に寄せられる。
「おいで、ガルーディ」
名を呼ばれ、ガルーディは母に近付く。
見上げるなら、母の頭がゆっくりと倒れこみ、ガルーディの額に重なった。
「見せてあげます。
人が、貴方に何を求めるか」
目の前に少女が居た。
「…あれ?」
ガルーディは疑問符を飛ばす。
先ほどまで母と会話をしていた筈だ。
なのに。
「御父様の許可は取れましたか?」
「…あ、うん、きっと」
ガルーディは曖昧に答える。
そう、と笑い、少女は手を伸ばした。
「竜よ、契約を」
「……?」
意味が分からぬまま、ガルーディは手を伸ばす。
人の手を、伸ばした。
少女の手と、ガルーディの手が重なる。
その瞬間。
ガルーディは己の体内に炎を感じた。
焼けた鉄の棒を体内に押し込まれ、串刺しにされたような錯覚。
「あああ、ああああ?!」
ガルーディは訳が分からぬまま叫ぶ。
だが、少女と自分の手は重なったまま。
「竜よ、その力を、我らに」
炎。
それは、ガルーディの肉を、魂を焼いていく。
そして、炎は重なった指先から、少女へと、移動する。
これは、何?
喰われる。
俺は、この娘に喰われている。
「竜よ」
少女が言う。
「これが、人が求める協力なのです」
緩やかに、母の声が聞こえた。
少女の声と重なるように、母の声が。
「竜の肉体は、人の肉体よりもずっと、魔法に近いものです。
それ故に、特殊な呪術を用いるなら、竜の肉体を破壊し、魔法の力として吸収する事も出来るのです」
「……でも、あの子がそれを望んでいるなんて…」
「谷の外に、多くの魔術師と軍隊が潜んでいるのを先ほど、貴方の兄が見つけましたよ。
あの娘が先陣で、成功したのなら、その力をきっかけに、この谷を攻め落とす気だったのでしょう」
確かに、まだ歳若いとは言え、王の直系であるガルーディの力を得たのなら、殆どの竜は敵わなかっただろう。
「人は何度もこの谷を滅ぼす為にやってきました。
竜の力を得るなら、人の世を支配する事ぐらい簡単なのですから」
「ガルーディ。無知な愛し子。優しい貴方はまだ何も知らないのです。
人がどれだけ恐ろしく、貪欲な存在か。
彼らは百年程度の寿命で、われら竜族が千年の寿命の間にでも得られない『すべて』を得ようとするのです」
「さぁ、ガルーディ。泣かないで。
御父様と兄と姉たちが、人の軍隊を追い出してくれますよ。
泣かないで、ガルーディ。貴方には、皆が居るのですから」
母の声に抱かれていたガルーディは、きっと彼女を見上げ、その身体を捻った。
母に背を向け、その背の翼を大きく広げる。
飛ぶ。
「ガルーディ!!」
呼び止める悲痛な声にガルーディは耳を塞いだ。
少女が先ほど居た場所は、既に戦場となっていた。
多くの人間の骸が転がり、大地は巨大な炎で焼かれ変色していた。
ガルーディは少女の名を呼ぼうとして、大きく口を開き――閉ざした。
名前を聞いてなかった。
「なぁ」
ガルーディは人の姿になり、少女を捜す。
「応えてくれよ」
母の言葉が真実なのか。本当に俺を喰らおうとしたのか。俺の力を利用する為だけにやってきたのか。
ガルーディは奇妙な夢をみた事があった。
人の世。広い、広い、その大地の上を、真紅の翼を広げ、飛ぶ自分を。
いつか、自分は人の世に行くのだろう。
千年の寿命を持っていたとしても、閉じられた空間で腐っていくだけの竜族たちから離れ、百年の寿命で精一杯生きる人の元へ、自分は行くのだろう、と。
そう、思っていた。
「……?」
ガルーディはかすかな声を聞きとめる。
駆け寄れば、そこには、白かったドレスを紅に染めた少女。
ガルーディは慌てて少女を抱き上げる。
ずるり、とした血の感触など気にしなかった。
「おい、おい!!」
叫ぶ。
少女はぼんやりと瞳を開く。
ガルーディを認め、ああ、と、掠れた声を漏らす。
「おねがい…」
伸びる指先。
「わたしたちの、くに、を…」
たすけて。
ガルーディは迷わなかった。
少女の紅い指先を捕らえ、指を絡める。
「助ける! ほら、契約だ。
俺の一生、俺の千年、全部、全部、お前にやるよ!」
少女はゆっくりと、笑みを浮かべた。
唇の端に笑みを刻むだけの、薄いものだったが。
呪文。
掠れ、掠れ、呪文が、続く。
絡めた指先から、自分が喪失していく感覚。
それでもいい。
ガルーディは笑みを浮かべる。
「…りゅう、よ…」
少女が言った。
呪文の合間。
「わたしと…わたしたちのくにを…ほろぼした、にんげんたちに…」
「ふく、しゅう、を――」
………後に。
母から話を聞いた兄がガルーディの姿を求めたが、そこにはもう誰も居なかった。
少女の姿も、ガルーディの姿も、無かったのだ。
更に後に。
谷からさほど離れていない王国で、ひとつ、異変があった。
その国は、たった一人の皇女を除いて全員が捕らえられ、処刑された王国であった。
その皇女が竜の谷に逃げ込んだと聞いて、追っ手を差し向けたのだが、竜の谷に踏み入り過ぎ、軍隊は全滅。
結局、竜の谷に逃げ込んだ皇女は、行方不明のままとなっていた。
が。
夜。
王宮の上に、真紅の姿が月に照らし出された。
慌てて飛竜を差し向けたが、飛竜の攻撃などまったく気にした様子は無く、その紅い姿は王宮へと踏み入った。
真紅の姿。
それは、巨大な竜。火竜と呼ばれる、真紅の鱗の竜である。
炎のブレスで立ち向かう兵士を焼き、巨大な爪で鎧ごと斬り裂いた。
完全なる殺戮を王宮にもたらし、そして、火竜はまた空へと消え去った。
「哀しいよ」
火竜が泣いていたと言う。
「俺にどうして、こんな感情を与えた?
憎悪、憤怒、悲哀。
他の何も与えずに、どうして、こんな感情だけを」
人々は竜の言葉の意味を探る。
だが、誰もが真実へと辿り着けない。
たった一人の生き残りの皇女。そして、彼女は最後の力で唱えた呪文。
その呪文により、身に潜めていた、敵国への、いや、人間へのと言って差し支えの無い負の感情を、すべて、竜族に与えたと言う事を、誰が悟ると言うのだろうか。
故に、真紅の竜は広い広い人の世を彷徨う。
絶対の負の感情を身に秘めて、人を滅ぼしかけない己を自制し、彷徨う。
おそらく、千年の間に、真紅の竜はやがて狂う。
いつか、いつか。
その日まで、真紅の竜――ガルーディは、紅い翼を広げ、広い広い人の世を、嘆きの声を上げて、飛び続ける。
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