25・鋼の騎士
人間と言うのはよく分からない。
櫻庭 陽太は最近、特にそう思う。
「ふむ、良い乗り物だな、これは」
陽太がそんな哲学するようになった原因は、陽太のバイクに手を掛け、満足そうな表情を浮かべている。
この少年は、自称魔王、だそうだ。
「あー、えーと、魔王様」
「何だ?」
「………いいえ、何でもないッス」
何で俺はこんなガキ相手にぺこぺこしてるんだろうなぁ、とか考える。
単純だ。
ついさっき、彼はバイクでこの少年を轢いたのだ。
轢いた上に後輪に少年の服を引っ掛け、引きずる事十数メートル。
殺した殺した殺した殺した殺した絶対殺した。
ようやく止めたバイクの上で、がたがたと震える陽太の耳に。
「やれやれ、もっと早く止める事は出来ないのか?」
不満げな少年の声が耳に届いた。
慌てて助け起こしてみれば、少年は僅かな擦り傷のみでほぼ無傷。だが着ていた衣服は、靴に至るまでほぼ全損。
ぼろきれと化した衣類を見て不機嫌そうな少年は、陽太から上着とズボンを奪い去った。
下着姿で呆然と、余った袖を折っている少年を、陽太は、見る。
「何だ、男? 何か言いたいようだな?」
「…なんで、あんた生きてるんスか?」
「生きているのが不満か」
「いや、だって、常識的に無理でしょう、バイクにずるずる引きずられて。普通、皮膚ぼろぼろ、内臓ずるずる、骨ばきばきで死んでるしょ?」
「簡単だ」
少年は両腕を組み、座り込んで自分を見上げてくる陽太に、自信に満ち溢れた笑みを向けてくる。
「この魔王が人の操る乗り物で死ぬと思うか」
「…魔王?」
「ああ、魔王だ」
「…………」
陽太は頭を抱えた。
いや、狂人でもいい。何でもいい。人殺しにならなくて済んでよかった。
本当良かった、神様、有り難う。いや、この場合は魔王様有り難うか。
「男、名を何と言う?」
バイクをさも珍しそうに眺めていた魔王様がそう言った。
下着姿の陽太は自分の顔を示し、それから、答える。
「櫻庭 陽太」
「陽太か」
ふむ、と自称魔王様は頷いた。
「覚えておこう」
それから彼は己の腕を見る。腕時計は故障済み。
陽太は自分の腕時計で時間を確認する。
「もうすぐ8時なるッス」
勿論夜のだ。明るければ、信号の無い横断歩道を渡るこの少年を見過ごさなかっただろう。
「そろそろ私は帰らねばならない。
一時帰宅は今日で終了だからな」
「…一時帰宅?」
「ああ、今日からまた病院で生活だ」
「何処の」
魔王様が答えたのは、精神病棟が有名な某病院。
ああ、やっぱり。陽太はそう呟き、頭を抱えた。
「では、陽太。また会おう」
「え、あ」
顔を上げた。
が、そこには既に誰の姿も無い。
「へくしゅっ!」
下着姿の陽太は思い出したようにくしゃみをした。
そして、風邪を引いた。
風邪が治った頃、陽太は一人、とある病院に訪れていた。
入り口の受け付けで、彼はしどろもどろに言った。
「…あの、スイマセン、此処に知り合いが入院していると思うのですが…」
「お名前は」
「…な、名前知らないんですが」
受付の女性は思い切り不審そうな顔。
陽太は慌てて続けた。
「じ、自分を魔王だなんて言ってる男の子なんですが」
「――あら」
真後ろからの声に振り返る。
そこには上品そうな老婦人。
入院患者らしい彼女は、にこりと微笑むと陽太に言った。
「広瀬くんの御友達かしら?」
陽太はようやく、自称魔王の名前を知ったのだ。
広瀬 煌。ひろせ きら。フルネーム。下の名前が魔王だとか言うんだったらまだ救われたが、多少変わった名前だが普通の名前である。
陽太はがくり、と首を落とす。
「陽太か。何か用か」
個室で読書中だった魔王――広瀬少年は、陽太を認め、僅かに笑みを浮かべた。
どうやら歓迎されている様子に安堵する。
「怪我、大丈夫ッスか?」
「擦り傷か? なら大事は無い」
それよりも、と。「よく此処が分かったな」
「ああ、受付の所で親切そうなお婆さんに会って」
老婦人の外見を話すと、ああ、と広瀬少年は頷いた。
「…フキか」
広瀬少年は口元の笑みを強める。
穏やかな笑みだった。
広瀬少年の無事を確認し、陽太は服――クリーニング済み――を返してもらって病院を後にした。
これで縁を切っても良かったのだけど、何故だか、陽太はずるずると、一月に一度…二度と、広瀬少年を見舞っていた。
正直に言えば。
陽太は、広瀬少年が気に入っていたのだ。
「魔王さま」
陽太は問う。「魔王って何が出来るんスか?」
「さて、何が出来ると思う?」
「…世界征服とか?」
「ではそうしておこう」
「答えになって無いッスよ」
陽太は笑った。
広瀬少年も笑った。
そんな会話が、ただ、ただ、楽しかった。
何かあれば、と、広瀬少年に携帯番号を教えていた。
だが、その広瀬少年からの電話は一度きりであった。
一度きり、真夜中の電話。
それは、病院から広瀬少年とあの老女――フキが行方不明になった日から数日後であった。
『陽太か』
その声だけで誰か分かった。
眠っていた陽太は飛び起きる。
そして、電話に向かって怒鳴った。
「何考えてんだ、あんた?!」
『そんなに怒鳴らなくても聞こえる』
「うるせぇ!」
怒鳴る。
「あんた、何したか分かってるのか?! お婆さん誘拐してどうするって言うんだよ!?」
『フキは私と共に生きる事を選んだけだ』
大丈夫だ、と、広瀬少年はしっかりとした声で言った。
大丈夫だ。
その一言で。
すっ…と。
不思議な事だが、陽太の中にあった怒りだとか、不安だとかが消えていくのを感じた。
「……どうすんだよ、これから」
『大丈夫だ。
私もフキも、お前が心配するような事にはならぬ』
「…だろうな」
陽太が居なくとも、平気だろう。
この魔王を名乗る少年なら。
陽太の中にあった怒りだとか、不安はもう無い。
ただ、ぽつん、と。
…寂しさが残る。
陽太が広瀬少年に感じていたような親しみだとか、友情だとか、純粋に好きだと思った感情が、向こうからは無かったのかと、少し、寂しくなっただけだ。
「…れ、連絡くれただけでも嬉しいッス。
その、お元気で」
『何だ? 永遠の別れのような口調だな』
「そりゃそうでしょう。
俺たちの前に、また現れます? 病院関係者、頑張って捜してますよ?」
『捕まるような愚かな真似はしない。人間どもが私に何が出来ると言うのだ』
で、と、広瀬少年が続けた。
『お前はどうする?』
「……おれ?」
『お前は、私と共に来るのか?』
「な、何で」
『私はお前を気に入っている。お前が望むなら部下にしてやってもいいと思っている』
「――………」
『来るか、陽太?』
誘いに。
「ハイ!!!」
陽太は力いっぱい頷いていた。
真夜中。
荷物を纏めてバイクに飛び乗る。
過去の自分、全部纏めて捨て去って。
さようなら、と自分が住んでいた部屋を見上げ、呟いた。
何て愚かな事。自分を魔王だと思っているだけかもしれぬ、狂人かもしれない少年の為に、今まで築き上げてきた何もかも捨て去る気か。
だが、捨て去ってもいいぐらい、陽太は、広瀬少年が好きだった。
バイクのエンジン音までもが陽太を鼓舞しているように聞こえる。
わくわくしていた。酷く、酷く。身体全体、指の先まで、新たな世界に突入する期待に壊れそうなほど騒いでいる。
バイクで魔王様の元へ駆けつける自分を思い、陽太は小さく笑った。
鋼の騎士、なんてそんな言葉を胸中で思い浮かべる。
広瀬少年に会ったら、この呼び名について意見を貰おう。
魔王様の事だ、気に入ってくれるかもしれない。陽太のふたつ名になるかもしれない。
それさえも楽しみだ。
バイク。
駆け出した。
真夜中の街。
まだ見ぬ新しい場所へと、陽太は、笑みを持って走っていった。
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