64・三度問う
十八歳の時。
その獣に出会った。
山奥。闇の中に蹲り、紅い瞳を輝かせるその獣は。
通常の獣とは思えぬ禍々しい気に満ち溢れていた。
狼にも似た獣。だが、その身体は柔らかい毛皮に覆われておらず、逆に、鈍く輝く金属の体毛。触れるならば肉も裂くであろう刃。
女子供のみならず、大の男でも恐れ、逃げ出すだろう獣の姿を見ても、不思議と怖くは無かった。
その獣の瞳に知性の色を感じたからだろう。
シキトは、ゆっくりと構えていた剣を下ろし、その奇妙な獣に言った。
「この山に逃げ込んだ山賊を捜している」
知らないか、と問えば、獣は不思議そうに小首を傾げた。
シキトの言葉を聞き、考え、答えようとしているようだ。
つい、と首を翻す。
獣にはありえぬ、首だけで振り返る仕草で背後を示す。
「さきほど、なんにんか、くったが」
たどたどしい軋んだ声。
だが獣の声ではなかった。壮年の男性の声である。
「喰らった?」
シキトは呆れた声を漏らす。「全員か?」
狼は頷いた。
シキトは大きく息を吐き、天を仰いだ。
「それほど、こまる、のか?」
「困る」
シキトは狼を見て頷いた。「山賊の頭は素晴らしく強い男だと聞いたから、わざわざこんな山奥まで追いかけてきたんだぞ」
「それほど、つよくは、なかった」
狼は僅かに笑った。
ところで、と狼は言った。
「そのよろい、ぐんたいのもの、だろう」
「……ああ」
「おまえは、おうのちすじにつらなる、にんげん、か?」
「王?」
まさか、とシキトは笑った。
「俺はただの兵だ」
なら、と狼は紅い瞳でシキトを見据える。
「なら、なぜに、おれをおそれない?」
ふん、と鼻で笑い、シキトは言う。
「こんな山奥だ。バケモノの一匹や二匹に出会ってもおかしくはない」
くつくつ、と、狼が喉の奥で笑う。
「おもしろい、おとこだ」
おまえなら、おれのおうに、なれるかもしれぬ。
狼は、そう言った。
「おとこよ。
おれは、おまえにみたび、とう。
しつもんはひとつ、こたえはふたつ。
いまから、いちどめの、といをおこなう」
疑問符を浮かべるシキトに、黒い狼はその問いを口にした。
「おうに、ならぬか?」
王に?
「おうじるのか、ことわるのか?」
「断る」
ほぼ即答だった。
狼はじっと紅い瞳をシキトに注ぐ。
「王になっても面倒なだけだ。
御免だね。
俺が軍隊に入ったのは、強い相手と戦いからだ。
将軍にならなってもいいが、王なんて面倒そうな地位は不必要だ」
「そうか」
狼は一歩、下がった。
「ならばみらい、あとにかい。おまえにおなじしつもん、くりかえす。
おまえのうんめい、かわる、そのときに」
「おい!」
闇の中に去っていく狼に、シキトは叫ぶ。
「何度言われても王になんてならねぇぞ!」
「だがおれは、とい、かける。
みたび、とう」
狼はそのまま、闇に溶けた。
次に会ったのは、三十四歳の時だった。
幾度かの戦いを経て、シキトは将軍と呼ばれる位に上り詰めていた。
初めて獣に出会った日よりもずっと齢を重ね、落ち着きも考える力も得ていた。
だが、夜。
自室の闇の中から狼が現れ、同じ質問を繰り返しても、シキトは「断る」とだけ答えた。
狼は否定の返事を受け取っても動かない。蝋燭の明かりが届かぬ端に腰を下ろし、じっと、シキトの手元を見ている。
そこには手紙。
とある国から届いた手紙だ。
「これに興味があるのか?」
「しって、いる」
相変わらず、たどたどしく軋んだ声。
「さそいのてがみ、だろう」
「そうだ」
シキトはとある国の名前を挙げた。
西の大国。豊穣な土地に恵まれ、神に愛されたとも言われるその国は、東の軍事国家に敵対するほどの勢力を有する国だ。
北の草原の国が沈黙している以上、この二国が大陸を巡って争っているのが現状だ。
そして。
その他の小国は、どちらに付くべきか、迷い、彷徨い、動いている。
シキトの属する国もそうだった。
この国の王は愚かで、臆病者で仕方が無い。どちらに付くべきか迷い、迷いすぎて、すでに時は遅くなりすぎている。
隣国の、勇猛で名が知られた姫君にさえ恐れをなし、毎日怯え、暮らしている状態だ。
シキトは手紙に目を落とす。
西の大国。そこからのいざないの手紙。
銀色の瞳を持つ、まだ若い少年が届けに来た。
シキトは小さく息を吐き、手紙を蝋燭の明かりに近づける。
燃えて行くそれを眺めながら、獣がゆっくりと綴る言葉に耳を澄ました。
「にしのくには、つよいせんし、いない。
ゆえに、おまえを、のぞむのだろう」
「にしに、いくのか?」
「……いや」
「なぜだ?
このくにに、どれだけ、みれん、ある?」
「情けない王が治める国だが、俺の故郷なんでね」
「このくにを、こきょうと、いとしくおもうなら、おまえ、おうになれば、いい」
「ほろびるぞ」
「………」
「このくにのおうは、おうではない。
おさめるちから、したがえるちから、しはいするちから、まもるちから、なにもかもたりぬ、おうのざに、あまえたおろかもの」
「おれが、てつだう」
「おまえ、おうのちから、ふそくというなら。
おれが、おまえをたすける」
「………」
シキトの沈黙を受けて、獣は下ろしていた腰を上げた。
動き出す。
「あといちど。
あといちど、おまえに、とう」
獣はゆっくりとその姿を闇に溶けさせる。
ふと、シキトは獣を呼び止めた。
紅い瞳を瞬かせ、獣は動きを止める。
「名前は?」
「――……」
獣は紅い瞳を見開いてシキトを見る。
「……がーだる」
「ガーダルか」
「俺はシキト」
今更の名乗りを受けて、獣は小さく頷いた。
「しきと」
「よい、なまえだ」
嬉しそうな声。「こえにだすと、とてもよいひびきの、なだ」
そのただ嬉しそうな獣の声が、耳の奥に、いつまでも残った。
次に獣に会ったのは、四十歳を目前とする歳だった。
世の中は大きく変わった。
西の国はますます強大になり、東の軍事国家と大陸を二分する勢いだ。
そして、シキトの国は軍事国家の方へと付いた。
だが、目下の敵は西の国ではない。
隣国の、鬼姫と呼ばれる勇猛な姫君を有する国だ。
戦の勝ちはほぼ決まっている。
敵国の王は捕らえられ、処刑された。鬼姫の首も示されたが、それでも、何故か不安が残る。
王の傍で、王を護衛する役目となったシキトは、他の兵士に護衛を任せ、一旦、その場を離れる。
闇。
ここ数年の間だ。
ふと気付けば闇に立つ自分に気付いた。
まるで――あの獣を待つように。
「……ガーダル」
名を呼んだ。
返事は一度も返ってこなかった。
だが、そっと、足元に寄り添う姿が、今夜はあった。
シキトは笑う。
「久しぶりだな、ガーダル」
「ひさしい、たしかに」
闇色の狼も紅い瞳を細め、笑って見せた。
「今日もあの問いかけか?」
「そうだ」
「悪いが、もう少し待ってくれないか?」
「なぜだ?」
「この三度目の問いが終れば、お前に二度と会えぬのだろう?」
ガーダルは答えなかった。
「ならば、もう少し未来……そうだな、俺の死ぬ時にでも来てくれ」
「それならば、いま、だ」
ガーダルはあっさりと、たどたどしく、言葉を口にする。
シキトは聞き返さなかった。
「おまえ、こんや、ころされる」
「誰に?」
「おに、ひめに」
「生きているのか、あの姫君」
「いまに、くる」
「そうか」
シキトは歩き出す。
ガーダルはじっとシキトを見る。
問いかけは無かった。
闇。
その戦場に、光輝く獣と、鬼姫が現れたと報告が来たのは、その直後だった。
被害状況を聞くたびに、シキトはすぐさま駆け出したくなる。
若い頃を思い出した。強い相手と聞くたびに、誰よりも先に戦場に駆けつけた自分を。
だが王はシキトを傍から離さない。
誰よりも何よりも、自分を守れと叫ぶ王を、酷く愚かな、哀れなものとシキトは見た。
光。
闇を裂き、そこに現れるのは、奇妙な獣とその背に乗った傷だらけの少女。
奇妙な獣。
大型の馬ほどの大きさだろうか。だが、全身、長い毛に覆われている。
毛の色は、白かと思えば金。金かと思えば蒼。蒼と思えば紅。万色なる不可思議な。
二本の角が緩やかに、人を決して傷つけぬと言わんばかりの緩やかさで、伸びている。
その角の下。穏やかな瞳の色は、ガーダルと同じく、知性を感じさせた。
奇妙な獣の上に乗るのは、姫君。
全身血に塗れ、傷だらけだ。鎧は既に用を成さず、少女らしい曲線の身体が覗いている。
満身創痍の少女だが、その瞳の色は真っ直ぐ、強く、炎を思わせた。
「――姫」
そう呼びかけたのは、獣。
「お気を付けて。
……この男、私が見えています」
「王となるべき魂を持っております」
シキトは何も言わなかった。
愛馬に命じ、愛刀を手に、炎のような少女へと、走った。
一度目の打ち合い。
何故か酷く、何もかもが遅く見えた。
鬼姫の攻撃を潜り、逆に、その右腕を強く弾き返す。
奇妙な音がした。骨が折れたのか。筋が切れたのか。
だが、鬼姫はすぐさま剣を左に持ち替えた。
持ち替え、獣のような声をあげ、斬りかかってくる。
人馬一体。
光る獣は手綱も無い状況で、その背の鬼姫の心どおりに動く。
二度。
三度。
四度。
シキトの剣に肉を裂かれ、身を貫かれ、刃を止めて。
鬼姫は、吼えるかのように、シキトの身体にその刃を叩き込んだ。
恐らく致命傷になるだろう、その場所へ。
シキトは。
姫から視線を外し、その姫を背に乗せる獣を見た。
獣は哀れむような色合いを瞳に浮かべていた。
哀れな、と。
声も、聞こえた。
この狭い世界。
何故に、人は殺しあう、と。
シキトは、獣の瞳に世界を見る。
自分が大陸だと、世界のすべてだと思っていたこの場所が。
世界全体から見れば、何十分の一。ほんの僅かな土地でしかない事を。
その上で愚かに、哀れに、戦い続けている自分たちの姿を最後に。
シキトは、愛馬の背から、地に落ちた。
気付けば、黒い狼がシキトの顔に顔を近づけていた。
「おうに、ならぬか?」
獣は問いかけてきた。
シキトは答えない。
「しぬぞ?」
「しきと」
「たのむ。
しぬな、しきと」
「おれと、ともに、いき。
おうに、なってくれ」
シキトは手を上げる。
両腕を伸ばし、獣の首を抱き締めた。
ガーダルはおとなしくシキトの腕にされるがままに。
そして、暖かい舌でシキトの顔を舐めた。
「こたえて、くれ、しきと。
ただひとこと、おうになる、と」
「しきと」
「――王になれば、お前と……一緒に居られるのか」
「そうだ。
しきと、おれといっしょに」
「楽し……そうだな」
国など無くてもいい。
民など無くてもいい。
何もなくてもいい。
ただこの獣と一緒に生きるのは、とても、楽しそうだ。
「ガーダル」
「俺は、王になるよ」
腕から力が抜ける。
もう何も出来ない。
それでも、シキトの傍らに、ガーダルは跪いた。
「わが、おうよ」
「えいえんの、ちゅうせいを」
「――結局、この戦い、どうなるかな」
男は眼下に広がる広大な景色を眺め、呟く。
足元に控える闇色の獣は、軽く首を傾げた。
「おれには、わからぬ」
「正直に言えば、俺も分からない」
笑う。
「なに、誰かが勝つさ」
それだけの事。
男は笑い、歩き出した。
「どこへ、いく、わがおう、よ」
「南へ」
「世界の歴史書を辿っても、南の情報は殆ど無い。
何があるか……思えば楽しみになってくる」
「くにも、たみも、けんりょくも。
なにもかも、いらない、いうか」
「この小さな土地を手に入れてどうする?
俺には興味は無い。
欲しいヤツラが必死になればいい」
それとも、と、男は獣に視線を落とした。
笑み。
「こんな王は頼り無くて不要か?」
「いいや」
即答。
紅い瞳を細めて、獣が笑う。
「おまえは、おれの、たいせつな、たいせつなおうだ」
王と呼ばれた男は獣を従えてゆっくりと歩き出した。
いまだ戦争が続く広大な大地を背に。
誰も知らぬ新たな場所へと、ゆっくりと、歩き出したのだ。
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