19・対になる
駅で、そのお婆さんは困ったように立ちすくんでいた。
可愛らしいお婆さんだった。綺麗に着物を着こなして、立ちすくむと言っても、「あら」と言わんばかりの様子で小首を傾げている。
切符売り場。人に邪魔にならない位置で、背筋を伸ばして立っている姿。
「何かお困りですか?」
私はつい声を掛ける。
お婆さんは振り返り、あら、と可愛らしい声を上げた。
それから笑顔を浮かべ、私に向き直ると言ったのだ。
「電車に乗るのは切符が必要なのですよね?」
「えぇ」
「切符を買うにはお金が必要?」
「そうですね」
「あら」
困ったわねぇ、と御婆さんが言った。
「…お金、お持ちじゃないんですか?」
「えぇ」
何となく浮世離れした人だと思っていたが…。
「…………どちらまで行かれるんですか?」
お婆さんはこの駅から二駅ほど離れた駅を口にした。
私は切符の値段を思う。大した値段じゃない。
そして、その日、私は暇だった。
「宜しければ切符代、お貸ししますよ」
差し上げる、と言うのもどうかと思ったので、あえてそう言ってみる。
「あら、助かるわ」
お婆さんは更に笑みを浮かべた。「家に行けば、きっと、家のものが払ってくれるから」
切符購入も自動改札も始めてらしいお婆さんを案内して、私は彼女と並んで電車に乗り込む。
ゆったりとした電車の揺れに身を任せ、お婆さんはにこにこと口を開いた。
「御免なさいね、私ったら世間知らずで」
「いえいえ」
お婆さんは笑みを浮かべる。優しい笑みだ。
私は口を閉ざす。
「私はね、若い頃、本当に箱入り娘で。外なんか一度も出た事無かったのよ」
「大人になったら少しは自由になるかしら、と思っていたら、いきなり外に連れ出されてね。
『この人と対になりなさい』って。
酷いわよね。私、絶対に嫌だって駄々を捏ねたんだけど、家の人に無理矢理、対にされてしまったの」
対になる?
お嫁さんになれ、と言う意味だろうか?
「私が対になった人はとても無口で、愛情表現が下手な人だったのよね…。
心無い人に引き離されて、こうやって、遠くに来て初めて分かったわ。
私が愛されているって事に」
「…引き離される?」
「えぇ。悪い人にね、誘拐されたの」
あっさりと彼女は凄い事を言ってのけた。
驚愕で何も言えなくなった私に笑いかけ、彼女は、言う。
「でもちゃあんと逃げ出してきたわ。こうやって貴方みたいに親切な人に会えて帰れるんだもの」
電車が駅に着いた。
私とお婆さんは並んで歩く。
古い店が並ぶ通り
その通りから一本奥に入った道路に、お婆さんの家があった。
古いつくりの、骨董品店だった。
「ただいま」
お婆さんは声を弾ませ、ドアを開く。からん、と鈴が鳴った。
「おまえ」
店の奥。暗がりからお婆さんと同じぐらいの年令の男性が出てきた。こちらもすらりとした長身の、若い頃はさぞいい男だったのだろう、と思わせるお爺さん。
彼は狭い店の中、お婆さんに駆け寄る。
ただいま、と微笑む彼女を、おかえり、と嬉しそうに笑って抱き締める。
私は照れて、ちょっと余所を見た。
「有り難う」
二人の声が重なって、私に向けられた。
いえ、とか言ってそちらを見れば、そこにはもう誰も居なかった。
「あれ?」
首を傾げる私に、店の奥から出てきた青年が、淡い笑顔で「いらっしゃいませ」と声を掛けた。
…私はその青年に、さっき会った事を一部始終話す。
青年は私にまず礼を述べ、切符の代金を支払おうとした。
「それはいいんです」
私は言う。「あのお婆さんとお爺さんは」
「彼らならこちらに」
そう言って、青年は紫色のケースに納められた古い耳飾を出してきた。
横から見た蝶。まるで女性の横顔のようにも見える、すらりとした綺麗なシルエットの耳飾だ。
右が紅。左が蒼。
すかし模様がとても美しい、対の耳飾。
……対、の?
「先日、泥棒に入られまして。この紅い耳飾が盗まれたんです。
戻ってきてくれて、良かった」
「………」
嘘だ、と言えなかった。
だって。蝶の羽根が作り出す陰影に、あのお婆さんの可愛らしい笑顔が重なったのだから。
「この耳飾、元は、別々にあった紅玉と蒼石を対にし、耳飾にしたものなんです」
青年は穏やかに笑う。
「最初は嫌がって良い品にならなかったのですが……今はほら、とてもいい品に」
そうでしょう? と尋ねてくる青年に、私は黙って頷いた。
切符の代金を断れば、なら、とお茶を勧められた。
骨董品を見ながらお茶を飲んで、私は店を後にする。また来て下さい、と見送られた。
表通りに出る前に、振り返り、店を見た。
そこだけ時の流れが違うように、ゆるりとした空気が店を包んでいるような気がした。
ただいま、と弾むような声が耳に蘇る。
おかえり、とただ愛しげな優しい声が耳に蘇る。
私は酷く穏やかな気持ちで、帰路に付いた。
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