31・血 file.3


「私」

 少女は正面に座った男を上目遣いに眺めながら言った。

 奢ってもらったジュースはとても美味しい。やはり有名どころの喫茶店は違うなぁ、なんて、サツキは考える。



「私…」

 少女は繰り返す。



「正直に言うと、お母さんの跡を継ぐ気なんて、無いんです」

「…そう、ですか?」

「お母さんが何していたか知ってます。ええと、単身で敵陣に殴りこみかけて、力ずくで情報掻っ攫ってきてたんですよね?」

「…諜報活動です」

「似たようなものです」

 サツキは笑みを見せた。



「話、もういいですか?

 私、これからバイトあるんです。

 うち両親居ないの知ってますよね? 下に弟が二人、妹が一人居るんです。この子たちを私が養ってあげないと」

 あ、と、サツキは小さな声を上げた。


「一応言っておきますけど、お母さんの最期を知ってるから遠慮してるなんて思わないで下さいね」

 臆病者だと思われたくない。

 そう考え、サツキは言葉を続ける。

「拷問の末に殺された、って言うけど」

 サツキはもう一度笑みを見せた。「子宮抉り取られても、呻き声ひとつ上げなかったって言うお母さんを、私、心から誇りに思ってますから」




 それじゃあ、と、サツキは男に小さく頭を下げ、喫茶店を後にした。





 サツキは17歳。

 高校生活と、特例で許可を貰っているバイトで大忙しの少女だ。

 少年のように短く刈った髪に、大きな瞳。伸びやかな手足は、成長期の少年を思わせる。






 夜。

 バイトを終えて、サツキは夜の街を歩く。

 未成年の少女が歩くべきではないだろう、賑やかな、だが、汚れた…醜い街だ。

 彼女は慣れた様子でひとつのバーに入っていった。



「マスター」

 店の主人を呼ぶ。「着替えるから奥借りるね」

「ああ、どうぞ」

 初老の主人が頷いた。

 店の奥の個室に入り込み、サツキはごそごそと服を着替える。一応ドアはあるものの、彼女の着替え風景は半ば、シルエットとなって店の中に見える。

 彼女は気にした様子は無い。

 マスターもまったく気にしてなかった。


 数分後、彼女は服を着替え、出てくる。

 


 カジュアルながらも少女らしさを残していた先ほどの服装とは大きく違う。

 殆ど下着と変わらないだろうサイズのカットジーンズと、前のボタンとひとつだけ止めた短いシャツ。シャツの隙間からは紅い下着が見えていた。

 男物かと思われる頑丈そうなブーツに、そして、目立つのは額に結ばれた鉢巻だ。

 頭の後ろで結んであるのだが、異様な長さである。黙って立っていると、その端は床に付きそうだ。



「マスター」

 サツキは問う。「今日は、誰?」

「裏で待っているよ」

「そう」

 なら、早くしなくちゃ。



 彼女は自分に言い聞かせるように囁くと、主人にもう一度笑いかけ、裏口から出て行った。




 狭い空間がそこにある。

 いや、本来ならば広い空間だ。

 だが、多くの人間が集まり、そこは奇妙に狭く感じさせる場所となっていた。










 多くの人間が丸く、中央を空けて集まっている。

 中央には大柄な男が一人。

 サツキは男に微笑みかける。



「遅れて御免なさい」




「さ、賭けて」

 サツキは周りに声を張り上げる。「私か、こいつ。どっちか、賭けてよ」

 周りのざわめき。

 賭けの係りらしい数名が、見物客たちの間を駆け巡る。

 それが終わったのを確認し、緩やかにサツキは構えた。



「さ、始めましょう?」

 男は無言のまま頷いた。










 夜の街で、違法に行われる賭け試合があると言う。

 そして、その試合に、まだ歳若い少女が一人、参加していると聞く。









 サツキは意識する。

 男が放つ攻撃を掻い潜りながら、意識するのだ。

 自分が額に結んだバンダナ。それがどのような動きをしているか、を。

 本来ならば闘いの最中にそんな事を考えるのは、相手にも失礼だし、集中力が削がれる。

 だが、そがれた方がいいのだ。

 闘いに夢中になってはいけないのだ。



 円を描く。

 ゆるり、とサツキの身体を包む。

 直線の動きを持って落ちる。

 真っ直ぐ後方へ、伸びる。




 握った拳に絡みつく布地。

 それを意識しつつ、サツキは体重を乗せた拳を相手に放つ。

 ひとつ、ふたつ、それから、みっつ。

 相手のガードが崩れたのは、いつつめの攻撃。

 がら空きになった胴体に飛び込み、それから、彼女は笑みと共に相手の顎に拳を打ちつけた。

 倒れる男にサツキは全体重を乗せた拳を、その喉に叩き込んだ。





 気絶した男。立ち上がるサツキ。

 拍手に迎えられ、彼女はとびきりの笑顔を見せる。







 深夜。

 サツキは既に誰も居なくなった闘いの場に一人、座っている。

 空を見上げる。

 星など無い、その空間。露出の高い服装故、夜風が肌を冷やしていく。

 だがサツキは動かない。

 ゆっくりと、空を見上げている。






 己の中に奇妙な衝動があるのに気付いていた。

 恐らくそれは、母から譲り受けた血なのだろう、とそう思うのだ。

 だが――





 ドアが開く音がした。

 サツキは振り返る。

 そこには、昼間、サツキに話しかけてきた母親の古い知り合いと名乗る男と――



「…あ」


 サツキは小さな声を上げ、立ち上がった。

 もう一人の男。

 細身の、大柄とは言えない男である。

 だが違った。

 今まで会った男とは、まったく違う。

 気配が。いや、その存在自体が。




「その人と、闘わせてくれるの?」

 母親の古い知り合いは、笑顔で頷いた。

 笑顔のまま身体を横に引く。

 存在自体が違う男はサツキと対面する。





「私、サツキ」

 貴方は?


「4276」



「よん、に、なな、ろく?」

「試験体に名前は要らない」

「そう」





 試験体の意味も分からぬまま、サツキは身構えた。





 拳のひとつ、攻撃のひとつ、呼吸のひとつ。

 何もかもが楽しかった。

 4276と名乗った男との戦いは、楽しかった。

 男の拳がクリーンヒットしたのならサツキの骨ぐらい簡単に砕け散るだろう。

 だけど、楽しい。

 鉢巻の動きなど意識している余裕が無い。




 闘いだけに夢中になれた。



 闘いだけを、意識出来た。





 男の拳がサツキの防御を掻い潜り、彼女の身体にぶち当たる。

 死ぬ。

 死ぬだろうその瞬間、サツキは笑う。

 男の真っ向からの殺気を受けて、それが何よりも嬉しいことだと、彼女は、笑った。




 が、拳は彼女の胸で停止。

 シャツのボタンを弾いただけである。




 下着を晒し、サツキは力なくその場に座り込む。




「なんで…殺さないの?」



 4276は答えなかった。

 代わりに、母の知り合いと言う男が応える。





「殺すのは我々の目的とは一致しません。

 言ったでしょう? 貴女を大会へと誘いに来たと」

「でも、私、その人に負けたよ」

「貴女は戦闘訓練を一度も受けていない。それでその動きが出来るなら、大会開催までの一月で、どれだけの動きが出来るようになるでしょうか」




「強くなりますよ、貴女は」








「…ねぇ」

 サツキは掠れた声で問うた。

 己の身体を抱き締め、問うた。


「その大会、強い人は出るの?」

「この4276よりも強い人たちがね」

「…あぁ…」

 サツキは掠れた声で笑った。

 想像しただけで頭の芯が溶けてしまいそうだ。

 気持ちいいだろう。

 それだけ強い人間と闘えるなら、気持ちいいだろう。






 己の中の奇妙な衝動。

 闘いを好む、争いを求める、その血。

 母が持っていた、そしてそれ故に死んだ呪われた血。

 封じるべきだと分かっていた。 

 闘いに夢中になってはいけないと分かっていた。

 だが、サツキには、何も出来なかった。



 立ち上がる。

 



 男に向かって手を差し出した。





「連れて行って」





 男は笑みを持って頷いた。







 サツキの脳内には、もう、闘い以外の何も、残っていなかった。

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