35・誓約 File.4


 老人は毎朝5時半に起きる。

 人里離れた山の中。完全な自給自足とは言い切れないが、それに近い生活を送っている。

 一月に一度だけ山を降り、人里へ必要なものを買いに行く。

 それ以外、完全に人の世と離れて暮らしていた。



 老人は家の前に置いた、手作りのベンチに腰掛ける。

 本を片手にゆっくりと空を見上げる。

 分厚い書籍。

 『神曲』。

 そう刻まれたタイトル。

 何度も読み、汚れきった本だ。





 老人は老年に差し掛かる頃にこの本と出会った。

 地獄を巡る男の物語に、彼は、何故か自分の生き様を重ねたのだ。



 それ以来、彼は己の過去を捨てる事にした。

 一人娘を生んだ直後に妻は死に、そしてその一人娘が彼を捨て、遠くへと去っていったのも、きっかけのひとつだったかもしれない。





 老人は本を読む。

 ゆっくりと文字を追う。

 己の脳内で記憶している文字と、本の中身に食い違いが無いかを確認するように、一文字ずつ。





 ふと、視界に影が差す。




 老人は顔を上げぬまま、言った。






「この老人に何の用だ」

 頁を繰る。「私はもう役に立たない老いぼれだ」


 老人の前に立つ男は薄く笑みを浮かべた。




「役に立たないとはご謙遜を。

 貴方の名前を知らない、裏世界の人間は居ませんよ」

「昔はそうだったのかもしれないがね。

 今、ほれ――」

 老人はズボンの裾をめくり、右足を見せた。

 そこには金属の脚が見える。


 老人の右足は義足だった。




「この通り、片足を失った老人だ」

「それでも、貴方はまだ伝説の人間だ。

 お忘れになったと言うのなら、語りましょうか、貴方の伝説を」




 とある国で働いていた破壊活動専門の工作員。

 いや、違う。

 彼はただ破壊するのが、戦いが好きなだけだったのだ。

 現に、その小さな国が滅ぶと同時に、彼はフリーとなった。

 そこでも破壊活動を行い続けたのだから。






「噂に聞けば、貴方は自ら右足を切り落とされたそうで。

 …もう二度と闘わないと言う、己に対する誓約ですか?」

「勝手に考えていてくれ。

 さぁ帰った帰った。私はこの本を読むのだから」





 ぽつり、と、男がひとつの名を口にした。



 今まで男と視線を合わせなかった老人は、そこで、弾かれたように顔を上げ、男を見た。






「ご存知でしょう、この名を」



 男は言う。





「貴方の一人娘の名前です」

「………」

「彼女がどうなったか知りたくないのですか?」

「……」

 老人は答えない。

 だが、男から視線を逸らさない。






「亡くなったそうですよ、娘さんは」

「……そう、か」

 老人は呻くように呟いた。





「ただ、貴方のお孫さんが生きていらっしゃる」

「……?!」

「サツキ。東の方で…そちらの国の男性と結婚されて、生まれたお子さんにそういう名前を付けられたそうです」






「そして、そのお孫さんは、今、我々と共にいらっしゃいます」

「…何故」

「戦いたいそうですよ。

 強い相手と、命を失うか否かの闘いを行いたいそうです」






 ああ、と老人は呻き、本を膝の上に、顔を覆った。







 娘を思い出した。

 娘が、自分の下から消え去る日を。








 ――お父さん、私は闘うのが好き。

    自分より強い相手を思うだけで死にそうなぐらいわくわくする。

    私にとって、闘う事が生きる事。

    

    それで死ぬなら…後悔なんてしない。





「…孫を…止めてくれ」

「どうしてですか?

 私たちは強い戦士を求めている。貴方のお孫さんなら理想的な戦士だ」

「私たちの血は危険過ぎる。死を求めているようなものだ! このままでは、その子も…」

「貴方が止めるべきなのでしょう、祖父として」



「…………私に戦いに赴け、と?」

「えぇ、そうです」

 微笑。「お孫さんを止める為、と思えば…宜しいでしょう?」






 老人はゆっくりと立ち上がった。ベンチに立てかけてあった杖を手に取り、それでもすっくと立ち上がる。

 膝の上に乗せていた本が地面に落ちた。





「…すぐに用意をしよう」

「えぇ、お待ちしてますよ。マークドゥさん」

「……」

 老人は本に見向きもせず、ゆっくりと、だがしっかりとした歩調で、家へと入っていた。






 結局、だ。

 老人は嘲りの笑みを浮かべる。

 私は片足を切り落とし、死から逃れたつもりでいた。

 しかし…私は自ら地獄に行く。


 導く天使は居ない。救いなど無い。先導者など存在しない。

 その、地獄に。






 老人は前を見た。





 そしてもう迷わなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る