7・後継者 File:1
男と初めて会ったのは、薄汚れた生まれ故郷の街だった。
この辺りに慣れていないのだろう。男は案内人一人連れ、その街にやってきた。
興味深げに辺りを見回す様は初心者そのもの。
イイ獲物だ、と、少年はほくそ笑む。
隠れていた角から飛び出し、男の身体にぶつかった。
「御免よ!」
謝って、そのまま走り出す。
――いや、走り出そうとした。
がしり、と。
男の手が、少年の襟元を掴み上げている。
まるで猫のように持ち上げられ、今年で13歳になる少年はぎゃんぎゃんわめいた。
「何だよ、離せよ! 変態!」
「離すのはいいが」
男は苦笑。「今盗んだ俺の財布を返してくれないか」
「………」
気付かれていた。
スリの技を気付かれたのは初めてだ。
手先の器用さと俊敏さなら誰にも負けない自信があったのに。
ぐっと男を睨み付ける。
東洋人らしい男。三十代はじめ、と言う所か。
少年は身体を捻る。逃げ出そう、と言う動きではない。
襟首を掴まれたまま、器用に身体を捻り、男に蹴りを放ったのだ。
男が低く呻き、驚いたように手を離した。
身体が自由になった途端、少年は前に飛び、そのまま走り出す。
少し距離を置いて、呆然とこちらを見る男にべぇ、っと舌を出した。
数日後。
男は、案内人も連れずにやってきた。
少年の育ての親であるマリアに話を付けてやってきたものだから、少年は逃げられない。
マリアは元娼婦で、今は客から貰った性病に冒された老女だ。
だけど、行き場の無い捨て子や孤児を拾って育てる彼女を、この街の人間は『聖女』と呼ぶ。
「ハオ、お客様よ」
マリアに言われ、少年――ハオは逃げられない。
ぐっと、男を睨み付ける。
男は嬉しそうに笑い、ハオの前に屈み込んだ。
「アンタの財布はもうねぇよ」
何か言われる前に言ってやる。「全部使っちまった」
「ああ」
男はようやく思い出したようだ。「そうか、財布を盗まれていたんだったな」
「忘れてたのかよ? 馬鹿か、アンタ」
「財布よりも、お前に会いたかったからな。他の事は忘れていた」
ぽかん、とハオは男を見る。
「俺に、会いたかった?」
「ああ、お前、誰かに戦い方を習ったか?」
「習ってねぇよ」
「そうか……独学であの動きか」
男は楽しそうだ。
「お前…ハオと言ったな。
戦い方を…覚える気は無いか?」
「…なんで?」
ハオは身構える。
男の理由が分からない。
戦い方。それを覚えられるのなら嬉しい。力はあっても困らない。
だけど、何故にそれを男が教えてくれるのだ。
男は、少しだけ寂しそうな表情を浮かべた。
「一度だけでいい。
誰かに、教えてみたい」
「………」
ハオ、と沈黙を守っていたマリアが言う。
「教えて頂きなさい」
「マリア」
「貴方なら、力を得ても間違う事は無いでしょうから」
私は信じています、と、マリアは既に光を殆ど捉えなくなった瞳で笑った。
男を見る。
男が笑って頷いた。
ハオも、小さく頷き返した。
それから、ハオの生活は変わった。
男が寝床にしているホテルに向かい、その裏手で彼に戦い方を習うのだ。
拳の握り方から、構え、踏み込み、呼吸の仕方。何もかも、ひとつずつ。
男は根気良く、何も知らないハオに教え込む。
ハオの元来の身体能力を生かした戦い方を、教え込んだ。
やがて、ハオは男の元へ向かうのが楽しみになってくる。
男の喜ぶ顔が見たくて、一人、こっそりと鍛錬を積んだりもした。
マリアや、同じように彼女に育てられている仲間たちの前で、教えて貰った型を行うのも楽しかった。
修行が終わると、男と話をする事も多かった。
男は殆ど語らず、ハオばかりが言葉を綴る。
自分の事も語った。
母親は、マリアが可愛がっていた少女娼婦で、ハオを生んですぐに客に殺された。父親は知らない。
男は、ハオの父親を「東の国の人間だろう」と言い切った。
ハオの肌の色、髪の色、そして、その体躯。何処を取っても、男は自分と同じ国の出身だろう、と言い切ったのだ。
ハオは思う。
どうせなら、この男が父であればいいのに。
少しだけ迷って、ハオはそう口にした。
男は、目をまん丸に見開いて驚き、それから、ハオを抱き締めてくれた。
「俺はお前に全てを伝える事が出来るのを誇りに思う。
ハオ。
お前は真っ直ぐであれ。
誰よりも、誰よりも、真っ直ぐであれ」
呪文のように囁く言葉。ハオはそれのひとつずつに頷いた。瞳を閉じ、己が中にその言葉を刻み込んだ。
男は、一年ほどハオの傍にいた。
最後は、父と呼び、ハオは心から彼を慕った。
だけど、男はハオの前から姿を消した。
とある格闘大会に参加する為に、ハオの前から姿を消したのだ。
ハオは男の帰りを待つ。優勝報告と、そして、彼の活躍を、彼自身の口から聞く為に。
しかし、ハオの元にもたらされたのは、男の死の通知と、彼の全財産をハオに送ると言う遺言状だった。
男は、その大会において、他の参加者に惨殺されたと言う。
ハオはその報告をじっと聞いていた。
そして。
受け取った遺産をすべてマリアに渡し、ハオはその街から姿を消した。
三年の月日が流れた。
酒場。
そこで、テーブルに向かい合って座った二人の男が、テーブル横に立つ少年に話して聞かせる。
「ああ、知っている。その格闘家」
一人が笑う。
「自分の師匠が、金儲けの為にイカサマ試合してるの知って、半殺しにしたヤツだろう?
で、表の格闘大会に出られなくなった」
「でも裏の格闘大会で結構荒稼ぎしてたよな?」
「ああ、確かに。
…何だったかな。どっかの格闘大会で、ぶっ殺されたんじゃなかったか?」
「――その殺した相手、って分かるか?」
まだ若い声。
声の主は、16歳に成長したハオだ。
テーブルに付いた男たちが顔を見合わせる。
「知ってどうするんだ?」
ハオに問う。
ハオは笑う。
「決まってんじゃねぇか。親父が負けた相手ってのをぶっ飛ばしに行くんだよ」
「親父?」
男たちはまたもや顔を見合わせる。
彼等が知っている格闘家に、こんな大きな子供が居るとは思えない。
ハオは何とかその相手の名前を聞き出す。
そして、その人物が今参加している大会の名前まで、聞き出したのだ。
ハオの顔には笑みが浮かんでいる。
敵討ち、なんて陰気くさい事は言わない。
ただ、親父よりも強い相手がいると言うのなら、俺の方が強いって、親父のすべてを受け継いだ俺の方が強いって、証明してやる。
ハオは真っ直ぐに歩き出す。
真っ直ぐであれ。
父であり、師である男の言葉を胸に。
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