48・硝子の檻



――ねぇ、私を此処から救い出して。



 昼なお暗いその場所で、硝子の向こうの彼女に囁かれた。


 たゆたう長い黒髪に、海の色した綺麗な瞳。微笑む表情はただ優しく、白い両手は硝子にぺたりと貼り付けられ、こちらとの距離を明確に。




――ねぇ、あなた。おねがい、私を此処から救い出して。




 私に?






 ぼんやりとした思考のまま、私は硝子に近付く。

 彼女の笑みはよりいっそう鮮やかに。

 




 硝子。

 彼女を真似るように、ぺたり、と。






 硝子。

 此処を、割ればいいのか?

 そうしたら彼女と会えるのか?




 私は、手に力を入れる。









「――お客様」


 背後から声を掛けられた。

 私は慌てて振り返る。

 此処の従業員らしい男が、薄く笑みを浮かべ、立っていた。




「お気を付けて。

 それは時々、人を騙します」



 それ、と示されるのに改めて視線を注ぐ。




 硝子の向こう。

 諦めたようについ、と身を翻すのは、奇妙な形の深海魚。

 人の姿など、到底していない、異形。






 そうだ。此処は水族館。

 深海魚の水槽は、昼なお暗く、私はゆっくりとそこを歩いていただけだ。



 今のは、と私は男に問う。

 男は何も言わずに笑みを深めただけ。






「ごゆっくり、どうぞ」



 男は私に一礼し、そのまま立ち去った。





 深海魚の水槽に視線を戻す。

 既にそこには彼女の姿は無く、あるのは硝子越しに、狭い空間に身を揺らす、異形の魚が一匹だけであった。

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