65・真夜中だけのママ



 ビルの屋上から見下ろす街は思ったより綺麗で、俺はフェンスから身を乗り出し、小さな声を上げた。

 地上の明かりで星は見えないけど、何、これだけ綺麗な光が地上にあるなら文句は言わない。


 俺は少しだけ楽しくなって口笛を吹いた。

 音楽なんてろくに知らない。

 学校の教科書に載っていたような、古い曲だ。



 ふと。

 俺は気付いた。

 俺の口笛。

 それに乗る歌声がある。



 俺は慌てて振り返る。


 少し離れた場所に、小さな女の子が立っていた。

 真っ直ぐ伸ばした黒髪が、真っ白な上着の肩に掛かっている。長いスカートも白だ。靴も白。

 闇夜に浮かび上がるような、白色。



 女の子は俺が口笛を止めたと言うのにまだ歌い続けた。

 黒い瞳で俺を見て、ずっと。


 やがて、歌い終える。



 それから首をかしげ、小さく微笑んで見せた。






「おにいちゃん、だぁれ?」

「誰だろうなぁ」

「わからないの?」

「誰でもなくなるから、もう少しで」

「なくなるの?」

「そういう予定だった」



 フェンスに寄り掛かかって座り込み、俺たち二人は話しこむ。



「なぁ、知らない人と一緒に居ちゃ駄目だろ。親に怒られるぞ」

 一応、言ってみる。

 真夜中。もうすぐ二時だ。こんな時間に子供をうろつかせている親が、怒るような親じゃないと思うけど。

 案の定、女の子は床に伸ばした脚をぱたぱたさせ、言った。

「ママ、朝にならないと帰ってこないの」

「お仕事?」

「しらない」

 女の子は本当に興味なさげだった。




「おにいちゃんのママは?」

「お兄ちゃんにママは居ないの」

「どうしたの?」

「さてね」


 女の子は俺の瞳を覗き込んだ。

 黒目がちの大きな瞳。

 それがすぃっと細められ、笑み。



「わたし、ママになってあげようか」

「ママに?」

 俺は苦笑。


 女の子は続ける。

「わたし、やさしいママになるよ。夜はちゃんと一緒に寝てあげるし、おやすみのキスもしてあげる。手をつないでお散歩もしてあげる」

 そういうのがこの女の子の『やさしいママ』の基準らしい。


 そして、この子は普段、そういう事をしてもらったない事も、分かった。




 俺は笑う。



「なら、ママになってよ」

 女の子は俺に向かって笑って見せた。



 女の子の小さな身体に寄り添う。

 座る女の子のおなかに、顔を埋めるように、抱きついた。

 


 幼い両腕が俺の頭を抱き締める。薄い胸に抱き寄せる。

 小さな鼓動が聞こえた。




「――ママ」

 俺は瞳を閉じて呼んでみる。

 女の子は小さな小さな両手で俺の頭を撫でた。






「さびしそうね」

 女の子が大人びた口調で言う。



「寂しいよ」

 俺は言う。


「寂しいから、寂しいから、死のうと思って此処に来たんだ」

 屍体になれば寂しいのも無くなるかと思った。

 思ったのだけど。



「死んでも、寂しい、だけは残りそうだな、って思った」




「だいじょうぶ」

 女の子が笑う。




「ママが居るからだいじょうぶ」

「……うん」

 俺は酷く安心した気持ちになって、笑った。




「おやすみのキス、してあげるね」

「うん」

 頬に小さなキスをひとつ。

 俺は安心して瞳を閉じる。



「さびしくないように、一緒に死んであげようか?」

「いいよ」

 俺は言う。

 少しばかり、笑って、瞳を開き、女の子――いや、ママを見上げる。



「ママが居るから、寂しくない」




 俺の言葉に応えたのは、優しいママの笑みだった。

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