13・鬼 File:2
「――あにさま」
幼い声が聞こえた。
彼はぴくりと身体を震わせた。
四肢は壁に繋ぎとめられ、瞳は皮製の目隠しで封じられ、口も馬のように棒を咥えさせられている。それでも僅かに自由になる顔を、声のほうに向けた。
「こんやは、まんげつですのね」
幼い声が笑みに揺れる。
目が見えなくとも分かる。
この暗い地下牢。そこに、壁に縫いとめられた醜い自分と、紅い振袖を纏った幼い少女が閉じ込められているのだ。
「さやは、おつきさまをみたいです」
小夜。
彼の妹。
生まれてすぐに此処に閉じ込められた、哀れな少女。
親たちは何も思わなかったのか。
鬼である男と共に、幼い少女を閉じ込める事を恐れなかったのだろうか。
彼は鬼だ。
幼い頃はそうではなかった。
人よりも優れた身体能力を見出され、闘う術を父の知り合いから習っていた。それ以外はなんのとりえもない、平凡な少年だった。
だがある日。
彼は、人を殺した。
10歳になるか否かの少年が、自分の倍の体躯の男を、文字通り捻り潰したのだ。
覚えている。
手の中ので骨が軋み、肉が弾け、筋肉が千切れていく感触を。
断末魔の悲鳴を、助けを呼ぶ哀れな声を。
そのすべてを受け入れ、彼は、人を殺した。
己の名前は覚えていない。
ただ鬼と。
もっとも尊敬していた父から、もっとも愛していた母から、鬼と呼ばれ、恐怖され。
少年は、此処に閉じ込められた。
残されたのは、唯一、妹。
鬼となった兄から離れず、一緒に閉じ込められてしまった幼い少女。
彼は心から妹を愛しいと思う。
妹の為ならば何でもしよう。
「あにさま」
妹が笑った。
「さやは、おつきさまが、みたいです」
月。
この地下牢からは月は見えない。
ならば。
と、鬼は全身に力を入れる。
四肢を繋ぎとめる鎖。女の腕ほどもある太い鎖を軋ませ、彼は壁から身体を離そうと試みる。
壁が軋む。同時に、彼の身体も悲鳴を上げる。
僅かな時間を置いて、壁からぼろりと鎖が抜け落ちた。
彼の腕力に壁が勝てなかったのだ。
「あにさま」
駆け寄ってきた妹の小さな身体を抱き上げる。ひんやりと冷たい、だけど心地よい、柔らかい身体。
妹の身体を肩に乗せる。妹の小さな腕が、そっと彼の頭を抱き締めてきた。
「おつきさまをみにいきましょう?」
彼は声無き声で頷いた。
外へ出るのは簡単だった。
彼が地下から出てきたのに気付き、この家の人間たちが騒ぎ出したが、妹を片手で支え、もう片方の手で掴み、捻り上げるだけで大人しくなった。
妹がきゃらきゃらと澄んだ笑い声を響かせる。
楽しそうだ。
妹が嬉しそうなら、男も嬉しい。
やがて外へ出た。
気付けば、全身が妙に湿っぽい。
返り血、と言う言葉が一瞬浮かんだものの、妹の弾んだ声ですべてが消えた。
「おつきさま」
愛らしい声。
「あにさま、おつきさまよ」
彼は顔を上げる。
目隠しできつくきつく戒められた瞳でも、降り注ぐ月光は感じられた。
月光も、そして、風も。
外だ。
彼は改めてそれを感じる。
ふと。
妹が、彼の頭をいっそう強く抱き締めてきた。
「――だれ?」
不安そうな声。
彼は妹の声に引きずられるように身構える。
いまだ彼の身体を半ば拘束する鎖に今更ながら気付いた。
気配。
誰かが、居る。
いや、居るのか?
闇が深くなっただけのような気がした。
「――どうして」
若い女の声だった。
「優しい闇から自ら抜け出し、残酷なこの場所に現れるの?」
「……?」
妹は何も分からなかったようだ。
怯えたように、彼にますますしがみつく。
彼は妹を庇うように半身を引き、深いだけの闇と対面する。
「この月明かりで、貴方の醜い姿は曝け出されている」
びくり、と彼は身を竦ませる。
そうだ。
外は、彼の姿を隠してくれない。
月が、異形の鬼を浮かび上がらせる。
「望むものは得ていたでしょう? なら、それ以上は望むべきではないわ」
望むもの。
ああ、確かに。妹が傍に居るなら、彼はそれで良かった。
外に出るなど、望むべきではなかったのか。
「――闇に、帰りなさい」
女の声。
気配が動いた。闇が、広がる。
彼は動けなかった。
「あにさま」
幼い声。
それで呪縛が解けた。
彼は妹を片腕で庇ったまま、闇の気配に向き直る。
見えない筈の視界の片隅で、何かが光った。
刃。
彼は咄嗟にそちらに向かって動く。刃があるなら、その先に、それを操る者が居る筈だ。
刃が肉を裂く。痛み。だが、妹が無事ならば。
刃を頼りに、拳を突き出した。
闇に触れる。
否。
闇ではない。
柔らかい、女の身体だ。
拳に触れたその肉に、彼は踏み込みも加え、拳を打ち込んだ。
一撃でいい。
一撃があれば、柔らかいだけの女の肉は砕け散る。
「――リィハイ」
男の声。
柔らかい肉が、彼の拳から逃れ、後ろに飛んだ。僅かに拳を打ちつけたに過ぎない。ダメージは無いだろう。
「彼は“ゲスト”だ。
……それとも、これが、君流の歓迎方法かな」
「…いいえ」
女の声が答えた。「…ごめんなさい」
「だぁれ?」
ことり、と妹は首を傾げた。
「失礼」
男の声が笑う。「君たちを呼びに来たものだよ」
本来なら、と男は続けた。
「地下までお迎えに上がるつもりだったが、それは不要だったようだね」
「そうね」
妹がくすくすと笑った。
恐らく、紅い袖元で口を隠し、闇色の瞳をついと細めて。
「さやもあにさまも、でてきてしまったもの」
「わかっていたのよ?
ちゃあんと。
あかいにおい、くろいにおい、いいにおい、ちゃあんと、さやまでとどいていたわ」
「それなら話は早い」
来てくれるね。
男の言葉に妹が頷いた。
妹の行動の意味が分からず、鬼は困る。
だが、妹の腕が彼の頭を抱き締めた。
「あにさま、だいじょうぶ。
いっしょにいきましょう?」
何処へ?
「とおく、とおくよ。
いいにおいいっぱいの、たのしい、たのしいばしょ」
妹の声が楽しげだ。
笑みをたっぷり含んだ声。
妹が嬉しそうならば、それでいい。
彼は、そう思うのだ。
故に、頷いた。
…風に乗り、小さな声が届いた。
リィハイ、と呼ばれた女だ。
かわいそうに、と、囁く声。
彼を哀れむ意味の言葉だった。
醜い姿を光に晒し、そして突き進もうとする彼に向けての、哀れみの。
それでもいい、と彼は思う。
妹の優しい重みを肩に感じ。
月の光の下。
彼は、導かれるまま、ゆっくりと歩き出した。
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