11・シリアル act.2
「お前も物好きだな」
中年の刑事は、テオの後姿を眺めながら咥え煙草でそう言った。
テオは男に答えない。この署に集められた事件記録を見るだけで精一杯だ。
殺人の記録。
犠牲者は女性に絞っていい。若い女だ。
「故郷じゃエリートだったんだって?
でもよ、この水上都市――『S』に来ちまった以上、出世なんて出来ないぜ」
まぁ、と男は笑った。「殉職すりゃあ、出世出来るけどな」
「――出世なんて望みませんよ」
テオは答える。
童顔の青年。柔らかそうな金髪が顔に掛かっている。
その金髪に包まれた童顔に相応しく無い程、瞳の色は、強い。
憎悪で彩られた殺気。緑の瞳をその色で染めている。
「俺は、一人の殺人鬼を死刑台に送れるなら、それでいい」
「殺人鬼? どれの事だい。自慢じゃないが、犯罪者の数だったら他の都市には負けないぜ」
ぎり、と。
テオは奥歯をかみ締める。
整った顔を醜く、獣のように歪ませ、言った。
「ビアンカ――ビアンカ・ロンギス」
その名を呟くテオの表情の凄まじさに、幾多の修羅場を抜けてきた男も、沈黙した。
ぽとり、と、男が咥えていた煙草から灰が落ちたが、それを気にする様子も無かった。
――やがて、テオは望む書類を纏め、その場を去る。
すっかり短くなった煙草を、唇が火傷する寸前で灰皿に捨てる。男はそれからテオの過去をぼんやりと思い出していた。
天涯孤独の身の上だと聞いていた。
たった一人の妹と、殺人鬼に殺され、天涯孤独の身の上になったと、聞いていた。
それ以上男は知らなかった。
その妹をテオが誰よりも愛し、誰よりも幸せを望んでいた相手とは、男は知らない。
そして。
その妹を殺したのは、テオの婚約者であったビアンカ・ロンギスだった事も、男は知らない。
――お兄ちゃん、あのね。
妹の声が、何時でも耳の奥に蘇る。
――ビアンカさんってイイ人ね。素敵な人! 美人だし、優しいし…!
「私の事は姉だと思ってね」だって。ね、素敵だと思わない?
――今、ビアンカさんの家に居るの。今日は二人で遊びに行くから、遅くなるね。
電話越し。そう楽しげに声を弾ませる妹に、テオは苦笑交じりに言ったものだ。
――おいおい、ビアンカは俺の婚約者なんだぞ。お前が独占してどうするんだ?
――だってビアンカさんの事、私大好きなんだもん。友達みたいよ、私たちって、ねぇ?
電話の向こう。近くに居るのだろうビアンカに、妹は問い掛ける。
楽しげに弾んでいた声。
――ね、ビアン……
それが、瞬時、変わった。
悲鳴だった。
テオは思わず耳から電話を離す。
それほど大きな――断末魔と言っていい悲鳴。
テオは妹の名を叫んだ。
電話の向こうから悲鳴が続く。泣き叫ぶ妹の声。そして、ビアンカに助けを求める声。
やめて、たすけて、どうして、いたいの、ころさないで。
たすけて、ビアンカさん。
テオは駆け出す。ビアンカの家に向かって。
到着は一時間ほど掛かった。
車を飛ばしてもそれだけの時間が掛かったのだ。
殺人鬼が一人の犠牲者を思う存分いたぶる時間は、充分にあったのだ。
何度も訪れ、時には一晩を過ごしたビアンカの部屋は、紅く染まっていた。
びくびくと身体を波打たせ、テオの最愛の妹は床に転がっていた。
妹は全裸だった。
ただ、新たな装身具が彼女の身を飾っている。
数多くの火傷だった。
その横に立つビアンカの名を、テオは叫んだ。
ようやくテオの存在に気付いたように、ビアンカが振り返る。黒髪の美しい女。
「あら、テオ」
ビアンカは微笑む。「どうしたの、そんなに慌てて」
何事も無いように、ビアンカは笑う。
そして、手に持っていた小瓶から何か液体を垂らした。
波打つ妹の身体へと。
ほんの数滴。だがそれで充分だったようだ。
ビアンカは優雅な手付きで何処かから取り出したのか。マッチを擦った。
そのマッチを、狙いを外さず、先程落ちた液体の上に、落とした。
凄まじい悲鳴が上がった。
それと同時に妹の身体が、液体が落ちた箇所が燃え上がる。
テオは叫んだ。妹の身体に駆け寄る。
ほんの短い距離だった。
ビアンカが笑った。
高い、透き通った笑い声。
テオが大好きだった綺麗な笑い声だ。
その笑い声を響かせながら、ビアンカは小瓶の液体を妹に振りかけた。
まだ炎は残っている。
その液体を頼りに、炎は、妹の全身を舐め上げた。
テオは叫び続ける。叫び、妹の身体を叩き、火を消そうと試みる。
掌が焼け焦げ、嫌なにおいが新たにあたりに広がる。
ずるり、と。掌の下で違和感。
みれば、妹の焼け焦げた皮膚が剥け、紅い肉を露にしているのだ。
テオは炎も気にせず、妹の身体を抱き締めた。
助からない。
妹は、死ぬ。
「どうして…! ビアンカ、どうして…!!」
「だって」
ビアンかは笑った。「私の事、親友だって」
「それが…なんだって…」
「私、親友なんて要らないの。
可愛い妹が欲しいのよ。
なのに、親友なんて…。
私に期待を持たせた罰、受けてもらっただけよ?」
それだけよ、と彼女は笑った。
それだけ?
それだけの理由で、妹は、殺された。
テオは獣のようにビアンカに飛び掛った。
だが、その行動も彼女は既に予測していたのだろう。
笑みのまま、黒髪の魔女は、テオの腹を刺した。
小型のナイフを、笑みのまま、横に引く彼女は。
テオが知る中で、もっとも美しいビアンカだった。
テオが意識を取り戻した時、ビアンカは既に何処にも居なかった。
残されたのは、妹の死と、すべてを奪われた哀れな男という現実だけだった。
テオは泣いた。
泣きながら、叫んだ。
ビアンカへの憎悪を、殺意を、すべて、すべて。
その瞬間から、テオはビアンカを追うためだけの存在となった。
ビアンカがこの街に逃げ込んだのは知っている。
テオは紅く染まる街の中、足を止めた。
ゆっくりと、血色の世界を見上げる。
「――必ず、お前を裁いてやる」
ビアンカ、お前を。
瞳を閉じれば思い出す。
黒髪の、テオが知るもっとも美しい女。
憎悪と、そして、それ以外の感情に瞳を染めて、テオはゆっくりと歩き出す。
血色の街の中、たった一人の女を捜し、歩き出したのだ。
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