52・ヴァルティア
奇妙な噂がある。
インターネット。差出人不明で届くメールがあると言う。
メールに添付されているのは簡単なプログラム。
それだけ。
タイトルさえ無いそれを、殆どの人間は削除してしまうだろう。
だけど、何人かの物好きは、そのプログラムを実行する。
何もかも――恐らく、運命さえも書き換えるプログラムを。
甲高い音が響いた。
「くそっ!」
俺の目の前に居る男が毒づいた。
男の視線の前には、俺が展開した結界が張り巡らされている。
結界を破壊する方法は、結界を作り出した“主”の意識を絶つ事。
気絶させるなり、殺すなり、するしかないのだ。
男は俺に向き直ると叫んだ。
「てめぇだな、この辺りで“主”狩りしてるって言うヤツは?!」
「どうだろう?」
俺は答える。「俺は確かに他の“主”を狩っているけど……“主”なら……多かれ少なかれ、他の“主”を狩るものだろ?」
男は小さく何かを呟いた。
呟き、握り締めた右手の拳を、俺に突きつけるように叫んだ。
「死んでたまるかってんだ!」
その叫びが呼び声。
「“魔道師”第三師団『ユーリダ』、召還!」
相手は魔道師か。
第三師団。結構上位の方だ。
俺の思考の間に、男の拳周辺に光が集まり、それが形となる。
長いローブを纏った若い女。半透明のその姿が徐々に確かなものとなる。
両手の代わりに翼を持つ単眼の魔道師が、その場に具現する。
魔道師が吼える。ユーリダと命名された魔道師が、“主”の命令を守る為に、現れる。
俺は両手を上着のポケットに入れたまま、呟いた。
「四方の守り手“戦士”第一師団、第一位『ヴァルティア』、召還」
俺の呟きに合わせ、現れたのは、女。
鎧を纏った、長い髪の女だ。
肩口から二本ずつ、計四本の腕を生やした、異形の女。
女は四本の腕に武器を掲げ、一歩、踏み出した。
しゃん、と鈴。
両手両足、六ヶ所に装着された鈴が鳴ったのだ。
ヴァルティアは紅い唇に笑みを与えただろう。
男に向けて。
そう、これから死に行く男に向けて、笑みを。
「だ、第一師団の第一位……」
男が呟く声が聞こえた。
「か、勝てる訳ねぇだろ……!!」
「なら抵抗するなよ」
俺は言う。「ヴァルティアなら、お前も、お前の魔道師も、一撃で殺すから」
男は何も言わなかった。
唇を噛み締めるだけだ。
そして、ユーリダが吼えた。吼え声に合わせて空気が震え、そこに炎の弾丸が生まれる。
己に向けて駆けたその炎を、ヴァルティアは右手の剣で切り捨てた。
嫣然と微笑み、そして、ヴァルティアは歩き出す。
いくつもの呪文を武器で切り捨て、防ぎ。
魔道師をふたつに断ち切り、逃げようとした“主”さえも、切り捨てた。
俺は、小さく息を吐いた。
添付されていたプログラム。
それを実行したのなら、俺に与えられたのは、この四本腕の女だった。
誰が作り出したものかもわからない。
ただ、その添付ファイルを実行した人間には、異形の魔物を呼び出す力を得る。
それだけなら……それだけなら、俺は、このヴァルティアを呼び出しもせず、そのまま生きていただろう。
だけど、違うのだ。
魔物は、結局は魔物なのだ。
人の生命を喰らう。
そして、呼び出された魔物たちが好む生命は、魔物たちを呼び出した人間――“主”の生命なのだ。
俺は、自分が呼び出した魔物に殺されぬ為、こうやって他の“主”を狩っている。
他の“主”たちもそうだ。
皆……他の“主”を狩って、生き延びている。
生命を求める魔物を無視する事も出来ず、他の“主”を狩り、生き延びているのだ。
「主よ」
ヴァルティアの声。
気付けば、四本腕の女戦士は俺の前に跪いていた。
長い髪が地に付き、ゆらりと広がっている。
「我が主よ」
「……どうした?」
「我が闘いは主の望みに叶ったかお伺いしたく」
「……」
俺は。
……ヴァルティアの頭に手を置いた。
「良かった」
ひとつ答え、そして、頷いたのだ。
ヴァルティアは顔を上げた。
そして、おずおずと笑みを浮かべてみせる。
異形の戦士。
生命を喰らう魔物。
分かっている。
分かっているのに、こうやって俺に笑みを見せるヴァルティアは、とても、可愛らしい。
正直。俺の生命なんてどうでもいい。
でも。
ヴァルティアと離れるのだけは……それだけは、嫌だ。
「主よ」
ヴァルティアは言う。
俺の愛しい魔物は、口を開く。
「主の信頼とその魂がある限り、我は万能の武器となり、必ずやその御前に敵の血肉を捧げよう」
俺はその言葉に笑い返す。
生命ではなく、その心を食い尽くされた愚かな“主”として。
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