44・悪魔 file7


 身体が痛い。

 薄暗い路地。そこに広がる血溜まり。

 生暖かいそれに身を浸し、彼は動かない。うつ伏せのまま、それだけは生を示すかのように青い瞳を僅かに動かす。



 カーツ・レキシンは12歳。少女のように可愛らしい容貌をした少年である。

 そして、今、血だらけで倒れていた。




 どうしたら、いいのだろう。



 彼は呟く。

 お母さん、と、呟く。



 身体が痛い。寒いし、とても苦しい。



 きっとお母さんに言えばなんでもしてくれる。抱き締めてくれる、傷だって手当てして貰える。そうしたら何もかも大丈夫。



 でも、どうやったらお母さんの所へ帰れるのかな。

 きっと此処は遠く、遠くて、お母さんが待つ家はきっとずっと、ずっと遠い。

 どうやったら帰れるのかな。

 歩いていけるかな。




 あれ、と、カーツは少しだけ笑った。



 ぼく、どうやって此処まで来たんだろう?






 霞む視界の中で、血溜まりの中、黒い革靴が見えた。

 その足の主はカーツの前で立ち止まり……そして。



「おい、生きてるか?」


 生きてるのかな。

 ぼく、生きてるのかな。

 ねぇ、お母さん、ぼく、頷いていいのかな。








 次に意識が繋がったのは、何処かの室内。

 清潔とは言い難いが、それでも暖かい部屋だ。

 ベッドに横たえられている自分の身体をカーツは酷く奇妙に思う。



 だって、ぼくは。





 記憶。

 ツギハギに。


 向けられた武器。

 怒声。

 血。

 悲鳴、恐怖の。


 そして、お母さん。



「…痛い…」

 頼り無く呟く。

 ツギハギの記憶が酷く痛い。

 頭が痛くて、カーツはそこで身体を丸める。

 


 つん、と。

 ベッドの中で身体を縮めるカーツの背中を、指が突いた。

「……?」

 恐る恐る顔を上げて、見る。






 そこに居たのは、のっぺりとした死人色の顔をした、青年。







 カーツは少女のような悲鳴を上げてベッドから飛び起きた。

 幼い子供のようにわぁわぁ泣き出し、一番近いドアから飛び出す。

 そして一番最初にぶつかった人間に抱きついて、自分が出てきたドアを示した。



「おばけ、おばけが!」

「お化けってのは失礼だな」

 苦笑。


「同居人はちゃんとした人間だ」

 ちょっとばかり顔は悪いけどな、と笑みを潜めた声で言う人物を、カーツは見上げる。

 黒髪の、男。

 顔の右側。右目を貫くように、縦に真っ直ぐに紅い傷跡。

 銜え煙草の、若い男だ。



「ほら、見てみろ」

 カーツの身体を無理矢理に、先ほどの部屋に向ける。

 ドアの隙間から、死人の顔色の人物が、恐る恐る覗いていた。

 その顔の質感が、こうやって見てみると…少し、変だ。


「…ほんものの、顔じゃないの?」

「ああ、お面だ」

「…なんだ。…びっくりした…」

 

 顔傷の男が苦笑。

 ぐしゃり、とカーツの髪を撫でる。

「何だ、じゃない」

 ほら、と抱きつく腕を解かれ、背を、押された。

 謝って来い、と。




 押される背のまま近付いて、見上げた。

 改めてみると、そんなに怖くない。

「あの、ごめん、なさい」

 お面の青年は、ゆっくりと首を縦に振った。

 何の表情も無いはずの顔が、笑った気がした。





 カーツは男たちから話を聞く。

 話すのは、顔傷の男――“葬儀屋”と名乗った――だ。


 彼は言う。

 此処が階層都市と呼ばれる街である事。

 カーツは階層都市のはずれで倒れていた事。

 血だらけで倒れていたが、彼自身、傷は殆ど無い事。


 そしてそれ以上、カーツについては、彼らは、何も知らない。

 だが語る事を求めなかった。



 カーツの過去。

 どうしてこの街に居るのか。

 どうして血だらけだったのか。

 どうして――





「…何も聞かないの?」

「聞くのが仕事じゃないからな」

「追い出したり…しない? 此処に…居てもいいの?」

「好きにすればいい」

 俺もこいつも、と、“葬儀屋”は死人の面の男を示す。「お前の行動にどうこう口出しする理由は無い」





 “葬儀屋”の仕事は屍体の仲介業者で。

 仕入れてきた屍体を売り飛ばせる部位に分けたり、更にくっつけたり、とそういう仕事。

 カーツは手伝おうとして、腐臭に耐え切れず吐いた。

 その場で吐かずにキッチンに飛び込んだのは褒められていいぐらいの判断だ。

 死人の面の男――“顔なし”が背中を撫でてくれた。

 その暖かい手を感じながら、カーツは泣きじゃくる。


 激しい嘔吐の合間に母を呼ぶ。




「おかあさん」



 帰りたい。




「帰りたいよ、お母さん」




 でも、ぼくは帰れない。






 屍体に直接触る事は結局出来ず、それでも手伝うと言い張ったカーツの為に用意されたのは、薬品や写真の整理だった。

 幾つもの屍体の写真。

 カーツは、滑稽にも見える屍体の写真を示し、問うた。

「この数字は、なに?」

 余白に書き込まれた数字。

 薬品のチェックをしていた“葬儀屋”はちらりとそれを見て、ああ、と頷いた。

「値段だ」

「屍体の?」

「そう」

「…随分と差があるんだね」

 見ていると分かる。

 若いからって高い訳じゃない。

 確かに子供や若者は総じて値段が高いけど、それらの中にも差があるのだ。

「数が少ない、そして需要が高いものほどイイ値が付く」

「……?」

「例えば物好きの金持ちに受けるのが奇形。

 あとは…若くて丈夫な身体は高値が付く。

 使い道が多いからな」

 使い道。

 屍体の、使い道。

 カーツは小さく首を傾げる。




 記憶。

 ツギハギの、それ。


 思い出さなくてもいいのに、カーツの中に、浮かび上がる。




 向けられる武器。

 捻じ曲げられた身体。

 破壊する、肉。

 悲鳴。

 恐怖で引きつった顔。


 お母さん。





 カーツはおっかなびっくりの様子で階層都市を歩く。

 時間があれば“葬儀屋”や“顔なし”が付き添ってくれる事もあるけれど、二人は普段、忙しい。

 だから、カーツは一人で街を歩く。


 おっかなびっくり、怯えたように辺りを見回し、頼り無い足取りで、追っ手を心配するように背後を振り返りつつ、街を歩く。

 その動きがどれだけ目立つかも知らないほど、彼はこの街に慣れていない。




 声を掛けられた。

 見た事の無い男たちだった。

 比較的、小柄な人間が多いこの街――天井のある街では人間は大きく育てないと言う――では珍しいぐらいの大柄な男たち。

 男の一人がカーツの胸元を掴み上げ、何かを怒鳴った。

 この階層都市で使われている言語は、少し、カーツが知る言葉とは違う。故に、早口で怒鳴られていると何を言われているのか分からない。

 カーツは泣きそうになりながら、必死に男の手を振り払おうと試みる。

 子供の力で大人に抗う事も出来ず、助けを求めても誰も見ようともせず。

 そのまま、道を一本奥へ、連れ込まれた。






 殴られて、壁にぶつけられた。

 何でこの人達、ぼくを怒るんだろう。

 ぼくが何かしたのかな。

 カーツは痣の浮き出た顔で男たちを見上げる。

 



 あの時だってそうだった。



 学校から帰って、お母さんにただいまのキスを。

 そうしたかっただけなのに、変な神父服を着た人が待っていた。

 お母さんは両手で顔を覆って、カーツを見ようともしない。

 そして、甲高い声で、叫んだ。




 早くその悪魔を連れて行って。




 悪魔。




 悪魔ってなんだろう。

 悪魔って呼ばれると、神父服の人に武器を突きつけられるのかな。

 悪魔って呼ばれると、お母さんに嫌われるのかな。

 悪魔って呼ばれると、殺されてもいいのかな。





「…そんな事、あるか」





 銃がカーツの肉を弾き、その幼い身体を傷付ける。

 だがカーツも黙って殺されない。

 幼い、だが、誰もを殺せる牙を、剥いた。





 幼さゆえの破壊衝動。幼さゆえの凶暴。幼さゆえの、残酷さ。






 あの時、カーツはそれの通りに動いた。

 神父服の人たちの武器を腕ごと破壊して、まだ闘おうとする身体を砕いた。

 そして、引きつった泣き顔の、恐怖でヒステリーを起こしたお母さんを。






 お母さんを。








「…なんだ」

 カーツは男たちを見上げたまま微笑んだ。

 青い瞳に、痣だらけの可愛らしい顔に、天使の微笑。




「あの時と同じこと、すればいいんだよね」

 男の一人が腕を伸ばす。カーツを立ち上がらせ、更に暴力を振るう為に。

 その男の腕に、カーツの牙が食い込んだ。






 紫色の闇。

 カーツの身体からゆらりと立ち上がる、霧状のそれ。

 男の血を飲み込み、喰い尽くし、紅を滲ませ、成長する、闇。





「いいよ」

 カーツは天使の笑みで言う。



「みんな…殺しちゃって」


 闇に何の意識も無く、カーツの命令に諾、の言葉も無く、ただ破壊が繰り広げられた。



 


 やがて闇はカーツの身体に帰って来る。その身体に収まりきらなかったのは血だけ。

 全身血に塗れ、それでもカーツは歩き出す。


「…?」

 血溜まりの中。封筒がひとつ。

 文字を読めるカーツは、それが招待状だと気付く。

 それを拾い上げながら、ふと、気付く。

 封筒の持ち主らしい男の体躯。

 若くて、立派な、その屍体。



「………」

 迷いは一瞬。















 ドアが開き、“葬儀屋”は顔を上げる。

 立っていたのは血だらけのカーツ。

 その背に、自分よりもはるかに大きな男の身体を背負い、苦しげに。


「“葬儀屋”…あのね…」

 カーツは荒い呼吸の中で笑みを見せる。

 血に塗れた、可愛らしい笑み。



「屍体……たくさんあるんだ。でも、ぼく…力なくて…これしか持って来れなくて…。

 ね、お願い、手伝って。ちゃんと隠してきたから…まだ向こうにあると思うよ」

 足早に近付く“葬儀屋”に笑みを。

 カーツはただ無邪気な笑みを青い瞳に浮かべる。


「イイ屍体だよね? 役に立つ?

 腐ったにおいは苦手だけど…ぼく、新しい屍体なら大丈夫になったよ?」

「カーツ」

 屍体を奪い去るようにその背から取り去り、床に放り投げる。

 同時に、心配そうに立ち尽くす“顔なし”へとカーツの身体を預けた。




「外を見てくる」

 “顔なし”は言葉も無く頷いた。

 血だらけのカーツをしっかりと抱き締めたまま。









「ねぇ、“顔なし”。

 ぼく、役に立つよね? ぼく、きっとイイコだよね。

 お母さんもね、本当はきっとぼくの事、嫌いじゃなかったと思うんだ。

 ちょっとだけ、ぼくが悪い子だったんだよ。

 イイコになったら…いつか、帰れるよね」



「あれ、でも、お母さんもういないんだっけ…。

 どうしよう、ぼく帰れるのかな。

 ううん、ごめんなさい。

 帰るなんて言わない。

 此処に置いて、“顔なし”。

 ぼく、もう此処しか行くところないんだ。

 いっぱい、いっぱい、イイコにするから。役に立つ子になるから」



「ね、“葬儀屋”に内緒にしてくれるなら、いいもの見せてあげる。

 見て、お手紙。

 招待状なんだ。

 さっきの屍体が持ってたんだけど、屍体が持っていても仕方無いから、ぼくがもらうんだ。

 格闘大会の招待状。

 ぼく、此処に行って来るね。

 格闘大会なら、きっと、イイ値が付く屍体、たくさんあるよね。

 大丈夫…まだ生きていたとしても、ぼくがちゃんと屍体にするから…」



「あ、れ…。

 なんでぼく泣いてるんだろ…。

 どうしたんだろ…ぼく…なんで…」





「大丈夫、大丈夫だよ。

 ぼく、何でもないよ。何も無いよ。

 大丈夫」






「帰りたいなんて思ってないよ。

 本当だよ…本当…だよ…」





 青い瞳を涙で濡らし、何度も何度も、カーツは言葉を繰り返した。

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