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 デレス王国の国土は、大きく五つの州に分轄されている。王都クルプアがある【中央】マルト州と、それを四方に取り囲む、【東】ミルズ【西】エシラ【南】サテラ【北】エトワの四つの州である。

 国王の直轄地であるマルト州を除いて、他の四つの州には州都が置かれ、それぞれの統治を任された公爵が住まう州城がある。州知事を務める四人の公爵は、わかりやすく州公と呼称されていた。


 グネギヴィット・デュ・サリフォールは、エトワ州公サリフォール公爵の妹姫である。

 早世した母親はハイエルラント四世の姉であり、母譲りの高雅な美貌は、夏の神の象徴である気高い白百合に喩えられていた。

 抜き身の剣と共に、デレス王家の紋章にも描かれた【夏男神の百合】サリュートキュリスト、デレス王国の社交界に燦然と君臨する、当代きっての名花である。



*****



「グネギヴィット」

 慕わしげに呼びかけながら入室してきた王太子を、グネギヴィットは淑やかに膝を折って迎えた。

「すっかりとお待たせをしてしまったようだ、失礼をしたね」

 身を起こしたグネギヴィットに長椅子を勧めて、ユーディスディランは侍従に目配せを送り、さりげなく人払いをした。

「とんでもございません。お忙しい最中にお時間を割いて頂きましたこと、心より感謝致しております」

 しっかりとした返答であったが、青ざめたグネギヴィットの口元に微笑みはなく、黒い瞳は不安げに揺らいでいた。憂いを帯びた表情は悩ましく麗しかったが、ユーディスディランはグネギヴィットを口説きにかかる前に、その心情を思い遣った。


「あなたがそれほどまでに、動じておられるとは珍しいね。一体何の御用でおいでになられたのかな?」

 上流の女性は感情の制御に長けているものだ。ましてグネギヴィットは、同情を引いて男の心を乱すような型の女性ではない。目に見えて悄然としているからには、それなりの理由があるのだろうと思う。


「単刀直入に申し上げます。マイナールへの帰郷を取り急ぎお許し頂きたく、無作法を承知で参上致しました」

 グネギヴィットは婉曲した駆け引きはせずに、一刻の時も惜しむようにしてユーディスディランに訴えかけた。

「帰郷をしたい?」

「はい」


 予想外の唐突な申し出に、ユーディスディランは眉を顰めた。

 新年を迎えておよそ半月、季節は冬の真っ只中である。色鮮やかなステンドグラスが嵌め込まれた、王宮の窓の外では今も粉雪が舞っている。グネギヴィットの故郷である、エトワ州の州都マイナールへと向かう街道は完全に雪で覆われているはずだ。例年であれば州城で越冬するところを、グネギヴィットはユーディスディランから熱心に請われて、今季は初冬から雪解けまでの間を、王都で過ごす約束になっていた。


「このように旅には向かぬ季節に、約定に背いて王都を離れたいとは実に穏やかではない。私の求婚は、 それほどあなたを困らせてしまったということかな?」

「……いいえ」

 やんわりと責めるような王太子の問いに答えて、グネギヴィットは緩やかにかぶりを振った。


「マイナールより早馬が参り……、兄が重篤だという知らせが届きました」

「――何?」

「エトワ州公、シモンリール・デュ・サリフォールが危篤であると申し上げているのです」

「まさか、何かの間違いだろう!?」


 二年前に爵位を継いだばかりの現サリフォール公爵は、生来身体が丈夫ではなかったが、まだ二十代前半の若さである。血と年が近いシモンリールはユーディスディランにとって、幼少の頃から親交の深い頼もしい臣下であり、これから先も四州公の筆頭として、やがて迎える彼の御世を支えてくれる筈であった。


「間違いであって欲しいと、わたくしも切に願ってはいます。ですが……」

 衝撃を受けるユーディスディランに、グネギヴィットは硬く握り締めていた一通の封筒を差し出した。

 記された表書きはグネギヴィットの名である。自分宛で無い手紙を開くのにはためらいがあったが。令嬢の眼差しに促されて、ユーディスディランは中から便箋を取り出した。


「これは誰の手によるものなのだろう?」

 驚き乱れる心を鎮めながら、情報の正確さを確認するために、ユーディスディランはその出所を尋ねた。

「当家の執事が書いて寄越したものです。祖父の代から仕えてくれている忠義者ですから、彼がわたくしに、悪辣な嘘をつくことはございません」


 サリフォール家の有能な執事は私情に走らず、当主シモンリールが風邪をこじらせて肺を患い、日夜喘息の発作に苦しんで、急激に身体を弱らせていった経緯を客観的に綴っていた。

 さらに手紙の後半で、公爵家の相続について触れ、シモンリールの病が篤くなる中、総領であるグネギヴィットが不在とあって、一門の分家の間に不穏な動きが見られる。お家安泰の為にも、早急さっきゅうに戻って来て欲しいと結んであった。


 読み終えた手紙を返して、ユーディスディランは思慮深い暗紫色の瞳で、無言のままにグネギヴィットを見つめた。

「――」

「兄に子が無く、他に兄弟がおらぬ以上は、わたくしが正統なサリフォール家の後継です」

 しばしの沈黙を破って、ユーディスディランが言いさす前に、グネギヴィットは言葉に満たない王太子の言を遮った。


「幸いに――と申し上げるのは、誠に失礼かとは存じますが、殿下の求婚を、わたくしはまだお受けしておりません」

「私の妃には、なれないということだろうか?」

 男系が途切れた家系で、女性が家督を継ぐためしはままあることだ。しかし、もしもグネギヴィットがエトワ州公サリフォール公爵の位を継ぐような事態になれば、王太子妃として立てることは極めて困難になってしまう。


「……少なくとも、兄の先行きが知れるまでは、明確なお答えを致しかねます」

 でき得る限りの冷静さを保ってグネギヴィットは回答した。病に苦しむ兄のことも、お家騒動で揺れかけている一門のことも心配だが、王太子の求愛にほだされてもいいという想いがなければ、冬の間の王都への逗留を承諾してなどいない。


「ならば私にできることは、シモンリールの全快を祈ることだけのようだ」

 他にどうすることもできずに、ユーディスディランは盛大な吐息を漏らした。グネギヴィットの表情を確かめながら言の葉を続ける。

「マイナールへの帰郷を許そう。病床ではみな気弱になるものだ。あなたの看病はなによりの良薬になるだろう。早くお顔を見せて、兄君のお心を安寧させて差し上げるといい」

「ああ……、ありがとうございます」


 ほっと安堵した様子で、謝辞を述べるグネギヴィットに、ユーディスディランはわざとらしいしかめ面をしてみせた。

「それから叱咤もしておいてくれるかな。シモンリールが元気になってくれないと、私の人生もまた色褪せてしまう、とね」

「……はい」

 答えてグネギヴィットは艶やかに頬を染めた。花びらのような唇に、ようやく浮かんだ淡い微笑みは、 ユーディスディランの恋情に希望の灯をともす。


「いつ、王都を発たれる?」

「邸の者には、既に旅の支度を命じております。王宮を辞させて頂きましたらすぐにでも」

「そうか」

 頷いて、ユーディスディランは席を立ち、グネギヴィットに右手を差し伸べた。重ねられた指先を引き上げて、長椅子から腰を上げた愛しい令嬢の瞳を覗き込む。


「冬の旅は厳しいものだ。道中くれぐれも気を付けて行かれるように」

「ええ、ユーディ」

 選ばれた者だけが口にすることを許された特別な愛称で、グネギヴィットはいとおしむようにユーディスディランを呼んだ。

「楽しい時間をありがとうございました。殿下とこの冬を共に過ごさせて頂いたことは、わたくしの生涯において良き思い出となるでしょう」

「この冬の幸福を、私は今季限りのものにするつもりはない、グネギヴィット」


 もたげたグネギヴィットの指先に唇を当てて、ユーディスディランは神にも祈る心持ちで、再度の告白をした。

「シモンリールの快気の知らせを。それから、あなたからの色好い返事をお待ちしている。愛しています、グネギヴィット……」

 記憶に刻むようにして求められた口付けを、グネギヴィットは神妙な面持ちで受け止めた。

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