23-3

「まあ、アレット!」

 予定よりも遥かに早すぎる時刻に、辻馬車で帰宅したアレグリットを、外出着を纏ったメルグリンデは大きく驚きながら――、しかしすぐに合点した表情になって迎えてくれた。


「ただいま戻りました、伯母様」

「お帰りなさい、アレット、まあ……。辻馬車で帰って来るなんて、まあ……。これから王宮へあなたを、迎えに行こうかと思っていたところでした。行き違いにならなくてよかったわ」

 そう安堵しながらメルグリンデは、外出用のレースの手袋で包んだ手で、強張ったアレグリットの頬を労わるように挟んだ。サリフォール公爵邸の玄関先で、顔を合わせた伯母と姪は、寸刻も惜しんで情報交換をしながらメルグリンデの私室に向かう。



「わたくしを迎えに……ということは、伯母様もこれを、もうお読みになられたのですか?」

 アレグリットは、怒りのままにくしゃりと握り締めてきた、『フィアルノ新聞』の号外をメルグリンデの視界に入れた。メルグリンデは軽く頷き、強く皺の寄ったそれをアレグリットから預かった。


「ええ、出入りの雑貨屋が、気を利かして届けてくれたものを。本誌であれ号外であれ、デオリ社が当家にだけ配達を怠るのは、今日が初めてではありませんからね。それからもう一つ、あなたが邸を出るのと入れ替わりに、ガヴィから手紙が届いています」

「お姉様から?」

「ええ、言っても詮ないことですけれど、マイナールからの早馬が、もう少し早くに着いていれば……。 『フィアルノ新聞』の記事よりも、わたくしどもはガヴィの言い分を信じるべきでしょうね。めまいがしそうな内容に変わりはありませんが……」


「では、お姉様の恋人が庭師だというのは――」

「本当のようね。そのガヴィの恋人が、ザボージュ様に拳を見舞ったということも」

「そちらも……!?」

 自信満々に書かれていたことながら、それはどこかで作り話だと思いたかったアレグリットは色を失った。あの姉が、身分差を越えてまで愛した男が、利己的な暴力人間だとは考えたくもない。


「ええ、ですが、ガヴィの恋人が不祥事を起こした背景は、記事とはまるで違っているようですよ。一門は親族会議で彼の擁護を決めたそうですが、わたくしもそれに賛成です。

 アンティフィント家は、ご当主は既にエルミルトにお戻りですから、総領のジオロンゾ様の仕業なのでしょうけれど、よくもまあ浅慮にあのような記事をでっち上げさせたもの。当家憎しとなるのはわかりますが、お互いに沈黙を守り、痛み分けとしておくのが一番でしたでしょうに」


「マイナールで、一体何事があったというのです? お姉様はいかにしておられるのですか?」

「それは後で、ガヴィの手紙を読んでお確かめなさいな。先にあなたが、こんなにも早くに下城した経緯を教えてもらえるかしら? アレット」

「はい」


 メルグリンデに促されるまま、アレグリットは事細かに、王宮でのあらましを語った。

 そうこうしながら二人は、メルグリンデの私室に辿り着いた。長椅子を勧められたアレグリットは、頭を抱える伯母に、鍵付きの引き出しから取り出された、姉からの手紙を手渡された。



*****



『親愛なるメルグリンデ伯母上、そしてアレット、いかがお過ごしでございましょうか。

 じっくりとそちらの状況をお尋ねしたいところですが、取り急ぎ、お二人に非常に残念なお知らせをせねばなりません。


 と、前置きしましたことで予想がつかれたかもしれませんが、いずれは婿にお迎えするつもりで、エトワ州城にお招きしておりました、アンティフィント公爵令息ザボージュ様との縁談を、この度破談と致すことに相成りました。

 つきましては、わたくしどもの破局の記事が、「嘘、大げさを吹聴するぞ」と誌名で謳った『フィアルノ新聞』に、大々的に取り上げられるものと予測されます。

 真実もまた、明らかにしてしまうには、双方にとって憚りのあるものであり……、どのように書かれてしまうかは知れませんが、前面に押し出されるのはおそらく、わたくしの恋の罪にございましょう。


 この手紙が、記事が出回るよりも先に、お二人のお手元へと届くことを願いながら、お叱り覚悟で打ち明けます。

 わたくしには、他に想う人がおります。

 ルアンという名の、エトワ州城の庭師です。

 書き損じなどではございません。使用人の庭師、平民の庭師です。

 我がことながら、どこでどうまかり間違ってしまったものか、わたくしの愛する人は庭師なのです。

 辛い時、悲しい時、苦しい時、物憂い時、そして嬉しい時や楽しい時も……、素顔のわたくしを受け止めて、温かくおおらかな心で包み込んでくれた、とても、とても、大切な人です――』


 そう始められたグネギヴィットからの手紙は、深い苦悩と若干の開き直りが伝わるような、長い長い手記であった。

 王太子との別れの直後から、政務後の散策中に中庭で庭師と待ち合わせ、自分の『気晴らし』に付き合わせてきたこと。

 それは秘密の約束のつもりだったが、実は二人が道を踏み外すことの無いように、ローゼンワートに監視されていたこと。

 シュドレーに知られ叱られ指摘されて初めて、ルアンに対する恋心を自覚したこと。

 ルアンは自身の心を隠し続け、両想いであることを知ったのは、彼との関係を絶った後だということ。

 許されざる恋はなかったものとして、縁談に前向きになろうと試みたが、接触過多なザボージュとの交際に苦痛を感じていたこと。

 自分の不注意からザボージュをいきり立たせてしまい、危ういところをルアンに助けられたこと。

 最早心を偽り切れずに、ザボージュの前で、ルアンとの恋人宣言をしてしまったこと。

 そして破談の真の理由と、いささか困った不調が自身の身体に現れていること――。

 以上のことを、赤裸々に綴ったグネギヴィットは、それらを受けての一門の総意も述べた後、手紙の最後を謝罪の言葉で締めくくっていた。


『済まない、アレット。

 こんな至らぬ理由で、王都で頑張っているだろうお前の邪魔をしてしまう。

 誰よりもわたくしが、いけなかったのだとわかっているが、アンティフィント家の方々もまた、恥を知っておられるものと祈りたい。


 メルグリンデ伯母上。

 ご期待に添えず、尚且つ、家名ばかりか、縁談を調えて下さった伯母上のお顔に、泥を塗るような真似をして申し訳ありません。

 どの口で申すかとお呆れでございましょうが、妹を、アレグリットを、何卒よろしくお願い申し上げます』



*****



 読み終えた手紙の文字が、ぽたりと落ちた水滴で滲んだ。

「どうしました? アレット?」

「……悔しい……」

 頬に描かれた涙の筋を拭って、アレグリットは手紙を畳み胸に当てて、メルグリンデに訴えた。

「お姉様に、これだけの思いをさせて、お姉様を、こんな目に合わせてしまって……、未だ何もなせていない、わたくし自身が悔しいのです」


 女公爵と庭師の恋――。それは、地位と良識ある人々の、眉を顰めさせる禁断の恋かもしれない。

 しかし、二重の悲しみに歯を食いしばり、大きく変動してしまった人生に、毅然と立ち向かってきたグネギヴィットに、庇護され甘えるばかりであったアレグリットに、どうして姉を責めることができるだろう?


 グネギヴィットは彼女自身の努力によって強く大きくあろうとし、周囲にもそう見せかけることに成功しているが、実のところは自分などよりも、ずっと脆くて繊細なのだとアレグリットは理解をしている。

 そんなグネギヴィットの、細腕の奮闘の陰に、きっとこの庭師は――ルアンはいてくれたのだろう。アレグリットでは足りなかった、姉の心の支えとなっていてくれたのだろう。グネギヴィットのためならば捨て身にもなるような、与えるだけの愛情を惜しみなく捧げて。



「ひとまずは、王太子殿下に、明日の観劇のお供を辞退する旨の書状をお送り致しましょう。王后陛下に伺候を止められたため、陛下のサロン以外の場でも、陛下との近接は自粛したいとお伝えすれば、ご納得頂けるでしょう」

「……何故ですの?」

 アレグリットはグネギヴィットの手紙を文箱に戻し、消極的な提案をするメルグリンデに疑問を呈した。


「何故って、アレット……。この記事の内容には、おそらく王太子殿下もご気分を害されておいででしょう。殿方のお気持ちに先回りして、引いて差し上げるのも嗜みですよ」

 テーブルの上に文箱と共に並べられた、号外新聞の上にとんとんと指を置き、控え目な指導をするメルグリンデに、アレグリットは嫌々をするように首を振った。


「殿下から、今はわたくしの顔など見たくもないと、拒絶されてしまうならば致し方ございません。けれどそうで無い限りは、引いてよい時ではない筈です。確かにお姉様は、ザボージュ様に対し、たいへん不誠実なことをなさったのでしょう。ですがだからといって、ザボージュ様がお姉様に、狼藉を働かれてよい理由にはなりません! それにこの中傷は……! 事件の真相を大きく歪めたばかりか、殿下と交際なされていた頃の、お姉様の貞節まで疑ってかかるなど……、言語道断にございます!!」


 アレグリットには、どうしてもそれが許せなかった。ユーディスディランとの交際中はもとより、グネギヴィットは今なお清い身体の筈である。自身の血と純潔の重みを知り、民の手本となるために、『【愛と結婚の女神】フィオの教え』のみならず国教会の規範は遵守する、グネギヴィットはそういう人なのだ。

 そんな姉を押し倒し、既成事実を作らせて、結婚を強要しようとしたのはザボージュではないか! 見た目だけはお綺麗な顔をぶちのめされて当然だ! よくもまあ恥知らずに、アンティフィント家は、こんな疑惑をかけてくれたものだと思う。


「アレット、あなたの腹立たしさはよーくわかります。ガヴィが王都におらぬのをよいことに、やりたい放題されてしまってわたくしとて口惜しい。あなたが表に出て行くことは、記事に対する抗議にもなるでしょう。ただ……、明日の観劇に、わたくしは付き添ってあげられないのですよ」

 それが非常に心配なのだとメルグリンデは眉を寄せる。もしもその場にいれば、空気を和ませてくれそうな国王は、明日劇場にお見えにならず、おまけに王后の桟敷に同席する予定なのは――。


 アレグリットは据わった目つきをして、つんと顎を上げた。

「だからどうしたとおっしゃるのです」

「アレット!」

「王太子殿下のお誘いを断る? 社交の場に出られる機会を放棄する? ではわたくしは、今何のために王都におりますの……? お姉様のことも、殿下のことも、わたくしは何もせぬまま引き下がりたくはありません。これまでずっと、わたくしはお姉様に守られて参りました。此度はわたくしが、お姉様をお守りする番です」


 不退転の決意を述べてアレグリットは、しかししずしずと立ち上がり、長椅子から離れたところで優雅にメルグリンデを振り返った。


「明日の衣装選びを致します。小物合わせも、髪型も、お化粧も、決して失敗のないように、今から試しておきましょう。卑屈にならず、堂々として、けれど淑やかに、みなさまの目に映りますように……。

 ああそうですわ、それから王后陛下が召されそうな柄やお色は避けねばなりませんわね。ねえメル伯母様、どうかご相談に乗って下さいませね」


 そう言ってアレグリットは雅やかに微笑した。それはメルグリンデに、アレグリットの体内に脈々と受け継がれたサリフォール家の血潮を強く感じさせると共に、『デレスの百合』と称えられ、その微笑みの許に多くの人々をひれ伏させてきた、王姉マルグリットの臨戦態勢を、髣髴とさせる姿であった。

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