23-5

 文化の成熟した国デレスにおいて、王立劇場での興行は、少々値が張り特別感はあるが、庶民にも広く開かれた娯楽である。

 玄関広間にたむろしていた、一張羅を着込んだ大衆を、緊張で身を引き締めた劇場の警備員たちと、近衛二番隊の騎士たちが協力しながら整理を始めた。

 王家の紋章が入った、白い制服を着た若々しい騎士たちが、王太子付きであることは王都の民にとっても常識で、大人しくその誘導に従った人々は、ユーディスディランの入場にわっと歓声を上げた。


 同時に、ユーディスディランにエスコートされて訪れたアレグリットに向けて、その姿にただただ見とれて嘆声と、あの姫君は誰かというどよめきが漏れる。

 情報通な男の、「『マイナールの蕾姫』だ!」という興奮の声に素性を明かされながら、アレグリットは王立劇場の総支配人の先導を受けて、ユーディスディランに連れられ大階段を上った。

 どんな噂をされていようとも、大衆の間は行き過ぎるだけ。アレグリットが踏ん張らねばならないのはこの先である。


 案内をされたのは、桟敷席の客だけが立ち入りできる貴賓専用の階であった。こちらでしばらくお待ち下さいと、通された待合のサロンには、既に多くの先客がいた。

 この日王后ドロティーリアが、観劇予定であることは周知の事実で、貴族やそれに近い富裕層、及び彼らに招待を受けた名士といった人々は、その入りに遅れることがないようにと、早めに集っていたようである。

 王太子ユーディスディランの臨席もまた、王室桟敷が二つ抑えられているらしい、ということから漏れ出していた情報だが、今の今まで極秘にされてきたその同伴者が、アレグリットであることに人々は驚愕した。


 いやもちろん、アレグリットは大貴族サリフォール女公爵の妹姫であり、国王ハイエルラント四世の姪御姫であり、『王后の人質』にしてまで残された王太子妃候補の一人でもあって、ユーディスディランの連れであることに何ら問題はない。

 『元恋人の妹』という要素も、十に近い歳の差も、さらには従兄妹という近親関係も、ユーディスディランが気にしないなら外野がぐだぐだ言っても無駄であり、とどのつまりは黒髪に黒い目の、白百合のような姫君が王太子の好みなのだと公言するような、他者にはお手上げとさせられてしまう相手であったが、なんといっても昨日の記事のことがある。

 その線は、これで完全に消えたのでは? ――という状況下においての二人並んでの登場に、人々は大きくざわめいた。

 とはいうものの……、観劇に同伴させることが、すなわちユーディスディランがアレグリットを選んだ証しというわけでもない。約束は事前になされていたはずで、ユーディスディランは今宵限りの義理を果たしているだけかもしれない。アレグリットにはどう接したものか量りかねつつも、人々はこの一対を取り囲んで我先にと挨拶を行った。


 そんな、日和見する人々に苛立ちを募らせたのが、その直前まで人の輪の中心にいた、アンティフィント公爵令嬢ケリートルーゼである。

 ユーディスディランの背後には、部下たちに指示を出しながら、周囲の動向に注意を払うキュベリエールが付いていて、可愛い妹のおねだりよりも仕事を優先し、今宵のエスコートを引き受けてくれなかった次兄の職務が、王太子のみならずアレグリットの護衛であるということも、ケリートルーゼの怒りという火にとくとくと油を注いでいた。



「ごきげんよう、ユーディス様」

 ユーディスディランが、決して無視はできない自分の近くへと、自らやって来てくれるのをじれじれと待ってから、ケリートルーゼは取り巻きと崇拝者たちに囲まれた寝椅子から腰を上げ、勿体ぶって一礼をした。

「今晩は、ケリートルーゼ。母がお待たせしているようで申し訳ない」

「いいえ。王后陛下のお誘いは光栄なこと、知己も大勢おりますし、まるで苦になどなりませんわ」


 こちらもまた、王室桟敷に招かれていることを強く意識して、念入りに装ってきたと思しいケリートルーゼは、華やかに巻いた豪奢な金髪と、赤く塗った唇に映える紅赤の夜会着を纏い、赤い薔薇と金剛石とで髪と肌を飾って、【愛の女神】フィオもかくやという艶やかさであった。


 ユーディスディランに見せていた、ケリートルーゼの輝くような微笑みは、しかしアレグリットに視線を移すと霧消した。

 北の白百合と南の紅薔薇と、家門を負いその誇りを懸けて、王太子妃の座を争う二人の美姫は、それぞれに己が姉、兄を思うがゆえの相容れない憤りを抱えて、表面化した確執のままに対峙した。



「今晩は、ケリートルーゼ様」

 アレグリットは自分から膝を折り挨拶をすることで、ごく自然にユーディスディランの腕から手を放した。そうしてドレスを摘まんだ後の手を、臍の前で閉じた扇の上に重ねて、ケリートルーゼの返答を静やかに待った。

 空気がぴりぴりとするような対立の構図に、ここは自分の出る幕ではないと察して、ユーディスディランは数歩を下がった。胃をきりきりとさせていそうな顔つきで、キュベリエールがそれに並ぶ。


「……今晩は、アレグリット様。今宵は、『ごきげんよう』とはおっしゃらないのね?」

「それはお互い様でございましょう、ケリートルーゼ様。わたくしもケリートルーゼ様と同じ気分だということです」

「ああら気が合いますわね、とでも申すと思いまして? 貴家のご当主、サリフォール公爵様が、あれだけ世を騒がせておいででらっしゃいますのに、よくも今日は平然と、お顔をお出しになれたもの。王后陛下に伺候を止められておいでのくせに、ユーディス様にお迎えまでさせるだなんて図々しい」


 ケリートルーゼの直截な非難に、アレグリットは睫毛をしばたかせて、可愛らしく首を傾げてみせた。

「おっしゃる意味がよくわかりません。昨日からふざけた嘘を触れ回って、世間を騒然とさせているのはあなたのお家のフィアルノではありませんか。それに王后陛下からは、外出そのものを禁じられてはおりません。殿下から頂いておりましたお誘いを、急にお断りする方が無礼でございましょう」


 ああ言えばこう言うアレグリットの小賢しさに、ケリートルーゼは忌ま忌ましげに眉を上げた。狸は狸らしく、邸という穴倉に籠って肩身を狭めていればよいものを……。

 その装いを見るにつけても、自分に引けを取るつもりのないらしい、憎々しいサリフォール家の豆狸の、生意気な鼻っ柱をへし折ってやりたくなる。


「さすがサリフォール家の御方は、理屈をこねられるのがお上手ですこと。そうやってユーディス様のお優しさにまで、つけこまれる神経が図々しいと申し上げているの!

 何でもかんでもフィアルノの嘘になさるおつもりのようですけれど、サリフォール公爵様の恋人が庭師なのも、その愚かな庭師が、あたくしのボージュ兄様に殴りつけたのも作り事ではないでしょう! 姉が姉なら妹も妹でございますわね。蕾姫などと持ち上げられても、あのような姉君様の蕾では、底が知れておいでということだわ。

 『マイナールの白百合』も堕ちたもの。綺麗に保たねばならないお身体を、卑しい庭師に慰めさせるなど……。おお嫌だ! 土臭い指で弄られるなんて、あたくしならばぞっとしますわ。正しい相手がおいでなのに、倫理にもとる冒険をお求めになるだなんて、血は争えないということかしら」

「どういうことでございましょうか?」


 ケリートルーゼは碧眼をすいと細めて、蝋のような顔色をして、それだけ返すのがやっとでいる――ように見える――アレグリットに、とどめの御託を放った。

「ご自身の出生に、係わることですのにおとぼけかしら? アレグリット様、あなたの母君様にも、確か不義密通のお疑いがおありでしたでしょう? 真に父君様のお胤であるのか怪しい御方が、あたくしと同等に、公爵令嬢をお名乗りになっておいでとはおこがましい」

 言ってやったという表情で、ケリートルーゼが勝ち誇ったように口の端を上げたその瞬間、ぱん、という乾いた音が待合のサロンに鳴り響いた。



「これで――おわかりになられまして?」

 じん、と痛む右手を下ろしながら、アレグリットは冷ややかに問うた。

 思うよりも先に身体が動いていた。人を本気で叩いたことなどアレグリットには初めてだった。今になって何ともいえない武者震いがきたが、後悔する気持ちはまるでなかった。


「なっ……、何をですの? 野蛮人!」

 痛みよりも平手で打たれたという出来事に驚き、頬を押さえるケリートルーゼをぎりと睨み据えて、アレグリットは腹の底から湧き上がる激情のままに声を張った。

「人が人を殴るには、それだけの訳があるのだということを! わたくしは父が認めた父の娘。わたくしの母にも、わたくしにも、どなた様に恥じ入るところもございません!!」


 普段はいささか繊弱な見かけ通りに大人しく、気弱とも思われがちなアレグリットの気迫に、ケリートルーゼのみらなず、ユーディスディランを始めとした大の大人たちも、一瞬、飲まれた。青い炎火のような怒気を立ち上らせて、アレグリットは柳眉を逆立てる。


「姉の恋人と報じられた、当家の庭師についても同様でございます。一つお伺いをさせて頂きますが、ケリートルーゼ様、アンティフィント家では賓客に傷を負わせた使用人に、いかなる対処をなさいますか?」

「も、もちろん厳罰をくれてやりますわ。そもそもそんな問題を起こすようなふつつか者を、雇い入れなどするものですか!」


「おっしゃる通り。それはサリフォール家でも同様です。使用人の側からすれば、主人の賓客に拳を振るうなど、その場で手打ちにされることも覚悟に入れての暴挙でございましょう。けれど件の庭師はそれをなし、わたくしの一門は、本来ならば咎人として厳粛に裁かねばならないかの庭師を、家を挙げて庇い立てすると決めたそうです。何故だかおわかりになられまして……?

 わたくしは、姉にも庭師にも、一切の非がなかったなどと申すつもりはございません。ですがケリートルーゼ様、あなたはご自分に都合の良いことばかりを耳に入れ、あなたの兄君ザボージュ様が、我が姉に対して働かれた非道を、御存知ないのではありませんか?」


 理路整然としたアレグリットの発問に人々はざわついた。アレグリットは人々がザボージュの素行を考えて、臆測を巡らせるだけの間をたっぷりと取ってから、興奮で赤らめていた顔からすうっと血の気を引かせてゆく、ケリートルーゼに向けて昂然と啖呵を切った。


「それを知られた上でなお、当家ばかりを一方的にお責めになれるとおっしゃるならば、わたくしを殴り返しにいらっしゃればよろしいわ。わたくしは逃げも隠れもしない。その必要がないのですもの」


 頬を熱く上気させたアレグリットの、自信に満ちた黒い瞳が鮮やかに煌めく。

 ケリートルーゼが衝動的に右手を振り上げかけたその時、不意を突いて横やりを入れるように、ばしり、と誰かが扇を大きく打ち鳴らした。

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