第二十章「忠憤」
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さて、王都クルプワで、人生の選択をせっつかれたユーディスディランが、世間にも見える形で重い腰を上げかけていた頃――。
北の都マイナールではグネギヴィットが、ザボージュの求愛に気圧される日々を送っていた。
執務のために、男装をしているグネギヴィットでも、ザボージュは構わずエスコートする。見る人が見れば狂喜しそうだが、例えば主人たちのために扉を開け閉めしつつ、それに黙々と従ってゆく老執事ソリアートンには、朝からどうにも不道徳に感じられる光景だ。
「それでは今日は、いつもより早くに戻りますから」
送り届けた先の馬車回しで、グネギヴィットが己の腕から外した白い手を掴まえて、ザボージュはそこに口付ける。そちらに熱を込めていたためか、僅かばかり返事が遅れた。
「――はい」
「時間がはっきりしませんから、政務後の、庭での待ち合わせは無しにしましょうね。あなたの方も何かと準備があるでしょうから、どうぞそちらに集中なさって下さいませ。次はお出かけの前にお会い致しましょう」
今日明日と、週末の二夜続きで、シュドレーの企画演出によるザボージュの詩の朗読会が公演されることになっていた。
「ご婦人方のサロンと違って、たいへん大きな舞台ではありますが、自分の書いた詩を読むだけです。予行演習は充分行っておりますし、後の準備で最も肝要なのは、できるだけ長くあなたと接して気持ちを盛り上げておくことですよ、グネギヴィット。朗読会の成功のため、ご協力を仰ぎたいのですが」
掴んだ手指は当然のようにそのままに、ザボージュはグネギヴィットに懇願する。ザボージュの言う協力とは具体的にどういうことか? 深読みをするとちょっと……というか、グネギヴィットには、かなり危ういことのような気がする。
「わたくしは今宵、裏に控えて応援するのみではありますが、劇場までご一緒する以上は、あなたの贔屓筋に見劣りしない風采で参りたいのです。 装うための時間を頂戴できませんか?」
なのでそれを逸らすため、グネギヴィットもしおらしいお願いで返す。グネギヴィットが投げた目先の餌に、ザボージュは簡単に釣られてくれた。
「そういうことならば……! それでは、ご用意が終わられましたら必ずすぐにお呼び付け下さい。お着替えを済まされたあなたに、誰よりも早くお目にかかりたい。お部屋の前までお迎えに参じます」
「ええ。わたくしの侍女に、あなたの衣装のお色目などを伝えておいて頂けると助かります。あなたに並んで似合いますように……。では、後ほど」
「行ってらっしゃい」
言葉の終わりと同時に、頬に軽く唇を当てられた。グネギヴィットの心臓が高く跳ね上がる。とっさにそこに手をやって、グネギヴィットはぎこちなくザボージュを振り仰いだ。
「い……行ってきます」
*****
「朝からお熱うございますねえ」
逃げるように馬車に乗り込むと、先に中で待っていたローゼンワートにからかわれた。気恥ずかしさに、視線を彼から外しながら、グネギヴィットはそのはす向かいに腰を落ち着ける。
「何だ、見ていたのか?」
「見ていた方がよろしいかと思いまして。いわゆるところの番犬のお役目で。あまり用をなしてはいなさそうですが」
「いや、それは、無いよりはましだと……。お役目御苦労様……とでも感謝しておくべきなのか……?」
御者が閉じた扉の車窓から、グネギヴィットが軽く手を振ってやると、ザボージュもまた同じもので応えた。そのまま互いが見えなくなるまで、政務に向かうグネギヴィットの見送りをしてくれるのが、エトワ州城に到着した翌日からの、ザボージュの朝の恒例となっていた。
「いささかおやつれ気味でございますねえ。私としては、毎朝馬車に乗ってこられる際に、ほっとしたお顔を見せて頂けるのは、嬉しい限りでございますが」
エトワ州公と、同州府執政長官を乗せた馬車は、南棟目指して走り始めていた。四六時中ご機嫌でいるザボージュとは対照的な、グネギヴィットのげんなりとした表情を指摘して、ローゼンワートは主君をぎくりとさせる。
ローゼンワートと二人きりになるこの時間を、こんなにもありがたがる日が来るなんて、グネギヴィットとて思わなかった。はぐらかす気力も失せたグネギヴィットは、守り役にぽつぽつと真情を漏らしてゆく。
「ザボージュといるとどうにも調子が狂う……。お前を目にして安堵なんぞをしてしまうくらいに。この城にも、マイナールの水にも気候にも、まだ慣れていないだろうに彼の方は、驚くほど活き活きとしているのにね」
「夜の営みこそお預けにされてらっしゃいますが、傍から見ていて恥ずかしくなるような、新婚夫婦の真似事ができるわけですから、ザボージュ様が活き活きとなされているのも自明でしょう。老婆心ながら忠告させて頂きますと、色々とお許し過ぎでいらっしゃいますよ、グネギヴィット様は。危なっかしくて目を離せないので、できる限りは都合を付けて、お二人のご様子を陰に陽に拝見させて頂いておりますが」
「陽はともかくとして、陰、というのは? お前はどこからこそこそと出歯亀をしている?」
いぶかしむグネギヴィットに、ローゼンワートは手で作った望遠鏡を覗くふりをしてみせた。なるほど……。
「ちなみにシュドレー様も同意見で、私よりも頻繁に、中庭でお過ごし中のお二人を、物見台から見張っておいででございます。ああそうそう、『特別警備日誌』でございますが、シュドレー様に没収されてしまいました。こんな面白い――もとい、危険極まりない機密文書を、こんな所に置いておけるかとお笑い――ではなくお怒りで」
「ローゼンワート、ごまかすつもりがないのなら、最初からそう言いなさい」
その他のことに気と時間を取られていて、結局グネギヴィットは一度も物見台には登っていない。過ぎたことは振り返らないにしても、『特別警備日誌』――つまり、ルアンとの密会記録を、放置していたのはうかつだった。
「一応は、建前を出しておかないと、シュドレー様に叱られてしまいますもので。じっくりと目を通されて、庭師長や衛兵たちから聞き取りもされて、なんともまああなたらしいと、得心も安心もなさっておいででございましたよ。この奥手さで、ザボージュ様に対処できるのかと、別の意味では非常に憂慮されておられますが」
「対処……は多分、シュドレー叔父上に及第点を頂けるようにはできていないのだろうな……。何というか、その……、お前の言う『色々』を、ザボージュにはもう少し手控えして欲しいのだけれど……。わたくしの心が、まだ自分に向いておらず、わたくしが常に、気怖じしていることくらいは気付いているだろうに、どうして彼はああなのだろう?」
ザボージュから、口付けを一つ受ける度に、グネギヴィットは汚されたような気持ちになる。頬にされたのは初めてだったから尚更だ。塞がることのない傷で、グネギヴィットの心は絶えず血を流し続けている。ザボージュが推進する交際は、グネギヴィットがつもりをしていた交際とは、まるきり大きく違っていた。
グネギヴィットの頭にあった交際とは、そっくりそのままユーディスディランとの経験に基づくものだ。互いの心を探り探り近付いて、親しき仲になってからも、礼儀を失せず接する……。
いささか強引であったり、性急であったりするような接触が、まるでなかったとはいえないが、それはグネギヴィットに恋の驚きと喜びと、そして切なさを教えてくれたものであり、嫌悪を感じたことは一度も無かった。自分もまた惹かれゆく人に、募る想いが昂じて触れられることは、初めて尽くしで戸惑いもあったが、幸福なことであった。
なのでザボージュとも、まずは互いを知ることから始め、気持ちを添わせていって……と思っていたグネギヴィットなのだが、気持ちはもう充分過ぎるほど寄せ切っているザボージュは、交際を受けて貰ったのだから、いくらでも触ってよいのだという判断をしたらしい。グネギヴィットと一緒に移動する際にはエスコートを欠かさず、自由に掛けられる時には彼女の隣を選び、並んで立つ場合にはその肩か腰を抱いて、とかくグネギヴィットにくっついていたがった。
空いている手はすかさず握られ、お早うの挨拶に始まりお休みを言って別れるまで、グネギヴィットは毎日そこにふやけそうなほど接吻をされている。おまけに数日前からは、人目――それは主にシュドレーのだ。ローゼンワートの言い様だと、いくつかは目撃されていそうだが――を盗んで引き寄せられ、髪や額やこめかみ、項に首筋、耳朶の後ろ、そして今朝方は頬……といった具合に、その他の個所にまで口付けられるようになってしまって、正直なところ参っていた。
胸の中から、まだルアンを閉め出せていない状態で、そんな迫られ方をするのは苦痛でしかなく……、ザボージュと新しい恋を始めるどころか、逆に、彼に触れられる度に膨らんでゆく違和感が、グネギヴィットにルアンを忘れさせてはくれなかった。
違う! 違う! 違う! と、泣き叫ぶ心を説き伏せて、グネギヴィットはザボージュを受け入れる努力をしていた。それはつまり何をされても拒まないことであり……、しかしその態度が、どんどんとザボージュを増長させてしまうわけで……、グネギヴィットはもう、どうしてよいのかわからなくなっている。
「肉体から始まる恋というのも世の中にはございまして、特にザボージュ様は、あのご容姿と豊かな詩才、それにアンティフィント家の三男坊という背景に惹かれて、さらには噂が噂を呼んで、積極的に誘惑してくるご婦人方とばかり、お付き合いをなされてきたような方でございますから……。有閑夫人や玄人の女性、 それから色男に遊ばれてみたい、冒険心の強いご令嬢あたりがお相手であったことを思えば、好意の表現として女性に触れるのが、ごく普通のことになってしまわれたのではないですかねえ?」
そう考えますなら、実に想い溢れてらっしゃいますよねえ、と、ローゼンワートは皮肉混じりに言う。その有り余る熱情に応じてやれない要因は、ザボージュにはどうにもできないところにあるわけで……、グネギヴィットとて心苦しくもある。
「悪い方ではないと思うんだ。アンティフィント家という名門の、けれど責務の軽い三男で、羨ましくなるほど奔放に、ある意味とても無邪気に、歪むことなくお育ちになってこられたのだろう。それに昔から、わたくしを好いて下さっていた、お気持ちは本当にありがたく思っている。だけど……。
人を好きになるって、難しいね、ローゼンワート。自分の心なのに、どうして自分のしたいように、塗り変えることができないんだろう……?」
「ならばいっそ、このご縁談は破談になさいますか? 王太子妃がお決まりになるまでは、ご交際を引っ張って頂かねばなりませんが」
グネギヴィットが、まかり間違っても自分からは言い出せないであろうことを、ローゼンワートはかわりに申し述べてやった。
自覚させられると同時に引き裂かれた恋を、なかなか思い切れないでいるグネギヴィットがまず悪いが、ひたすら自分を押し付けて、引くことをしようとしないザボージュの接近法もよろしくない。この二人はおそらく、このままの状態でずるずると関係を続けていっても、うまくいかないだろうとローゼンワートは踏んでいる。
「仮に破談にしたとして、それからどうする? わたくしにとっては、もう後が無いような縁談なのに」
グネギヴィットが今、ザボージュとの交際に厳しさを感じていても、さっさと見切りをつけてしまえない理由がそれだ。公爵家の当主の責として、自分の跡目を継がせる世子を得るためには、どうしても婿を取らねばならないという頭がある。
「簡単なことです。外からの縁談が途絶えるならば、あなたの婿はサリフォール家の一門から選出なさればよろしい。そうなれば必ず紛糾します。ごたごたとなさっているうちに、お気の迷いも少しは晴れるでしょう」
グネギヴィットのルアンに対する恋心を気の迷いと表現して、ローゼンワートは何ほども無いことのようにそう言ってのけた。一門の男とならば割り切りもしやすく、グネギヴィットには、ザボージュを婿にするよりも遥かに気楽だろうとも思われるが――。
「第一候補に上がるだろうミュゲに、さんざん無理無理言われているのにか? 他の者たちにしたところで、わたくしを女と見なしていないのは似たり寄ったりだぞ」
それはそれで無理を強いるのが、グネギヴィットには可哀想な気がする。ならば自分が我慢すればいい、というのが、グネギヴィットの考え方だ。
「他の方々がご辞退なさるなら、僭越ながら私めが立候補させて頂きますよ。マルグリット様の御息女と
「……親族会議が大荒れに荒れるのが、目に見えるようだな」
全くもって異論の出ないグネギヴィットの感想に、ローゼンワートは破顔した。
「私を上位に立たせるのがとことんお嫌ならば、無理にでも無理を引っ込めて、グネギヴィット様の椅子に敷かれる覚悟でどなたかが挙手なさるでしょう。……あまりご自身を追い込み過ぎずに、それくらいの心の逃がし場は持っておかれればよろしいかと。
ザボージュ様とのご結婚を、受けて下さるに越したことはありませんが、どうしても無理であれば無理なのだと、あなたもミュガリエ様のように、突っ撥ねられてよろしいのですよ」
結局、ローゼンワートがグネギヴィットに伝えたかったことは、最後の言葉に集約されるのだろう。たとえ益を損ねることになるとしても、無理であれば無理と言え、と――……。
「そう……。一つの意見として、ありがたく傾聴しておく。ただね、ローゼンワート、重ねて言っておくが、わたくしは婿を椅子では敷かないぞ」
「左様でございましたね。いかに私といえども、下敷きにされて悦べるのはおみ足までです」
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