19-5

 アレグリットは開いた本を、ユーディスディランが見やすい向きで卓に置き、二つ並んだ言葉を指差した。

「作中に何度も出て参ります、この『マ・ナセル』と『マ・ナセア』という言葉……、『ナセル』『ナセア』というのは、それぞれ『兄』『妹』という意味ですよね? なのに何故、『マ』――『私の』と付けると、どちらも『私のあなた』という訳になるのでしょう? それにアウルとエスパネルラは、神々の王とそれに捧げられた人間の巫女で、兄妹などではありませんのに、何故そのように呼び合っているのでしょう?」


 なるほどアレグリットは、ユーディスディランに気付く前に、ひたすらそれを悩んでいたらしい。グラシア関連の文学について、腰を入れて原書から学ぼうという時に、誰しもが、非常につまずきやすい部分である。


「ああそれは、グラシアにおいて、神の選民を称していた支配者層の者たちが、血を守るために近親婚を繰り返していたという風習によるものだ。必ずしもそうではなかったようだけれど、兄と妹という組み合わせが、一般的で理想的であったということだろうね。だから『マ・ナセル』は『我が』、『マ・ナセア』は『我がいも』と翻訳するのが正しいのだが、我が国において近親相姦は禁忌とされる罪悪だから、国教会が目角を立てぬよう、両方『私のあなた』と味気なく訳すことになる……。

 頭に『マ』を付けるのは、『私の』という言葉の意味に添えて、そうすることで単なる人称に、『私の最愛の人』『私の大切な人』『私の唯一人の人』というような、強い想いを込めているのだよ。実際に兄と妹であるかどうかは係わりなく、夫婦が互いに呼び交わす、愛の言葉といったところかな。『マ・ナセル』『マ・ナセア』という呼びかけは、自分の伴侶以外には使わない。何の説明がなくとも、劇中そのように呼び合っていれば、二人の関係は夫婦あるいはそれに類するものなのだと覚えておくといい」


「そういうことだったのですか! エスパネルラは大神の花嫁で、大神アウルと愛し合っているからアウルのことを『マ・ナセル』と……、呼び掛けに想いを込めるなんて素敵、面白いですね……!」

 大きく合点がいった様子で、アレグリットは黒い瞳をきらきらとさせながら、手元の紙に何やら熱心に書き付けてゆく。なかなか披露する機会の無い、自分のうんちくに感銘を受けてもらえるのは、実に気分がよいものだ。



「それほどグラシア戯曲がお気に召されたというのなら、今度解説をして差し上げようか?」

 爽快ついでにユーディスディランは、アレグリットに対してもう一段、踏み込んでみる気になった。

「解説?」

 ペンを走らせていた手を休め、アレグリットは視線を上げた。

「そう、『滅びの詩』は、めったにやらない大作だから私も観ておきたい。本場の古典歌劇団ならば、良いものを見せてくれるだろう。お誘いしてはご迷惑かな?」

「――いいえ」


 驚きに、思わずぽろりと取り落としたペンを、恥ずかしそうにインク壺に収めてから、アレグリットは居住まいを正した。

「それは是非、是非、喜んで――という気持ちで一杯です。ですがわたくしは今、王后陛下の人質ですので……。たいへん恐縮でございますが、お受けしてよいかどうかのお答えは、陛下に伺って頂けますでしょうか?」


 そう来たか。

 アレグリットの回答にユーディスディランは苦笑する。他家の令嬢を誘うのに、自分の母親に許しを乞わねばならないとは、どうにもこうにもおかしな話だ。

「それでは母上から、一夜の人質解放をもぎ取って来ねばならないね。アレグリット、いい子にして待っていてくれるかな?」

「はい、殿下。わたくしとっても、ええ、とっても……、楽しみにしておりますわ」


 小さく顎を引いた口元に両手を揃えて、アレグリットは喜びを隠しきれない様子で笑んだ。なんとも素直で愛くるしいことだ。こんな顔を見せられて、少女の内から漏れ出す思慕に、気付かない男は野暮というものだろう。



*****



「あらー、まあ……。あらまあ、まあ、まあ、まあ……」

 その夜のうちに、ユーディスディランがアレグリットを誘い出すための許しをもらいにゆくと、何度も「まあ」と連発した後に、ドロティーリアは不服そうに唇を尖らせた。

「あたくしたちが出掛けているうちに、お留守番同士でちゃっかりと進展しているだなんて、これは一体どういうことかしら? あなたのためを思って色々企画しています、あたくしが馬鹿みたいではないの!」


「そんな、進展といえるほどの進展はしておりませんよ。あとそれから、アレグリットを人質に取られたのも、かの姫に図書室への立ち入り許可を与えられたのも、ついでに本日王宮に置いて行かれたのも、さらにいえば近衛二番隊の者たちを最大限まで借り上げて行ったのも、全て母上ではありませんか。なのにとやかく文句を言われても……」


 拗ねる母親は扱いに困る。おまけにドロティーリアときたら、幾つになっても子供じみたところのある人だ。妃選びを先延ばしにしていたらそれはそれで不平であるくせに、アレグリットとの近接を、秘密裏にしていたからといってごねる母后に、ユーディスディランは閉口した。


「それは、ねえ……。少々強引な手を使って、そのつもりをしていなかったグネギヴィットに、妹の健康と勉学の権利を守ることを保障して、アレグリットをあなたのお妃候補に残したのは、新緑祭以降のあなたを見ていてなんとなく、そうしてあげた方がいいかしらねって予感があったからですけれど……。ねえユーディ、あなた本当に、昔のグネギヴィットが好きでしたのね」


 件の人質事件を起こすに至った心情を暴露して、ドロティーリアはしみじみとそう言った。

 グネギヴィットの名を上げる前に『昔の』と付けるあたり、ドロティーリアには息子の女性の趣味がよく把握できているらしい。ユーディスディランが『今の』グネギヴィットには、すっかり幻滅させられていることも承知の上だろう。


「そのように受け止められますか?」

「そういうことでしょう? 違うのかしら? グネギヴィットとアレグリットは似た者姉妹だと思うわ。似ているところが似ている分だけ、相違も目立ちますけれど」


 その似ている個所は、おそらく、サリフォール家の――もっと正確に言えばシモンリールの、教育によって培われた部分だろう。そして母親譲りの美麗な容姿。この見た目ばかりは、サリフォール家の姉妹のような系統が、ユーディスディランの好みに合致しているのだとしか言いようがない。


「それを理由の全てのように見られてしまうのは複雑ですね。私自身も、それをきっぱり否定できるかということを、己に問うているところではありますが……。その答えを早く導き出すためにも、アレグリットの観劇への同伴許可を頂戴したいのです。もしもアレグリットに抱いている関心が、どうしようもなく歪であるのならば、私は妃選びを始めからやり直さねばなりません。それからあれです、今の舞台の演目が、『滅びの詩』とあっては見逃すのも惜しい。二番隊の者を付き合わせて行くだけでは面倒が避けれませんので」


 同伴者が女性であれば、劇団の後援目当てに、看板女優をしつこく売り込まれることも、それを袖にしたからといって、何を勘違いしたのか美童をあてがわれそうになる危惧もなく、純粋に観劇が楽しめるだろう。そういった笑えない経験をしたせいで、劇場から足を遠ざけていたユーディスディランだが、長々と語れるくらいにグラシアの古典歌劇は好きなのだ。


「そうねえ、わざわざ王立劇場に運ぶだけの価値は充分にあるわね。主役の大神の花嫁が、正にはまり役といった感じの銀髪の歌姫で、歌声や演技はもちろんのことですけれど、見目も実によろしいのよ。あたくしも二度三度と、観たいと思っていたところなのですのよね……。だから、そうねえ……、ユーディ、こうしましょう。あなた方の分の桟敷も、あたくしが一緒に押さえておいてあげる。アレグリットの予定はあたくし次第ですし、あなたの都合は侍従に確認しますから、日時は決めてから伝えても構いませんわよね?」


「と、いうことは……、保護者付きですか? 私の」

 母后の発案に、ユーディスディランは心底嫌そうに眉根を寄せた。ドロティーリアは口元に手を当てて、朗らかに笑声を上げた。


「あらー、おほほほ……、あたくし若い人たちのお邪魔なんてしないわよ。あたくし隣の桟敷から、あなたたちの様子もついでに観覧したいだけ。今日の舟遊びを土壇場で反故にした穴埋めに、それくらいの保養はこの母に提供してくれてよいのではなくて? ユーディ」


 デレス王宮最強の王后ドロティーリアは、得手勝手な彼女の理屈で、ユーディスディランの良心をちくちくとつついてくる。

 ドロティーリアが頑として譲らない、この条件を飲まなければ、アレグリットを同伴させてあげない、と言うので、ユーディスディランは渋々ながらに了承した。


「母上は本当にお人が悪い」

「まあ、こんなにも息子思いの母に向かってそんなことを言うだなんて! さあ、あたくしは、誰を誘って行こうかしらね?」

「……父上とお越しになればよろしいでしょう」


 というのが、ユーディスディランのせめてもの希望だが、そんな平和な人選をせずに、ドロティーリアはおそらく、観衆が舞台そっちのけで二つの王室桟敷をちらちらと窺い見るような、注目の連れを同席させることだろう。

 アレグリットと観劇をすること自体は非常に楽しみだが、今からその席の並びが目に浮かぶようで……、 がっくりと、肩を落とさずにおれないユーディスディランであった。

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