2-3

 兄の寝室へ半ば強引に足を踏み入れて、その惨状といってもよい状況にグネギヴィットは愕然とした。

 シモンリールは喀血をしたらしく、枕もとの脇机には血を受けた洗面器が置かれていた。床には赤く染まった浴布タオルが投げ出され、病人の苦痛を物語るように、乱れた寝具にも鮮血の痕がある。

 右手で寝衣の胸を掴み、左手で口元を押さえながら、寝台に倒れた身体を二つに折って、シモンリールは激しく咳き込んでいた。


「ああっ!! お兄様っ!!」

 アレグリットが悲鳴を上げて、いち早く兄の寝台に駆け寄った。二人の令嬢が揃って駆けつけたことに気づいて、シモンリールに付き添っていた主治医と近習が大急ぎでその場を譲る。

「兄上……! 兄上! しっかりなさって下さい!!」

 シモンリールを励ましながら、グネギヴィットは少しでも兄の苦しみを和らげようと何度も背を擦った。寝衣越しに感じ取れる肉厚の薄さに驚き、痩せて尖った顎や筋張った腕に胸が締め付けられる心地がする。


「……ガヴィ」

 発作が少し収まると、シモンリールは落ち窪んだ目をうっすらと開けて、短い愛称でグネギヴィットを呼んだ。

「……いつ……?」

「先刻戻りました。ご挨拶が遅れて申し訳ありません」

「……そうか……」

 受けた衝撃を押し隠して、無理に微笑してみせるグネギヴィットに、シモンリールはほっと安堵したような、それでいながら嗜めるような眼差しを向けた。


「ガヴィ、アレットを連れて……、今すぐ自室に、引き取りなさい……。分別のある淑女が……、そんなはしたない格好で、人目に触れるものではない……」

 非常事態であるとはいえ、グネギヴィットはほとんど就寝前の格好である。麗質を謳われる令嬢の、妄想を掻き立てる悩ましい姿に、シモンリールの年若い近習は、急変した主人の容態を案じつつも、目のやり場に困り果てていた。


「ですが、兄上」

 切れ切れの言葉の合間にも、苦しげな咳と隙間風が漏れるような不吉な喘鳴は続いている。開いたガウンの襟をかき合わせながら、得心ができず抗議するグネギヴィットに、アレグリットも同調した。

「そうですわ、お願いですからもう少しお傍にいさせて下さい」

「アレット……、君はとうに……、休んでいなければならない、時間の筈だ……」

「お兄様、後生ですから」

「私の命が……、聞けないのかな……?」


 苦しい息の中でも、シモンリールは有無を言わせなかった。熱を帯びて燃えるような指先が、重たげにもたげられてアレグリットの髪を撫でる。一門を統率する当主の権限で、エトワ州公サリフォール公爵シモンリールは妹たちの口をつぐませると、達観したように瞳を閉じた。


「案じなくていい……。私はまだ、死んだりはしないから……。自分の身体のことは、自分で一番にわかっている……」

「兄上……」

 呟くグネギヴィットの傍らで、アレグリットは離れゆく兄の手を引き止めるように、両手で硬く握り締めていた。病にやつれた今でも女性のように美しい優しげな手であるが、それは柔軟に民意の手綱を操り、臣民に慕われながら一つの州を治めてきた、英明な為政者の手でもある。


「グネギヴィット様、アレグリット様」

 遅ればせながらやってきて、公爵と令嬢たちを見守っていたソリアートンが、頃合いを見計らって背後から呼びかけた。その喜びに彩られた誕生の時から知っている、大切な『お嬢様』たちに、情愛を込めて優しくも厳しく言い諭す。

「どうか、シモンリール様のお言葉を聞き入れて、今宵はお控え下さいませ。さもなくば、兄君の御身もお心もいつまでも休まりません」

「そう、だな……」

 答えてグネギヴィットは妹の肩を抱き寄せた。今、シモンリールの傍を離れるのは身を切るように辛いが、自分たちの心を満たす為に、必要以上の気力体力を兄に削がせてしまっては、元も子もなくなってしまう。


「行こうか、アレット」

「はい……お姉様。お休みなさいませ、お兄様」

「お休み……、アレット……」

 黒い瞳を少しだけ覗かせて、シモンリールは微かに笑んだ。

 いささか名残惜しそうに、兄の手をそっと寝台に戻して、アレグリットは安らぎを求めるようにグネギヴィットの身体に頬を摺り寄せた。


「また明日に、衣服を改めて出直して参ります、兄上」

「ああ……、だけど、ガヴィ……」

「何でしょうか?」

「執務服でも……、駄目だよ……」

 立ち去りかけたグネギヴィットに、シモンリールは釘を刺した。

「承知しました。兄上がお望みの姿にて、お目にかかるように致しましょう」

 その言葉に込められたシモンリールの思いを、グネギヴィットは切なく受け止めた。

 シモンリールの意を酌んだソリアートンと共に、二人の令嬢は後ろ髪を引かれながらも兄の寝室を後にした。

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