第四章「寒椿」

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 州公代理としての初日の政務を、グネギヴィットは定刻の一時間前に切り上げた。

 仕事は文字通り山積みに残っており、ローゼンワートに後を託して、一足早く退席するのはいささか気が引けたが、何をおいても優先させたい大切な私事が控えていたからである。


 政務の後、散策がてらに中庭を抜けて居室のある北棟に戻るのは、もともと兄シモンリールの日課である。幸いにして雪は止んでいたので、グネギヴィットは侍女に命じて外套を運ばせると、人気のない中庭を、今日は一人歩いてゆくことにした。

 兄と二人肩を並べて、とりとめもなく話しながら北棟に向かうこの時間が、グネギヴィットは一日の中で最も好きだった。薫風が心地よい暖かな季節には、四阿あずまやで茶器を揃えたアレグリットが待ち伏せていて、夕暮れ時の茶話会に興じたこともある。


 政務で疲れた主人たちの目を楽しませ、心を憩わせていると思うと気合が入るのか、【北】エトワ州城の庭師たちは、四季折々の花々を絶妙に配置して、丹精を込めて庭を造っていた。日が短く寒さが厳しい雪の季節に、公爵家の人々が庭に出る機会は少なかったが、庭師たちはいつ何時なんどきでも主人の期待を裏切らないようにと、冬に開花する木も植えて、しっかりと雪かきをしておくことも怠らなかった。


 そんな彼らのたゆまぬ努力の賜物で、グネギヴィットは真っ白な雪に埋もれた中庭の一隅で、見事に咲き初めた椿の花枝を見つけた。濃緑の艶やかな葉も美しい生垣の前で足を止め、花びらを覆う冷たい雪を指先でそっと払う。

「……綺麗……」

 雪の下から現れたのは、濃い黄色の大きな花心を、暗紫色の花弁が慎ましやかに包んだ、一重咲きの椿である。寒冷の中で力強く開花した、その花の名をオルディンタリジン――冬男神の椿、という。


 ついいつもの習慣で、ふと視線を向けた傍らに、喜びを分かち合う兄がいないことが、グネギヴィットの胸を切なく締め付けた。

 泣いてはいけない、と思う。これしきのことで。バークレイルの失言に憤慨し、諦めを臭わせるローゼンワートを叱咤ながらも、兄を喪う覚悟が必要であることを、グネギヴィットも既に悟っていた。


 昨夜シモンリールの寝室を辞し、アレグリットを宥めて寝かしつけた後、やり切れない思いをぶつけるようにして、グネギヴィットは長らく知らせを寄越さなかったソリアートンを責めた。

 執事は黙ってその叱責を受けていたが、本当はグネギヴィットにもわかっていた。床から離れられぬほどに衰弱するまで、グネギヴィットを呼び戻すことを許さなかったのは、王太子と妹の恋の行方を慮っていた、シモンリール自身に違いないと。そうしてその兄が強固な意思を曲げて、グネギヴィットに遣いを出すことを認めたのは、自らの生の終わりを予感したからに他ならないのだということを。


 暗紫色のオルディンタリジンは、グネギヴィットに王太子の誠実な瞳を連想させた。心が脆く押し潰されそうな今こそ、ユーディスディランに傍にいて欲しかった。支えていて欲しかった。けれども、国王代理として一国を統べる王太子に、一人の娘の恋人であることだけを望めはしないのだ。

 為政者としての責を負うのは、グネギヴィットもまた同じである。本当は崩れ落ちてしまいそうであっても、悲嘆にくれて挫けた姿を晒すわけにはいかなかった。人知れず涙を払い、顔を上げたグネギヴィットの耳に、さくりさくりと、雪を踏みしめる足音が聞こえた。

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