16-5

 晩餐の後、シュドレーは、一旦客室に引き上げて出直すということはせず、グネギヴィットを彼女の部屋まで送ってくれた。

 グネギヴィットの居間に明かりを灯して、テーブルを挟んで向かい合う、女主人とその叔父を残しマリカが退出する。それと入れ替わるようにして、丁重なノックの音が響いた。


「お邪魔を致します。お嬢様」

「ソリアートン、今は――」

 人払いを命じている筈だと、制止しかけたグネギヴィットを、シュドレーの声が遮った。

「いいんだ、執事は私が呼びつけていたのだよ。入っておいでソリアートン」

「はい」

 入室してきたソリアートンは、何か黒くて細長いものをシュドレーのもとへ運んできた。言い付けどおりに手渡されたそれに、シュドレーは微笑する。


「ああ、ありがとう」

「あ、それは……!」

「では、失礼致します」

 ちらりとグネギヴィットに案ずるような眼差しを投げかけて、用を済ませたソリアートンは速やかに立ち去った。グネギヴィットの背後で、重く扉が閉ざされる音がする。



「ガヴィの日傘、だね」

 改めて人払いの済んだ部屋で、長椅子に掛けた膝の上に黒い日傘を乗せ、確認を取るようにシュドレーは尋ねた。

 何故そんなものをわざわざ、シュドレーは今この場に届けさせたのか? 一度ソリアートンに預けたのならば、そのまま執事に任せてしまえばよかったものを――。

 困惑を滲ませながらグネギヴィットは、必要以上の動揺を押し隠した。ちゃっかり屋の叔父はただ、褒美が欲しいだけかもしれない。


「え、ええ……。今日の散策中に、中庭に置き忘れてしまったものです。シュドレー叔父上が拾って下さったのですね」

「拾ったのかと聞かれると、厳密には違うかな。客間でガヴィとローゼンを待っていると、困り顔の若い庭師が、これを片手に君の庭へと入ってきたものだから、咎めるついでに託されてやったという次第だ」

「ああ、そんなことが……! 至らぬ下男がお目汚しを致しました。お手を煩わせてしまい申し訳ありません。どうもありがとうございます」


 本気で驚いてしまった後で、当たり障りなく謝辞を述べ、グネギヴィットは日傘を受け取ろうと手を伸べた。けれどもシュドレーは、すんなりとそれを渡してはくれなかった。


「叔父上?」

 どうされたのです――? と、グネギヴィットは、さも不思議がって見えるような表情を作る。今までのところ、不自然さはないと思っているのだが、内心はもう蛇に見込まれた蛙の状態だ。

 そんなグネギヴィットを前に何を思うのか、シュドレーはふうと一つ吐息を付くと、悩ましげにこんなことを切り出した。


「私はね、ガヴィ、主人の物に手を掛けるような使用人は、厳しく罰していいと思っている。だがねえ、主人自身に手を付けるような使用人となると、どう処すればよいものか見当もつかない」

「それはわたくしにも……。ずいぶんと不埒な使用人がいたものですが、新しいお芝居の構想か何かですか?」


 右手で閉じた日傘の腹を掴み上げ、その持ち手でとんとんと左の手のひらを打ちながら、シュドレーは値踏みをするように、グネギヴィットを見る目を細めた。

「とぼけるのが上手だね、ガヴィ。けれど惜しむらくは、共演者がよろしくない。君は相手役を選び間違えたね」

「相手役?」

 何の事だかさっぱりと言いたげに、グネギヴィットは首を捻る。日傘で拍を取る手を、シュドレーは止めた。


「そう――」

 しぶとく白を切るグネギヴィットの胸元に、勢いよく日傘の持ち手を突き付けると、びくりとのけ反る彼女の瞳を睨み据え、シュドレーは劇的に声を荒らげた。

「君は天性の役者だけれど、君の庭師はとんだ大根だ! まったく守り役は何をしていたかと叱れば、見て見ぬふりをしていたと抜かすじゃないか!!」


 ばれた――!!


 ルアンの存在が、こともあろうにシュドレーに露見してしまった! 日傘を捨て置いてきてしまった、グネギヴィットがより悪いのかもしれないが、その後のルアンの行動も不用意に過ぎるだろう。

 とはいうものの……、あんな風に物別れをしておきながら、グネギヴィットの忘れ物を見過ごせなかったところ、それに侍女たちやソリアートン、あるいは庭師長に届け出る前に、シュドレーに見咎められてしまうような運の無さが、どうしようもなくルアンなのだが……。



「何か言い分は? ガヴィ」

 日傘をテーブルの上に置き、膝の上に指を組み直して、シュドレーは先ほどとは打って変わった静けさでグネギヴィットを追い詰めた。

「……ございません」

「そうだろう。居直られたところで、私は聞く耳を持たないがね」

 言い分は無い、言い訳などできようはずがない、だが……。グネギヴィットは、激昂したシュドレーの言葉の一部に、大きなひっかかりを感じていた。


「ローゼンワートは、知っていたと……?」

「ああ」

 そろそろと伺うグネギヴィットに向けて、シュドレーは苦虫を噛み潰したような顔をした。

「そのようだ。あの性悪狸め、尻尾を出す際に舌も一緒に出してくれた。庭師の素性も素行も性格も、全て把握した上で見逃してきたのだと。あれ自身がガヴィのの部分までをも引き受けて、何もかも自分一人に依存させ、潰してしまうよりは良かったでしょう、と」


 あまりのことに、グネギヴィットはぐうの音も出なかった。

 素知らぬふりをしながら、グネギヴィットの隠し事を掴みルアンのことを調べ上げ、ローゼンワートはそんなことを考えていたのか! 恥ずかしいやら情けないやら憎らしいやら……。ローゼンワートに、否、それを許してしまったグネギヴィットに、シュドレーが激怒してしまうわけだ。



「いいかい、ガヴィ。私が君を持ち上げる道化師でいてやれるのは、君がローゼンワートの飼い主であるからだ。私はあれを反吐が出るほど嫌いだけれど、州政におけるあれの手腕は、持ち腐れさせるには惜しいと認めているからね。

 ……しかし主従を反し、君があれの手の内で踊らされてしまうようならば、私は態度を改めさせてもらうしかない。君はまだ青い。一度のことで見限りはしないが、肝に銘じておくことだね」

「……はい」


 声と身体の震えを抑えながら、グネギヴィットは辛うじて頷いた。

 何かと喧しく騒ぎ立ててくれて、面倒なのはバークレイルだが、本気で敵に回してしまった時、一門の中で最も怖いのは、道化師の仮面を剥がしたこのシュドレーだ。


「シモンを亡くし、王太子殿下とは別れを選んで、ガヴィがたまたま目に付いた者に、心の拠り所を求めたことを責めはしない。爵位を継いだばかりの君を追い込むことしかしなかった、我々一門にも責任の一端はあるだろうからね」

 シュドレーの怒りの主点は、あくまでローゼンワートを飼慣らせていない、グネギヴィットの当主としての至らなさにあるということらしい。息を詰めながらも、少しだけほっとしかけたグネギヴィットに、畳みかけるようにシュドレーは続けた。


「しかし、政略として結婚を考えるような段にもなって、情夫と切れていないのはいただけないな。アンティフィント公の息が掛かったザボージュ殿の従僕は、この縁談を進めるにしても破るにしても、アンティフィント家を優位に立たせるため、ガヴィの身辺に探りを入れてくるだろう。今ならばこの日傘を理由にして、主人のものに手を掛けた疑いで、庭師を解雇できるがどうか?」

「いいえ!」


 シュドレーの非情な提案を、グネギヴィットは即座に却下した。

 いままでずっと、自分の心を支えてくれたルアンに、そんな恩を仇で返すような仕打ちなどできない。もしも罰を受けるとしたら、それは、『主人』として、『使用人』に無理を強要し続けた、自分だけでなくてはならないはずだ。


「それはなりません。これまで真面目に勤めてきた者に、らしくない疑惑をかけて急な厳罰に処するなど……、その事実を突き止められた場合に、むしろ不審を与えることになりましょう。それに――」


 一旦言葉を途切らせ、グネギヴィットはルアンと過ごした日々を思い起こした。二人の間にはずっと、目には見えない線が引かれていた。それはまさに、今日の今日になって、ルアンに乱されてしまったけれど……、ただ真っ直ぐでなくなってしまっただけで、あちらとこちらにきっぱりと、二人を隔てていることに違いはないのだ。


「それに、わたくしと庭師は、叔父上が誤解なさっているような不適切な関係ではございません。わたくしが命じ、時々会って、よしなしごとをつらつらと、聞いてもらっていた……、それだけのことです。庭師は己が分際をよくわきまえ、わたくしとの繋がりをいつまで保つかは、わたくし次第と心得ております。係わりを断ってしまいたければ、ただわたくしが、庭師に声を掛けなければいい。それだけで、終わるのです」


「なるほどね……。ガヴィのことだ、そのようなことだろうとは思っていた。だけどガヴィ、どうしてガヴィは、そんなにも泣きそうな顔をしているんだい?」

「泣く……?」

 指摘されて、グネギヴィットの視界は滲んだ。目頭に触れ、濡れた指先に戸惑い、我がことながら呆然とする。

「何故……、でしょう……?」


 己に問いかけても答えは出せない。いや、出してはいけないのかもしれない。こんなにも今、自分の身体は、泣きたがっているというのにだ。

 それを我慢することはないと言ってくれたのは、そうだ、ああ、ルアンだった……。月夜の庭で、温かく涙を受け止めてくれた彼を、まるで大樹のようだと思った……。二度とは会いにゆけない、それが胸に迫るせいか、グネギヴィットの心の内にはルアンのことばかりが思い返される。

 胸が痛い。苦しくて、たまらない……。ずっと『気晴らし』に付き合わせてきた庭師を失った。ただ、それだけのことだというのに。



 グネギヴィットの瞳の淵から、涙が粒となって零れ落ちてしまう前に、シュドレーは静かに席を立ち、その頭を片腕で抱いてやった。

「今夜だけは、見逃してあげよう。自覚がないとは困ったものだ……。ガヴィ、君は大概の事には聡いくせに、どうしてある一点に関してだけ、こうもお鈍さんに育ってしまったものだろうか」

「自覚……?」


「そう。げにままならぬは人の心。そうと気付いた時には、抜き差しならぬところまで、落ちてしまっているのが恋というものだ。ガヴィはもっと早くに……、傷がずっと浅くて済むうちに、自分が恋をしているのだという、自覚を持つべきだったろうね」

 幼子をあやすように、グネギヴィットの髪に口付けを落として、シュドレーはお休みを言い去って行った。

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