16-4

 一体どうして、こんな事態を招いてしまったのだろう――?


 自分の無防備さを棚上げにして、グネギヴィットは苦悩していた。自分は何よりもまず主人であり、そしてルアンは使用人であり、お互いに、決してそれ以外のものにはなりようがないのだと、割り切っているものと思ってきたのに。


 残りの距離を全て走り切る――などということはさすがにしなかったが、グネギヴィットがルアンの言葉を振り払うようにすたすたと歩き続けた結果、北棟へは、いつもよりかなり早足に辿りついた。

 額に汗粒を光らせ、肌を火照らせて私室に戻ったグネギヴィットを、マリカ以下数名の側仕えの侍女たちは、驚きの表情で出迎えた。


「公爵様! そんなにたくさん汗なんてかかれて、一体どうされたんですか?」

 年少の侍女に汗を拭わせ、クルプワ硝子の綺麗なグラスに冷たい水を注ぎながらマリカが問う。長椅子に腰かけて、受け取った水で一息をついてから、グネギヴィットはそれらしく言い訳をした。

「ああ、うん、庭でのんびりしすぎた気がしたから、ちょっと急いだだけ」

「日傘はどうなさったんですか?」

「あ……、どこに忘れてきたんだろう……?」


 グネギヴィットはとっさにしらばくれた。今すぐ誰かに取りに行かせて、万が一にもルアンと鉢合わせなどされては困る。

 自分の手に、愛用の日傘が無いことには、駆け出してすぐに気付いていた。しかしとてもではないが、取りに戻るような気にはなれず……、そのまま放置してきてしまったのだ。


「仕方ありませんね、私どもでお探ししておきます。思い出せることがあったら教えて下さい。それよりも公爵様!」

「何?」

「まずは急いでご入浴を。それからお肌のお手入れです! どれだけ陽を浴びられたか知りませんけれど、そばかすなんて絶っ対に作らせません!!」


 悲鳴のような声で迫るマリカに圧され、グネギヴィットの腰は引けた。これは一言言い置いておかねば不味いだろう。

「わかったから――、晩餐の時刻は遅らせないように、ね」



 浴室に足を運んだグネギヴィットは、侍女たちに全身を隈無く洗われ肌の手入れを施された。丁寧にしながらも、無駄動きがない分だけ迅速なのはさすがである。

 その間、グネギヴィットは、悶々とルアンに言われたことを反芻し続けていた。

 グネギヴィットは綺麗だと言われることには慣れている。それこそルアンにだって、前にも言われた。後ろに『ご主人様』と付いていたし、今さら動揺するようなことではない。

 けれどあとの言葉は反則だった。可愛い……? 可愛い? 可愛いだと!? 自分はルアンの前で、可愛くなどした覚えはない。男の格好をした主人を掴まえて、『可愛い女の人』とはどういうことか!? 毛の生えたしゃべる庭木のくせに!!


「――お召し物はいかがなさいますか?」

 気が付けばグネギヴィットは、湯上りの肌に薄物を纏わされ、衣装室に連れて来られていた。侍女たちは女主人を着飾らせるのが大好きで、瞳を輝かせながら待っているが、今のグネギヴィットは衣装選びに集中できるような心地ではない。

「他に考えていたいことがあるから、今日はお前たちに任せる。シュドレー叔父上は身内でいらっしゃるけれど、あまり簡素にしないでそれなりのものを」

「はい」


 侍女たちは喜色を顕に相談を始め、しばらくすると一着の室内着を選んできた。マリカが侍女たちを代表して、にこにこと笑いながらそれをグネギヴィットの前に示す。

「それでは是非、こちらを、公爵様。本日のお顔の色にぴったりだと思います」



*****



 州府の終業時刻には、既に到着していたというシュドレーは、あてがわれた客室で荷解きを済ませた後、ソリアートンによってグネギヴィットの専用庭に面した小振りな客間に通されていた。かつて王太子の供応に使われたこともある、大切な客を大げさにせずもてなす際に、グネギヴィットが好んで使用する部屋である。

 グネギヴィットがソリアートンに一声掛けさせて入室すると、シュドレーは、その姿を目に入れて頬を綻ばせた。


「おやおや、変わった色を」

 シュドレーのからかうようなつぶやきを漏れ聞きながら、グネギヴィットはドレスを摘み膝を折った。

「ようこそいらせられませ、シュドレー叔父上。お待たせを致しまして」

「堅苦しいのは抜きだよ、ガヴィ。今から私は君の親代わりだ。それにしてもガヴィぽくない、珍しい色のドレスを着ているね」

「侍女たちの好きにさせたらこんなことになってしまって……。おかしくはありませんか?」

 一礼を終えたグネギヴィットは恥ずかしげに顔を上げ、自身の身体を捻りながら落ち着かなげに尋ねた。


 侍女たちが今宵の晩餐の為、グネギヴィットに選んだのは、鮮やかな珊瑚色の室内着であった。良い生地であったから仕立てさせてはみたものの、こういった愛らしい色はもう、アレグリットの方がずっと似合うような気がして、グネギヴィットが箪笥の肥やしにしていた品である。


 普段とは違った色味の衣装に合わせて、髪型や化粧も常よりも優しげに、甘い感じに仕上げてある。首元を飾る宝石は、若かりし日の祖母の横顔を刻んだ珊瑚のカメオ。そして髪飾りとして使われているのは、小さな薔薇の生花であった。それがひょっとしたら、ルアンの手に触れたものかもしれないという思いが、 ぐらぐらとグネギヴィットを戸惑わせ、その頬を花弁と同じ色に染め上げる。


「いやいや、とても素敵だ。ガヴィは色白だからそういう色もよく映える。ザボージュ殿をお迎えした際にも着るといいね、新たな魅力に惚れ直すだろう」

 シュドレーはそう褒めて満足げに頷くと、エスコートの為にグネギヴィットに歩み寄った。手の甲に口付けて挨拶を済ますと、はやばやと食堂へ促そうとする。


「ローゼンワートがまだのようですが」

 わざとなのか気ぜわしい叔父に、グネギヴィットは待ったをかけた。きちんと釘を刺しておいたのに、自分よりも遅れるとは、ローゼンワートもローゼンワートだ。

「ローゼンなら、来た後だ」

「来た後?」

 グネギヴィットが説明を求めると、シュドレーはさも不快そうに眉を顰めた。

「私の機嫌を著しく損ねてくれたものだから、晩餐は遠慮するよう言いつけた。勝手ながら部屋に下げさせてもらったよ」


 なんと! 顔を合わせて早々にぶつかってしまったのか……! シュドレーとローゼンワートの仲が、『よろしくない』という生温い形容では追いつかないことは、グネギヴィットも重々心得ているが、一門の協力体制が求められる今、つまらぬ喧嘩は自粛してもらいたいものである。


「何をしたのです? ローゼンワートは」

「食事は美味しく頂きたいから今はやめておきたいな。後でガヴィの部屋にお邪魔しても構わないかい?」

「ええ。それでは、一献用意させましょう」


 しばらくの間、親代わりを務めてもらう叔父を宥めるためである、秘蔵の蒸留酒の栓を切るぐらいはしようとグネギヴィットは思ったが、銘酒でごまかされてくれるつもりはないようで、シュドレーはきっぱりと断った。

「長居をするつもりはないから、それはいいよ、何もいらない。但し人払いはしっかりとして欲しい」

「わかりました」


 人払いが必要な告げ口とは! ローゼンワートは本当に何をしでかしたのか? その不安のお陰で――というのも妙な話だが、グネギヴィットはここでようやく ルアンに対する物思いから離れることができた。


 初っ端からこれとは、全くもって頭が痛い。しかし日頃の二人を思い返すにつけ、一方的にローゼンワートだけが悪かったとも思えない。

 ローゼンワートにはまあ、シュドレーの話を聞いた後に少しだけ呼び出して、注意を与えるついでにお預けになった『残業の埋め合わせ』をしてやろう。せっかくの料理だから、夕食は自分たちのと同じものを、部屋に運ばせてやることにして――。



 ローゼンワートの食事の対処をソリアートンに命じて、気持ちを切り替え臨んでみると、話術の巧みな叔父と二人で囲む、晩餐は楽しかった。

 様々な話題を持ち出し、グネギヴィットから笑いを引き出してくれながら、シュドレーは始終にこやかに過ごしていた。



*****



 後に、この日の終わりの出来事を回想して、グネギヴィットは、実はこの時、はらわたを煮えくりかえしていたシュドレーの、狸芝居に気づき愕然とすることになるのだが。

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