16-6

 恋――。

 一人残された部屋の中で、止まることを知らない涙で頬を濡らしながら、グネギヴィットは、自ら掛け続けた目隠しを外し、己の心の真実に向き合った。


 会えなくて、寂しくて。

 会えれば、嬉しくて。

 会いにゆけなくなることが、心が潰れるほどに悲しくて。

 この想いを。

 恋と呼ばずして、一体何と呼ぶのだろう――?


 気付いてしまえば、この上なく単純な答えであった。

 けれど披露目前の少女の頃から、后がねの姫として期待されてきたグネギヴィットに、当主として婿取りをせねばならなくなったグネギヴィットに、恋する相手を選ぶ自由が与えられたことなどあっただろうか?


 父母と兄の教育の結果としてグネギヴィットは、自分にとっての恋愛は、結婚に付随するものであり、定められた相手と、政略含みでするものであると決め込んできた。だから……。

 釣り合いの取れた男と女としてではなく、主人と使用人として巡り逢い、人と人として係わり合ってゆくうちに、我知らず芽生えてしまっていたルアンに対する恋心が、こんなにも大きくなってはぜてしまうまで、グネギヴィットには全く見えていなかったのだ。



「公爵様、人払いはもうよろしいですか?」

 シュドレーから知らせがいったのだろう。扉の外から、軽いノックの音と、マリカの声がかかった。

「来るな!!」

 グネギヴィットは、反射的に叫んでいた。思いがけない主人の剣幕に、答えるマリカの声が焦る。

「こ、公爵様……? でもあの、明日もまたお早いですし、お休みのお着替えをなさらないと……」

「いいから! わたくしに構わないで!」

「公爵様……」


 扉の向こうで、マリカがしゅんと気落ちする気配が感じられた。こんなのは、ひどい八つ当たりだ――。しかしグネギヴィットは、ぼろぼろに泣き崩れ、繕うことができないでいる今の自分を、侍女たちに見せてしまいたくはなかった。寒々とした心持ちで、なんとか己を立て直し、グネギヴィットはのろのろと室外へ呼び掛けた。


「……マリカ、まだ、そこにいる……?」

「はいっ」

 主人の号令にぱたぱたと尻尾を振る、忠犬のような声音が返ってきた。

「みなに伝えなさい。今日はみな、下がるように。何も言い付けるつもりはないから、不寝番もいらないと……。そのかわりに明日の朝、いつもより早くに支度に来て。マリカ、お前一人だけで」

「畏まりました、お心のままに致します。お休みなさいませ、公爵様」

 微かに声を震わせる、グネギヴィットの堅い命に、マリカは従順に引き下がった。


 これでグネギヴィットの私室の周囲には、誰もいなくなった筈だ。それでも……。グネギヴィットは己の醜態が漏れることを懼れて、両手でぐっと口元を覆い、声を殺して泣き続けるしかできなかった。



*****



 明朝。

 グネギヴィットの命令通りに、一人で主人の支度をするため、その寝室に伺ったマリカは、泣き腫らしたまま眠ってしまったらしい、グネギヴィットの姿に唖然とした。

 昨夕、薔薇色の頬をしていたグネギヴィットを、さらに甘やかにしていた室内着も宝飾品も、そして靴も下着までも、投げ出すように散らかされている中で、髪に挿して飾られていた、しなびた薔薇の花だけが、やけに一輪一輪丁寧に引き抜かれ、鏡台の前に並べられている気がした。


「酷いお顔です」

 昨夜、扉越しに届いた主人の声が、涙声に聞こえたのはやはり気のせいではなかったと……。マリカは洗面と歯磨きを済ませたグネギヴィットを、枕を高くした寝台に寝かせて、その腫れ上がった瞼の上に、周到に用意してきた加密列カミツレ茶を浸した冷湿布を乗せた。

「何がおありだったのか、伺いたいけど伺いませんけれど……、今日はご政務を休まれてはいかがですか?」

 そうしてさらに目の周りに、指圧を施してくれながらマリカが言う。加密列の優しい香りと、マリカの指が与える適度な刺激が、グネギヴィットの心身を鎮めてゆく。


「それはしない。ザボージュが来る前に、できるだけ仕事を片しておきたいから」

 さらに、シュドレーが見逃してくれたのは昨晩だけだ。叔父は一夜明けたグネギヴィットの姿勢を、しっかりと見極めようとするだろう。心の内が千々に乱れていようとも、グネギヴィットは今日も『平常通り』に、周囲が望む自分であらねばならない。

 それは彼女が己に課している、【北】エトワ州公サリフォール女公爵のあるべき姿であり、グネギヴィットをグネギヴィットたらしめる、譲れない意地でもあった。


「そのために、マリカ一人だけを呼んだんだ。このような顔、とても人目に晒せたものではないけれど、お前なら無駄に騒ぎ立てることはないし、なんとかしてもくれるだろう?」

「くうっ……、人を乗せるのがお上手なんですから、公爵様ってば。ご期待に添えるよう頑張らせて頂きます」


 それ以上は差出口を叩かずにマリカは、瞼の上の湿布を一旦熱いおしぼりに取り換えて、それと同じもう一枚でグネギヴィットの肌を温め、植物油に精油を垂らしたものを使用して、首筋から鎖骨の辺りにも柔らかく施術を行った。

 その途中でまた湿布に戻し、そしてまたおしぼりに換えて、最終的に、加密列茶の湿布で目を冷やすグネギヴィットを寝かせたまま、マリカは主人に着せる執務服一式を選びに行った。グネギヴィット自身が選ぶのに輪をかけて、凛々しい雰囲気の装いになるのは、二つの顔を持つ女主人に、女の時には女っぽく、男の時には男っぽくさせたがるマリカの趣味である。


 それらを抱えて、衣装室から戻ってきたマリカは、グネギヴィットの目の上から湿布を剥がして、その腫れの引き具合を確かめた。

「ん、かなり目立たなくなりましたね」

 ほっとしたようなマリカの声に、軽く瞬きをしてみると、起床直後よりも遥かに瞼は軽くなっていて、グネギヴィット自身にもその実感はあった。やはりマリカに任せて正解であったようだ。


「後はお化粧でどうにか……、だけど男装でいらっしゃいますから、できるだけしてます感は出さないようにしますね」

「ああ、マリカの腕を信用する」

「はい」


 マリカは先にグネギヴィットに衣服を着付け、長い黒髪を梳き延ばして一つに束ね、それからやっと仕上げの化粧に取り掛かかることにした。

 その真剣な表情を間近に眺めながら、グネギヴィットは、マリカにはおそらく考えが及ばない理由であることを心に決めていた。


「マリカ」

「はい」

「お前にね、頼まれてもらいたいことがある――」

 続けて、主人の口から述べられたお遣い事の内容に、マリカの手と顔が驚愕で固まった。


「くれぐれも内密に。わかっていると思うけれど」

「は、はいっ」

「州城の中に、何かと便利な伝手の多いマリカのことだ。何とかなるだろう?」

 マリカは一体どう受け止めたものか知らないが、グネギヴィットはつい、以前に聞いたこの侍女の、『理想の男は数撃ちゃ当たるそのうちに』戦法を、揶揄するようなことを言ってしまった。


「はい、大丈夫……だと思います。顔見知りの方ですから。でも――」

「でも、何?」

「いえっ。聞きたいことがあるけれど聞きません! 言いたいことがあるけれど言いません! 公爵様がお答えを下さるわけがないってわかっていますから」


 グネギヴィットの想像以上に身悶えをしながら、マリカはグネギヴィットの目元を、あれだけ腫れていたとは思えないほど、男装によく似合うきりりとした感じに仕上げてくれた。本当によく仕えてくれる、良い娘であるだけに、グネギヴィットはどす黒い自分が嫌になる。


 今ならわかる。

 時折大の気に入りであるはずの、マリカに対して湧き上がる、この棘のある感情の名を、恋にはつきものの『嫉妬』、というのだと。

 この先もしも、想いが通い合うことがあるならば、何の障害もなくルアンと連れ添えてしまえるマリカが、ただそれだけのことなのにグネギヴィットには堪らなく妬ましいのだ。決してそうはならないように、先手を打っておきたくなるほどに――。

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