第十七章「無言」

17-1

 【北】エトワ州城の敷地は広い。

 中庭を挟んで、徒歩では遠い北棟から南棟へ、グネギヴィットは執務室への、行きの移動を馬車で行う。天候や体調や時短など、諸事情によっては帰りも使う。通常は御者が御者台にいるだけで、箱馬車の中はグネギヴィット一人だが、今朝からは合理的な必然として、ローゼンワートも同乗していた。


「昨日はせっかく頑張って、例の面倒な予算繰り、終わらせておいたのですけどねえ……」

 車窓に流れる庭を眺め、物思いにふけっていたいグネギヴィットであったのだが、はす向かいの座席から、ローゼンワートのじめじめとした恨み節が、聞こえよがしな溜め息と共にぼそぼそと響いてくる。


「今朝はシュドレー様から、朝食の席にあなたがお着きになる前に、さんざん自慢されてしまいましたよ。昨夜のグネギヴィット様は、いつもと雰囲気が違っていたって。いいもの見られずに惜しいことしたねえって。ああ、何がどう違っていたんでしょうねえ。私もこの目で見たかったですねえ。どなたかのお時間確保の為に、かわりに残業して差し上げたんですけどねえ……。こんなに毎日毎日、身を粉にして尽くしておりますのに、たまのご褒美も反故ほごにされてしまうとか、どうしてこうも情の無い御方になってしまわれたのでしょうねえ」


「もう、煩い!」

 状況はようくわかっているだろうに、ろくに傷心もさせてくれない。グネギヴィットは不機嫌に、ローゼンワートを睨みつけた。


「昨夕、残業の埋め合わせをしてやれなかったのは悪かったと思っている。わたくしの盛装は、もうすぐ嫌というほど見られるようになるから我慢しろ。かわりに今日は、わたくしの政務後の散策に付き合わせてやるから、定刻で仕事を終えられるよう調整なさい」

「おや、ご一緒してよろしいんですか? お珍しい。【南】サテラの坊ちゃんがお越しになれば、ゆっくり一人になれるお時間をお持ちになれなくなるでしょうに」


 表面だけでも充分にからかい含みなローゼンワートの発言であるが、真相を知った今となっては、

 ――今日は庭師に会いに行かなくてよろしいんですか? 『顔だけ』の三男坊が口説きに来たら、密会を我慢しないといけませんのに。

 という、裏に潜んだ冷やかしまで聞こえてくる。実際に、昨日の残業の肩代わりといい、ずっと以前の、冬の晴れ間が覗いた日の無駄話といい、思い返してみればローゼンワートには、節々で気遣われたり遊ばれたりしてきたような気がする。


「……ローゼンワート」

「何でございましょう?」

 そんなことはおくびにも出さずに、ローゼンワートはしれっと答える。サリフォール家でも指折りの、狸に狸と言わせた男は、誠に結構な性格をしている。


「昨日の今日だ、わたくしが昨夜の内に、シュドレー叔父上に何を注意されたものか、お前にはもう察しがついているのだろう? その件に関しての事情を聴取したいから、わたくしと二人になれる時間を取りなさいと言っているの」

「大胆なお誘いですね。正式にお受けした交際相手がおいでなのに、私と二人になりたいとは」

「他者を交えてできるような話ではないだろう。もう南棟に着く。くだらない揚げ足取りはいいから続きは後で」



*****



 昨日の内に、ローゼンワートが事業の予算書を仕上げてくれたおかげで、本日の政務は、定刻よりもずいぶん早くに満足のゆくところまで進めることができた。

 散策に出る前に、冷たいお茶で喉を潤しておく余裕すら持って、グネギヴィットとローゼンワートは、終業の鐘の音と共に揃って離席した。


 机は綺麗に片づけてきたが、グネギヴィットの心の内は片されていない。若干の苦い思いを噛み締めながら、グネギヴィットは南棟の陰で、昨日と同じ日傘を差す。人の気なんておかまいなしに、てらてらとした太陽が思う存分振り撒いている、盛夏の光が眩しい。



「こうしてこちらの庭を歩きますのは、久しぶりでございますねえ……」

 先をゆくグネギヴィットに半歩遅れて歩きながら、ローゼンワートは過ぎ去りし日々を懐かしむように目を細めた。エトワ州城の北棟や中庭で、シモンリールの教育係として過ごした年月は、そのまま彼の青春時代である。

 もとは王女の身分でありながら、病身を理由に公務も社交も最低限に絞って、エトワ州城でひっそりと咲き続けていた『デレスの百合』マルグリット。小さな主君の母親として引き合わされた、自分よりもずっと年上の気高く美しい公爵夫人に、ローゼンワートは一生分の恋をした。


 かつてローゼンワートが、世間に彼女の愛人説を流させてしまったのは、彼自身の一途な崇拝に加え、 マルグリットを州城に残して彼女の夫――つまりグネギヴィットの父親――が王都へ社交に出ている間、シモンリールと兄に纏わり付くグネギヴィットを挟んで、マルグリットと接する時間が長かったからである。兄姉と大きく歳の離れた、しかも逆算すると、極めて微妙な日になったアレグリットの誕生が、噂に大きく拍車をかけることになってしまった。


 そんな事態の中でも、グネギヴィットの父親は、妻の不貞の噂を美人の宿命と一蹴し、ローゼンワートを遠ざけることなく重用し続けた。かわりに誰を充てたとしても、素晴らしい自分の妻に心酔してしまうのは同じだろうから、使えるローゼンワートを嫡男の側近に付けている、というのが、マルグリットの潔白を信じ切り、若造の傍惚おかぼれをものともしなかった、父親の強気な言い分――というか惚気であったという。


 父は大人たいじんであったのか、はたまた相当な狸であったのか、グネギヴィットは判じかねている。とにもかくにもそんな過去のいきさつがあって今現在、マルグリットの子らをしか主と仰ぐつもりのないという、いささか変質的だが頼れることの多い、辣腕の忠臣が出来上がっているのだから。



「何をきっかけに、いつ気付いた?」

 肩に日傘を傾げ、ローゼンワートを軽く振り返りながらグネギヴィットは切り出した。ローゼンワートは追想から立ち戻り、今の主君に眼差しを向けた。

「何のことだか、確認させて頂くのは、無粋というものでございましょうねえ」


 男装に日傘、というグネギヴィットの、ちぐはぐでいながら不思議に調和した格好は、ローゼンワートの矛盾する心に相通ずるものがあった。

 マルグリットの容姿を受け継いだグネギヴィットには、『マイナールの白百合』と呼ばれるままの、母親に似せた淑女であって欲しかった。しかし一方で、彼女が兄を模倣した女公爵であることは、ローゼンワートに喜びを与えてくれていた。シモンリールをエトワ州公サリフォール公爵として大成させることこそが、ローゼンワートがマルグリットに誓わされた、たった一つの約束事であったから。


「私生活中に、息苦しいような警護はさせないでおくというのが父君兄君の方針でしたし、あなたは基本的なところでは姫君でいらっしゃるのでお忘れがちでしょうが、この城の衛兵は、それだけきちんと務めを果たしていたということですよ。昨年の今頃より少し前でしたか、あなた自身に関する事柄でしたので、あなたを飛ばして私のところに報告が上がりました。グネギヴィット様が、執務室帰りの散策中に、度々決まった庭師を呼び止めて、構っておられるようなのですがどうしたものかと」


「衛兵? わたくしの行動は、衛兵に見張られていたというのか?」

 思いがけないことを聞かされて、グネギヴィットは目をしばたいた。ルアンに声を掛ける時、周辺には充分に気を配っていたつもりだ。近くに衛兵の姿など見かけたら、一も二もなく素通りをしていた筈なのだが。


「ええ。見張りと申しますかあなたから、警護を外すわけには参りませんからね。というわけで、エトワ州城の衛兵の間で、ちょっとした有名人ですよ件の庭師は。羨ましいとか信じられないとか涙ぐましいとかまあ色々。物見台へ行けば、『特別警備日誌』という名の、あなた方の観察記録が置いてございます」


 それは内容が内容であるだけに、通常の警備日誌と冊子を分けられた、対ローゼンワート報告用の極秘文書である。『本日の特記事項は特になし』『密会はあったようだが位置が悪くて詳細不明』といった味気ないものから、『庭師は本日も放置の模様。安息日を省いて七日目に突入。不憫』『本日も事も無し。自分ならへこたれる』『九日ぶりに公爵様が声をお掛けになる。しばらく立ち話をして行かれた様子。良かったな庭師』といった、皆が皆、どうにも庭師に肩入れしすぎだろう。まあ、衛兵の身分と性別を考えれば当然か――という感想付きのものまで、ローゼンワートは平日の夕食前に、官舎の部屋へ届けられるそれに目を通し、腹を抱えて笑わせてもらっていた。


「観察って……、ちょっと待ちなさい、そんなに何人もわたくしたちのことを見知っているの!?」

 予想の斜め上をいくローゼンワートの回答に、グネギヴィットはぎょっとした。ローゼンワートは、思い出し笑いを噛み殺しながら頷いた。


「報告自体が衛兵たちによる、度重なる目撃事例を数えた上でのことでございましたからね。今さらでございますが、もしもお気になられるのなら、一度物見台からの眺望を確かめ、ついでに望遠鏡を覗いてみられるのが一番でございましょう。城の警備の延長上のことでありますし、守秘義務は厳守されておりますのでご安心を」

「ご安心をと言われてもね」


 注意を払うにも限界がある。ルアンも密会場所についてはそれなりに考慮していて、建物の近くには寄らないようにしていたが、さすがに高い位置にある物見台からの監視――とりわけ望遠鏡に関しては、グネギヴィットも導入されていることすら知らなかった――にまでは二人とも慎重になっていなかった。ルアンとの『気晴らし』が、『二人だけの秘密』だなどと、とんだ思い上がりもいいところだったというわけだ。自分たちの密会が記録に残されているだなんて、恥ずかしいにもほどがある。


「これを機に、武官の仕事や働きぶりにも、今少し興味を持って頂けますれば。マテューアース様とご家族が、親族会議に重きを置いてらっしゃらないのは、どなたが当主であろうとなかろうと、いざともなれば実質的に軍部を掌握している自分たちが最強、という腹があってのことでございますし」

「……善処しよう」


 ついでに聞かされるには怖い話である。シュドレーとはまた違った意味で、マテューアースも敵に回したくは無い。決断から実行までが恐ろしく早いかの叔父に、不満があると剣を突き付けられてしまえばそこまでだ。


「もののついでに教えて差し上げますと、あなたと庭師の密会は、ソリアートンと庭師長も存じておりますよ。昨年の秋に、一月ほど庭師が多忙でお会いになれない、ということがおありだったでしょう?」

 ローゼンワートの暴露は続く。グネギヴィットはよろめきながら相づちを打った。

「……ああ」


「あれは、庭師長が彼の行動を嗅ぎ付けて、ソリアートンに相談を持ちかけ、爺や二人であなたから庭師を引き離そうとしていた結果です。グネギヴィット様がそのことに気を取られ、不機嫌にも散漫にもなっていらっしゃったご様子なので、爺やたちには私から説得して折れてもらいました。グネギヴィット様は、庭師と過ごす時間を持つことで、ご自分を保ってらっしゃるから、当面は好きにさせて差し上げるように、と。ソリアートンはかなり渋々でございましたが、以降はむしろ、協力的な面もあったのではございませんか?」


「そのようだ……。全く爺やたちまで、揃いも揃って人が悪い」

 様々な出来事が、これまでとは少し違った様相に見えてくる。自分とルアンの奇妙な関係は、衛兵たちに監視を受ける中で、ローゼンワートや爺やたちの助力の上に成り立ってきたのかと考えると、グネギヴィットはめまいがした。


「類は友を呼ぶのでございますよ。エトワ州城は狸の根城でありますからして。それを思えば、あなたのお気に入りの庭師は、たいへん貴重でございますね。城で評判を当たらせてみましたが、あれだけ人が好いとかお人よしだとか、異口同音に言われる者はめったにおりますまい」

「お気に入り……ね。お前は彼のことについて、他に何を知っているの?」

 もう何を聞かされても驚かない気がする。知れる限りのことは知っておこうと思いグネギヴィットは尋ねた。


「ルアン・ウォルターラント。エトワ州トゥスカ領ファルセー村出身の二十二歳。実家はわりと大規模な酪農を営んでおり、家族構成は両親、祖父母、兄、弟四人、兄嫁、姪と甥が一人ずつ。

 但し本人は、兄の結婚を契機に十五歳で独立し、彼の実家が作る乾酪チーズを買い付けている、マイナール市内の商家へと奉公に出ています。身元保証人は庭師長――といっても、彼自身が庭師長と縁続きというわけではなく、先に申し上げた商家が庭師長の義弟宅でございまして、そこで人足として働いていたのを、大工仕事、庭仕事の腕を見込まれて、庭師長に引き抜かれたという就職の経緯によるものです。州城で住み込みの現職に就いたのは一昨年の末。先輩庭師たちからは、久々に入った期待の若手として可愛がられている――。経歴はざっと、こんなところでございましょうか」


 頭の中の帳面を繰りながら、ローゼンワートはルアンの略歴をすらすらすらっと並べ上げた。その半分以上が、グネギヴィットには初耳という内容であった。


「そう、か……」

「どうされました?」

「いや、わたくしは本当に彼のことを、ろくに知らなかったのだな、と思って。そうか、ルアンの姓はウォルターラントというのか……」


 グネギヴィット・デュ・サリフォールの『デュ』のように、家格を示す称号の付かない平民の姓。当たり前のことだが、それがルアンと自分の身分の隔てを強く感じさせて、グネギヴィットにはひどく残念に思えた。


「庭師の滅私奉公ぶりが窺えるお話ですね」

「よく言うね。使用人たちに聞き込みをして、彼がそういう人だとわかったから、見て見ぬふりをしていてやろうと思ったのだろう? 本来ならばお前は守り役として、衛兵からの報告があった時点で、わたくしを諌めねばならなかったろうに」


 ふてくされた様子のグネギヴィットにローゼンワートは微笑した。衛兵たちから伝えられる彼女と庭師の関係は、諫言などすることの方がよほどいやらしく感じられるほど、何ともいえずほほえましかったのだ。


「諌めるほどのことは見受けられませんでしたからね。実際に私も、あなた方の密会現場を幾度か覗かせて頂きましたが、いつまでたっても成人男女とは思えない距離感のままで。王太子殿下とお別れになって、糸を切らしたあなたが飛び込んで来られるのを、私は両手を広げて待っていたのですけれどねえ。こちらには一切見向きもなさらず、実に都合のよい相手を見つけられたものだと、いたく感心いたしましたよ」


 おちゃらかしたローゼンワートの物言いに、グネギヴィットは眉を顰めた。

「都合がよいとはどういう意味だ? ただ話をするだけにも、こそこそと会うしかない、世間体の良くない相手なのに」

「いつでも後腐れすることなく、グネギヴィット様のご都合一つで、ばっさりと切り捨ててしまえる相手、という意味でございますよ。昨夜シュドレー様からは、それを迫られたのでしょう?」

「……そう」

 グネギヴィットの胸につきりと痛みが走る。今ルアンは、何を思っているだろう? マリカはもう、遣いを果たしたものだろうか?


「ちょうどよい潮時にございました。アレグリット様を使いどころで正しく使い、ご自身の縁談も政略に用いる判断がおできになるならば、もう庭師の支えは要らぬでしょう。アンティフィント家に対する手前もございます。お気持ちをこれ以上、ややこしくされる前に切るべきと、私からも言わせて頂きます」


 ルアンに対するグネギヴィットの気持ちなら、もう充分にややこしくなっている。いや、ややこしくなってしまっていたというべきか……。どうやらそれに気付いていたらしいローゼンワートに対して、どうしてもっと早くに忠告してくれなかったのかという、理不尽な怒りが湧き上がる。


「叔父上もお前も残酷だな。わたくしよりも先に、わたくしの心の奥底にあるものを見抜きながら、それはもう無いものにしてしまえと言う……。そう、せねばならないのだとわかっている。頭ではね、きっぱりと。だから叔父上やお前の言う通りに、彼との関係を断つことはしよう。

 だけどローゼン、わたくしにはわからない。わたくしの心から、いつの間にか勝手に住み着いてしまった、彼を閉め出すにはどうすればいい……?」


「私にそれを、聞かれますか?」

 胸の内に、永遠の女性を住まわせているローゼンワートは、その人の面影を留めるグネギヴィットの、相談相手を大きく間違えた問いに苦笑した。

「答えは既に、ご自身の中におありでしょうに。庭師を早く追い出したければ、新しい恋をなさるといい。あなたが庭師に恋をして、王太子殿下をお忘れになられたように」


 数日すれば、最適な御方がお見えになられますでしょう、と、ローゼンワートは締めくくった。決して消し去ることのできない、忘れじの恋もあるのだと知りながら。

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