14-2

 マイナールへの旅路は長い。

 王都の市街を抜け、関門を越えて、北上する街道を馬車に揺られてゆく道すがら、グネギヴィットは暇つぶしに、メルグリンデから借り受けてきた詩集をめくっていた。

 ザボージュが創る恋愛詩は、耽美で情感的だ。銅版画の口絵を挟んだ本の装丁も美しく、作家自身の華麗な容姿や、朗読をする声音もひっくるめて、幅広い層の女性たちに愛好されているのはなるほどと頷ける。


 軽い読み物としては悪くないとグネギヴィットも思うのだが、幾つもの詩の中で繰り返し語られる、『あなた』の位置に自分を据え置くと、連ねられた語句の一つ一つがとたんに重くなる。むせかえるほどの恋情、そして、褒め殺すような礼賛に、心がじりじりと圧迫されてくる。

「……悪酔いをしそうだな」


 メルグリンデが期待していたのとはおそらく、正反対の感想を述べて、グネギヴィットは膝の上に詩集を閉じた。

 州城に帰り着けば間違いなく、溜まった政務と迎賓の準備に追われることになる。自分の縁談やアレグリットの身上を議題にし、親族会議も開かねばならない。時間のある今のうちに、少しでも多く目を通していたほうがよいだろうとは思うのだが、一冊だけで胸焼けがして、とても続けて二冊目を取り上げる気になれない。


「停車させましょうか?」

 グネギヴィットのぼやきを聞きつけて、侍女のマリカがすかさず声をかけてきた。賑やかだった往路とは違って、帰りの馬車に同乗させているのは、このマリカ一人きりである。


「平気……。本を読むのをやめれば大丈夫そう。しばらく横になっているから、これを片づけておいて頂戴」

「はい」

 侍女の手の内に詩集を放り出し、ゆったりと広い座席に上半身を寝かせながら、そういえば……とグネギヴィットは思い出す。王都に来る前に、若い庭師を誘惑したことを、マリカは覚えているのだろうか……?


「どうかされましたか?」

「何でもないよ」

 尋ねてみたいが聞くに聞けない。あの中庭での一幕は、グネギヴィットは知らないはずの出来事なのである。じっとマリカに覗き込まれて、やり場に困ってしまった目を、グネギヴィットは逸らす代わりにそっと伏せた。


 グネギヴィットより一つ年下のマリカは、ソリアートンの縁者である。忠義な執事の秘蔵っ子らしく、旅行鞄に詩集をしまい終えると、グネギヴィットが体勢をもっと楽に崩せるよう、髪から櫛を抜き取ってくれたり、靴を脱がせてくれたり、裳裾やクッションの位置を直してくれたりと、実にまめまめしくかしずいてくれる。


「少しお楽になりましたか?」

「うん……」

 クッションに身を預けて、グネギヴィットは気だるく答えた。動き勝手のいい男の服を着慣れると、きりきりと胴を締め上げた貴婦人の衣服は、拷問のように感じられる時がある。コルセットを緩めてしまいたいが、さすがにそこまでしてしまうと、馬車を降りる時に面倒だろう。


「お顔の色が優れませんね。お水をお召しになられますか?」

「今は、いらない……。だけどお前が欲しいのなら、わたくしに気兼ねせず好きな時にお飲みなさい。今日は暑くなりそうだし、お前にまで具合を悪くされては困る」

「ありがとうございます。では、喉が乾きましたら遠慮なく頂きますね。あの、扇をお借りしてもよろしいですか?」

「いいよ」


 グネギヴィットが諾して扇を手渡すと、マリカはそれをそろそろと開いた。それからどうするのかと思えば、こちらに向けて身体を扇いでくれる。柔らかな微風に撫でられながらグネギヴィットは、本当にマリカは、よく気が付く侍女だと感心をする。きっとこの娘は、好いた男にも、こうしてかいがいしく世話を焼いてやるのだろう――。


 などとぼんやり考えていると、献身的なマリカに並べて、のんびりと笑うルアンの姿を思い浮かべてしまった。その背景に、賑やかなマイナールの街並みを据え置けば、二人で楽しいお出かけの図の完成である。

「……」

 軽い馬車酔いに、グネギヴィットの神経は尖らされていたのかもしれない。そのくだらない妄想が、どうにもこうにも癪に障って、癪に障って、癪に障って、癪に障ってたまらなかった。



「……マリカ」

「はい?」

「マリカには……、いい人は、いるの……?」

 マリカにとっては脈絡のない質問に、ぴたりと風が止んだ。グネギヴィットは眼差しを上げるのも億劫に感じながら、目と口をぽかんと丸くしているマリカを眺めた。


「どうした? わたくし相手には答えにくい?」

「いえ、そんなことはないんですが、公爵様からそんな関心を寄せられたのは初めてのことなので……。はー……、びっくりしました。それってあの、やっぱり、ザボージュ様の影響なんですか……?」


 グネギヴィットに促されて、扇を再び動かしながら、思い出したようにマリカはおしゃべりになった。内面の焦りが出ているのか、心なしかその翻し方が、先ほどよりも雑になっている。

「さあね。その答えは必要なの?」

 はぐらかすようなマリカの言に苛立ちが高じて、グネギヴィットの物言いはきついものになってしまった。マリカは首をすくめて、ぺらぺらと白状し始める。


「はい、ああ、いいえっ、全然それは必要ないです。差し出たことを伺って申し訳ありませんでした。それからええと、残念ながら私には、今のところ恋人も、親が決めた許嫁というようなのもいません。その……、憧れている人でしたら、いるにはいるのですけれど……」


 包み隠した風もなく、素直に明かしたところをみると、こういった話を人にするのがマリカは好きなようである。ついでなのでグネギヴィットはもう一歩踏み込んでみる。

「ふうん、そうなの……。聞いてもいい? どんな人?」


 するとマリカは、ぽっと頬を赤らめて、恥ずかしそうに身をよじった。主人をやきもきさせていないで、さっさと吐いてしまいなさいと、グネギヴィットはその腕を掴んで、ゆさゆさと揺さぶりたい気分になる。


「ううんと……、えっと……、そうですねえ……。すごく凛々しくて、男らしくて、頼り甲斐があって、格好良くて……。いいところは他にもたくさんあるんですけれど、ありすぎて言い尽くせないような御方です。初めてお会いした時から、私もう夢中なんですよ」


 予想に反したマリカの答えに、グネギヴィットは首を捻った。

 ルアンにそういった要素が皆無とまで、否定するつもりはない。ただ、彼の印象を考えた時、グネギヴィットの念頭に真っ先に浮かぶのは、内から滲み出るような人の良さなのである。『凛々しい』というよりも『温和』の方が、遥かにしっくりとくるような……。


「そう、マリカをそんなにも虜にするなんて、とても魅力的な人なんだろうね」

「ええ、それはもう!! なのに女性でいらっしゃるんですから、神様って意地悪ですよね?」

「――は?」

 意表をつかれて、がばりとグネギヴィットは起き上った。たった今、聞き捨てならないことを聞かされた気がする。


「マリカ……? 何と口走った? お前……?」

「すみませんっ。調子に乗って口を滑らせちゃいました。えっとつまり……、私が先ほど申し上げましたのは、実はグネギヴィット様のことなんです。公爵様にお仕えするようになってから、ありきたりな男の方では物足りなくて困っています」


 マリカの仰天の告白に、グネギヴィットは困窮した。グネギヴィットにとって、政務を執る際の男装は形式だけのものだし、社交界で男を気取ってみせているのはほんの戯れで、女性に本気で惚れられては正直なところ洒落にならない。

「それは悪かったね……、というか、それでわたくしにどうしろと……? わたくしのせいで、お前が道を誤ったとなると、ソリアートンに泣かれてしまう」


 深刻になるグネギヴィットに、マリカは明るく首を振った。

「そのようなご心配はご無用です。どうして男の方じゃないのって、がっかりしていた時期も、恥ずかしながらあるにはありましたけど……。今では公爵様と、同性でよかったと心の底から思っています。

 だって公爵様がご結婚をなさっても、お子様をお持ちになられても、醜い嫉妬に焼かれることなく、お幸せをお祝いしながらお仕えしてゆけますもの……。あの、ザボージュ様とのご交際、上手くいくといいですね?」


 なるほどマリカは、主人としてのグネギヴィットを深く慕ってくれているということらしい。そういうことなら彼女の好意を受け取るに、グネギヴィットもやぶさかでない。


「そうだね……、ありがとう。マリカの気持ちは嬉しいのだけれど、わたくしにかまけすぎて、うっかりとき遅れてしまうのではないぞ」

「はい。恋愛や結婚はそのうちに、公爵様の次でいいって言ってくれるような人とします。そんな男の人って、めったにいないかもしれませんけれど、数を打っていれば当たると思うんですよね」

「数を打っていればって……、マリカは積極的に、何か策を講じているの?」


 マリカの徹底した主人第一主義は、ソリアートンの薫陶によるものだろうか。呆れ気味にグネギヴィットが問うと、マリカはにっこり首肯した。


「策といえるほどたいしたことではありませんが、エトワ州城で感じのいい人を見かけたら、まずはお知り合いになるようにしています。夫婦で生涯お城勤めが私の希望ですし、結局恋に発展しなくても、色々な伝手つてを作っておいたら何かと便利ですから」

「合理的だね」


 どうやらルアンも、その数に打たれたうちの一人らしい。

 だがしかし、それでは、マリカにとってルアンは、実に都合の良い相手だと考えられはしまいか? グネギヴィットの『気晴らし』に、気長に付き合い続けてくれているルアンならば、恋人のわがままも他の男よりもたっぷりめに許容してくれそうだ。


「……」

 グネギヴィットはむっつりと黙り込み、またおもむろに上体を倒して目を閉じた。驚きに吹き飛んでいた馬車酔いが、急に程度をひどくして、ぶり返してきたように感じられる。


「公爵様?」

「ちょっと気持ちが悪くなったの……。次の宿場まで眠っていくから、適当なところで起こして頂戴」

 心配げに声をかけてきたマリカに、つっけんどんにそう命じて、グネギヴィットは強制的に会話を終わらせた。

「はい」


 ルアンは自分の『もの』ではないのに、こんなつまらないことで腐って不貞寝をするなんて、我ながら何と幼稚な独占欲であるのだろう……?

 濡らした手巾ハンカチを頬や額に当ててくれる、マリカの手は優しくて、グネギヴィットに自己嫌悪を募らせた。

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