14-3

「お帰りなさいませ、お嬢様」

「ただいま」

 グネギヴィットの州城不在は、結局二月近くに及んだ。久方ぶりの城主の帰還に、ソリアートンの気分は上々らしく、銀髪の老執事は皺の寄った目尻を嬉しげに下げている。


「留守居ご苦労だったね、ソリアートン。何か変わったことは?」

「全くなかったというわけにも参りませんが、さしたることはございません。それよりもお嬢様、こちらから伺いたいことは山のようにございまするぞ。頂いたお手紙の内容に、危うくこの爺、腰を抜かしそうになりました」


 帰城の先触れついでに、グネギヴィットはソリアートンに、王都で自分たち姉妹の身に起こったことをかいつまんで知らせておいた。王后を怒らせてしまったことをきっかけに、物事は一気に走り出し、当人たちですら唐突さと性急さを否めない事態となっているのである。降ってわいたような『お嬢様』たちの一大事に、マイナールにいたソリアートンはさぞかし肝を潰したことであろう。


「それについては、後で、じっくりとね。アンティフィント公のご令息をお招きするにあたって、爺やには大いに腕を振るってもらうつもりでいるから」

「お任せ下さいませ」

「頼りにしているよ」

「はい」


 厚い信頼と共に、たたんだ日傘をソリアートンに預けて、グネギヴィットは侍女たちが並んで出迎える玄関から北棟の中へ入った。住み慣れた居城の空気に深く安堵して、玄関広間でしばし止まったその足は、しかしその場で落ち着いてしまうことはなく、居室とは違った向きへといそいそと歩いてゆく。


「グネギヴィット様、どちらへ?」

「中庭」

 弾んだ調子でグネギヴィットは答えた。歩きやすいようにからげている、ドレスの後ろ裾は下ろさせず、外出用の手袋も嵌めたままである。


「お部屋にお腰も据えられず、帰っていきなり中庭でございますか?」

 追いすがるソリアートンの軽い非難に、グネギヴィットは肩をすくめる。生まれた頃からの付き合いの爺やは、躾に厳しい祖父のようなものだ。心安い分だけ口煩い。


「いけなくはないだろう? ずっと馬車に乗り詰めで、嫌というほど座ってきたんだ。凝った身体をほぐすのに、しばらく散策してくるから、冷たいお茶と部屋着の用意をさせておいて」

「承知致しました。では、誰ぞお供を」

「いらない」

「お嬢様」


 ソリアートンの声音が険しくなった。それでも譲る気のないグネギヴィットは、ぴたりと歩みを止めて執事を振り返る。

「旅の間、馬車でも宿でもマリカと一緒で、それにも少し気詰まりだったの。だから、供はいらない」

「マリカに何か、粗相でもございましたか……?」


 グネギヴィットの気色を窺いながら、ソリアートンは声を落とした。己の身内であればこそ、問題があったなら、きつく罰さねばならぬというつもりがあろうのだろう。自分の発言の中に落ちていた棘に気付いて、グネギヴィットはそれを拾い上げ、打ち消すように言い添えた。


「別に、マリカだからどうのと言っているわけではないよ。ただわたくしがしばらく一人になりたいだけ――、それだけ」

「ならばよろしゅうございますが……」

「了解したのならひとときの自由を頂戴。わたくしが今、男の格好でいるのだと思って目を瞑って」

「はい」


 渋々ながらもソリアートンは、今は主人に貴婦人の在り様を守らせるよりも、心身の健全を回復させることの方が肝要と判断をしたようである。以後は黙って付き従い、グネギヴィットが中庭に面した回廊に出たところで、開けた日傘をそっと差し出した。

「ありがとう。正餐の時刻は遅らせないように戻るから」

「はい」


 日傘を受け取り、恭しくこうべを垂れるソリアートンに見送られて、グネギヴィットは中庭へ一歩を踏み出した。

 鮮やかに西日が照る、まだ空が青々とした夏の夕刻。くしくも城の南棟では、州府の終業を知らせる鐘が鳴り終わったばかりである。

 けれども流石に今日ばかりは、ルアンは約束の場所にいないだろう。そう思いながらもグネギヴィットは、気が逸るままにそこへ向かっていた。



*****



 エトワ州城の広い中庭は、それぞれに主題を持たせた大小の園に区切られている。円く切り取られたその中の一角が、『マルグリットの夏の園』と呼ばれているのは、若き日のマルグリットを模したとされる泉の精の像が、もたげるかめから水が流れる噴水があるからだ。


 そこは先々代のサリフォール公爵――つまりはグネギヴィットの父親が、新妻のためにと造らせた園である。泉を囲む花壇に植えられているのは、今も昔も純白の【夏男神の百合】サリュートキュリストだけであり、それらはみなマルグリットが王宮から持参した、本物の王家の百合の子孫であった。



 期待せず辿り着いた白百合の園には、けれども予想に反して人気ひとけがあった。高鳴る胸を鎮めながら、慎重に中を覗いたグネギヴィットは、思いがけなくそこにいた庭師の姿に息を飲む。

 ルアンはシャツの袖とズボンの裾とを大胆に捲り上げ、裸足で噴水の泉に入って、水に濡れながら大理石の彫刻を磨いていた。連日の庭仕事で、冬でも浅黒かった肌は健康的に焼け、さっぱりと短く刈られた癖毛がはねる頭には、帽子を被るかわりに洗いざらしの手ぬぐいを巻いている。


 グネギヴィットはルアンの、肘の上まで剥き出された腕の、自分のそれとはまるで違った野性的な筋にふと見とれた。そうしてルアンが、見ようによっては自分に似ていなくもない、像の背中を流していることに焦り、さらには彼が仕事の手を休めて、汗と水飛沫とが滴る顔を、肩口でぐいと拭う無造作な仕種にどきりとする。


「あれ……? え……? 公爵、様……?」

 その顔を上げたところでルアンは、日傘の陰に表情を隠しながら、自分を観察しているグネギヴィットに気がついた。ルアンは信じられないものを見つけたといった顔つきで、泉とグネギヴィットの心の水面みなもに大きく波紋を広げながら、ばしゃばしゃと泉の縁まで寄ってくる。

「公爵様っ?」


 下っ端庭師が頭も下げずに、城主であるグネギヴィットに声を掛けるなど、本来であれば厳禁だ。けれどもその呼びかけにはじかれるようにして、グネギヴィットも思わず駆け出していた。泉の中で待つルアンと、泉の外で向かい合わせるところまで。


「久しぶりだね――、ルアン」

 その名を呼ぶ声が、歓喜のあまり震えそうになった。おかしなほど、舞い上がってしまっている自分自身に、グネギヴィットは戸惑う。


「公爵様、なん、ですよね……? 本物の、グネギヴィット様」

 眩しげに細めた鳶色の瞳に、軽く呼気を乱した黒髪の女主人を映しながら、ルアンは何故か確認するようにそう尋ねた。グネギヴィットは心の優位を確立しようと、高飛車に胸を張る。


「当たり前だ。このわたくしが、一体他の誰に見える?」

「いやそうなんですけど、この城は狸の根城だっていうもんで、ひょっとして化かされちゃいないかと……」

「狸は狸でも、住んでいるのは狸違いというものだね。陽のあるうちから眠たいことを言っているなら、つねってやろうか、ルアン?」


 親指と人差し指とで空を摘まむ動作をし、グネギヴィットはルアンの頬に向けて右手を伸ばした。ルアンは左肩を引いて半身になり、グネギヴィットが冗談交じりに与えようとしている、ありがた迷惑からそそくさと逃れる。

「大丈夫です。目は覚めてます。そのもののおっしゃりようなら、間違いなく公爵様だ」


 そのたわいないやりとりが何ともいえずおかしくなって、二人は顔を見合わせて、同時にぷっと吹き出した。二つの明るい笑い声が和やかに重なり、ぎこちなかった空気が柔らかくほぐれてゆく……。



「それにしたって公爵様、いったいいつの間に帰ってこられてたんですか? 狸に化かされてっていうのは大げさでしたけど、いきなりぬうっと立っておられるもんだから、びっくりしたじゃありませんか」

 笑いの余韻を残しながら、ルアンの方からそう尋ねた。気分がよくなったのでグネギヴィットも正直に答えてやる。


「さっき」

「へっ? さっきですか?」

「そう。王都からの馬車旅で、身体がすっかり固まってしまったものだから、城に着いたその足で中庭に出てきたんだ。ルアンこそ、わたくしが今日ここへ来そうだってよくわかったね?」

「へへ。俺もそう捨てたもんじゃないでしょう――って、自慢したいとこなんですけれど、それはちょいとばかり公爵様の買いかぶりです」


 ルアンは照れた様子で頭を掻いた。その変わらぬ癖にグネギヴィットは、ようやく帰るべき場所に帰ってこられたのだという、懐かしさと安心を覚えた。


「買いかぶり? だけど全くの偶然というわけでもないのだろう? この母上の園はお前とわたくしの……」

「ええ、まあ。公爵様がお帰りになられたらこの場所でって、お約束をしていましたよね?」

「うん」

「ですから俺は、公爵様がお見えになる前に、この園をとびきり綺麗にしておくつもりでいたんです。まさかお帰りになってすぐにおいでになるとは思わなくて、ご覧の通りな有り様なんですけども……」


 ルアンは汚れた掃除用具を濡れ手に掴み、噴水の泉に脛まで浸かったまま、いささか無念そうにそう言った。なるほど、あまり間がよろしくないというか、気が利きすぎていないところが、何ともはやルアンらしい。


「お前のその気持ちだけでわたくしは十分だ。それにこの園は、今のままでもとても綺麗だよ――」


 グネギヴィットはすくすくと背高く育った白百合が大きな花をつけ、一面に咲き乱れる園をぐるりと見渡して、濃密な薫香を胸いっぱいに吸い込んだ。

 重くたわんだ茎には支柱が添えられ、咲き終わりの花や雑草が目につかないのは、ここしばらくのルアンの頑張りの賜物なのだろう。グネギヴィットにしてみれば、明日以降であれば知らされなかったに違いない、舞台裏を覗けたことはむしろ幸いだ。


「そう言って下さると、浮かばれます」

「うん。だから褒美に――というわけでもないけれどね、鮮度が保たれているうちに土産を渡しておこう。しっかりと両目を開いて、受け取りなさい、ルアン」

「お土産?」


 はて? とルアンは首を傾げた。甘いものか辛いものかを問われた時、自分には断ったつもりがあったし、グネギヴィットの手の中にそれらしい包みはない。加えて『目を開いて』とはどういうことなのだろう?


「何だルアン、薄情だね、お前は忘れてしまったのか? 王都の土産に何か欲しいかと尋ねたら、お前は元気に帰ってこいと言っていただろう? だからね、ルアン。わたくしはほら、この通りに――」


 グネギヴィットは子供のようにはしゃいだ笑顔を浮かべると、日傘を傾げ、ドレスを摘まんで、軽やかな動作でくるりと回った。ルアンの目に、美しく装った健やかな全身を、余すことなく見せつけるように。


「!」

 茶目っ気たっぷりにグネギヴィットから贈られた王都土産に、ルアンは呆然として言葉を失った。その顔がみるみると茹で上がってゆく――。


「ばっ、馬鹿者っ! ちょっとした冗談のつもりだったのに、どうしてそんなに赤くなるんだ? お前がそんなだと、何だかわたくしの方が恥ずかしくなってくるだろう!?」

「す、すみません公爵様。それと……」


 羞恥に染まり怒り出したグネギヴィットに謝罪しながら、燃えるような額をルアンは支えた。自制心をぐにゃぐにゃにする甘さと辛さに、ぽろりぽろりと本音が零れる。

「ありがとうございます、最高のお土産です。嬉、しくて……、嬉しすぎて、めまいがしたじゃありませんか。参ったな、公爵様、俺は一体どうすりゃいいんでしょう……?」


 どうしたらいいかわからない。どうにでもしていいならば、この場できつく抱き締めてしまいたい――。長らく彼女に飢えていたせいもあるだろう、ルアンの中には理性のせきを今にも越えてしまいそうな、強烈な欲求が逆巻いていた。


「別にそれは……、そんなにも、喜んでくれたならそれでいいよ。そんなことよりルアン、ご主人様のご帰還だというのに、お前は何か大事なことを失念しているのではないか? 答えてみなさい。あるだろう? ほら」


 気を取り直したグネギヴィットに催促をされて、ルアンは突きつけられた現実に大きく肩を落としながらも、彼女が欲しがっているものをじっくりと探してみた。それはルアンがこの二か月、ずっと温めてきた言葉に等しかった。


「……お帰りなさい」

「ただいま」


 万感の想いを込めてそう告げると、匂うような微笑みに報われた。その目映い表情をルアンは、胸の奥深くに刻み込む。

 これでいい。これだけでいい。これ以上を望んではいけないと……。ルアンは自分を戒め、諦めさせる文言を心の中で繰り返す。

 どれだけ愛しく感じてしまっても、苦しいまでに渇望していても、グネギヴィットは自分には手の届かない、女公爵なのだから……。



*****



 翌朝。

 許されざる大望を抱いてしまった罰であるかのように、ルアンは庭師の朝会で、庭師長からグネギヴィットの縁談を知らされることになる。

 主人の夫君候補者の迎賓に際し、使用人一同一丸となってこれを盛り立てるべし、との、執事通達と共に――。

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