20-3

 という騒ぎが起こっていたのが、先週末の深夜のこと。

 そんなことは、当然の如く与かり知らず、安息日を終えて週初の朝に、寝惚け眼で朝食を取りに行ったルアンは、そこで給仕の娘から、小さく畳んだ文をこっそりと手渡された。

 まさか付け文――? と動揺しながら、周囲に隠しておっかなびっくり広げてみると、


『本日お昼休み、ご都合がよろしければ、先日お会いした場所で昼食をご一緒に。どうぞ手ぶらでいらして下さい。マリカ』


 との記述があった。

 何とも可愛らしいお誘い文だが、身の程知らずなルアンの恋を察知しているマリカに限って、甘酸っぱい用であるはずが無い。まあこんなもんだよなと、ルアンは一息に脱力した。


 とはいうものの……、今になってマリカに呼び出される、理由がまるでわからない。ルアンの背後の卓では、住み込みの若い洗濯婦たちが、グネギヴィットとザボージュの名を上げながら、『美男美女でお似合い』だの、『先週末の朗読会が婚約発表みたいだったらしい』だの、『え? その場で婚約されたんじゃないの?』だの、『まだだとしても毎日いちゃいちゃされてるみたいだし、時間の問題なんじゃないの?』だの、『きゃー、やだー、いちゃいちゃって何ー!?』だのと、かしましく盛り上がっている。


 これね、また聞きのまた聞きのまた聞きなんだけど――と、潜めているようで潜められていない興奮した声に、二人のいちゃいちゃ具合を聞かされてしまう前に、ルアンは大急ぎで掻き込むようにして、食べ終えた盆を持って席を立った。


 日々の楽しみであるはずの食事だが、美しい貴人たちの華やかな恋の噂は、エトワ州城の使用人の間で今最も熱い話題であり、こうして悪意なく阻害されることが多い。今日も今日とて落ち込みながらルアンが、返却口に食器を片しに行くと、そこには例の給仕が待ち構えていた。


「いかがでしたか?」

 と、盆を受け取る娘に問われ、正直者のルアンといえども、砂を噛むようでした――とは答えられる筈も無く、

「美味しかったです。ごちそうさまです」

 と、当たり障りなく口にしてしまってから、ふとその間違いに気付いたルアンは、しかし、にやにやとする娘を相手に返答に窮して頭を掻き、ただこくこくと頷いておいた。



*****



 そんなこんなでこの日の昼休み、常には昼食を共にする庭師仲間と別れて――給仕の娘がしていたのと同じような、にやにや笑いで見送られたのは何故だろう?――、指定された場所にルアンが向かうと、松笠薊エリンジウムの花の前で、籠を提げたマリカが待っていた。


「こんにちは、マリカさん」

「こんにちは、ルアンさん、来て下さってありがとうございます」

 礼を述べてマリカは、あらかじめ下見をしておいたらしい、奥まった場所の木陰にルアンを招いた。マリカが持っていた籠の中には、芝生に広げる敷布と膝に置くナプキンと共に、野菜の酢漬けと腸詰めを挟んだパン、丸ごとの胡瓜とゆで卵、それらの味付けのための塩、そして檸檬水の瓶が二人分ずつ入っていた。例の給仕の娘に頼んで、用意してもらったのだという。


 心地よい風の渡る涼やかな木陰で、マリカと並んで弁当を食べながら、ルアンはこの状況に戸惑っていた。流言飛語が飛び交う食堂の中では無く、慣れ親しんだ緑に囲まれての休息には、心底ほっとしていたが。


「いいんですかね? 中庭で勝手にこんな風にしてて」

 エトワ州城の中庭は、ルアンたちの仕事場である以前に、サリフォール公爵家本家の私有地である。その当主の側仕えであり、そして使用人の長である執事の縁者でもあって、城の事情に明るいマリカは、ルアンの疑問にあっけらかんと答えてくれた。


「いいんですよ。みんな結構やっていることです。使用人同士のお付き合いは珍しいことではないですし、休憩時間中の健全な逢引きなら、公爵様もソーティ小父様も、大目に見てくれますしね」

「あ、逢引き、ですか……?」

 咀嚼した胡瓜を呑み込み損ね、軽くむせるルアンに向けて、マリカは悪戯な笑みを浮かべる。

「まあ、はたからはそう見えるでしょうね。ルアンさんと私はそんな仲ではないですけれど、内緒話をするにはもってこいでしょう?」


 なるほど、給仕や庭師仲間のにやにや笑いに、ようやく合点がいったルアンであった。庭でお昼を一緒にという約束を――庭師仲間には、「ちょっと知人に呼ばれているもんで」としか告げてきていないが――、よくある恋人同士の逢引きと誤解されているわけだ。


「午後から庭師仲間の親父さんたちに、からかわれそうなんですが……」

「ま、そこらへんは、適当に濁しておいて下さいな。またお呼び出しをすることがあるかもしれませんし」

 言いながらマリカは、栓を抜いた檸檬水の瓶を手渡してくれる。

「あ、どうも」

 喉に引っかかった胡瓜の欠けらを、受け取ったそれでありがたく流し込んで、ルアンは一足先に昼食を終えた。逢引きもどきの状態には参ったが、心乱す雑音が無く、久しぶりに美味いと思える食事であった気がする。



「それで内緒話っていうのは?」

「私の話なんて決まっていますよ。外でもない公爵様のことなのですけれど……、ねえ、ルアンさん、公爵様とお婿候補のザボージュ様のこと、どう思います?」

「どうって……、お二人仲良くされているみたいでなによりです」

 結局そういう話題になるのかとしょげながら、ルアンが棒読みでそう答えると、マリカは何やら含みのある顔つきで、食べかけの胡瓜を片手に目をすがめた。


「ふうん……、ルアンさんにはそう見えるわけですね」

「見えるっていうか、そういう風に、人が話しているのばっかりを聞くもんで……。俺たち庭師は裏方で、お客人がご覧になられる景観を損ねないのが鉄則なんで、俺の目からどう見えるかって聞かれたら、お二人揃っていなさるところは、お見かけしたことがないもんだから、まるっきりわからないっていうのが本当です」


 ルアンが以前にグネギヴィットに語った、庭師の標語は現在も継続中であり、エトワ州城の庭師たちは、グネギヴィットが政務後に『マルグリットの夏の園』でザボージュと待ち合わせることになったとの通達を受け、それからしばらく中庭で過ごしてゆく恋人たちの時間に、水をささないよう注意を払っていた。


 中でもルアンは、肺腑はいふを抉る通達の内容に、自分はグネギヴィットが将来を共にするのに、相応しい相手を得るまでの代わりだったのだな――と痛感しながら、グネギヴィット一人の時も、彼女がザボージュと二人でいる時も、決して庭で遭遇なんてしないよう、州府の終業の鐘の音が聞こえると、往々にして椿園に逃げ込んでいた。グネギヴィットに無視をされてしまうのも、彼女が他の男と親しげにしているのを目の当たりにするのも、今はまだ、どうしたって辛いから……。

 緑葉茂る椿園は、花盛りの『マルグリットの夏の園』とは正反対に、夏には見所少ない冬の園で、グネギヴィットが傍を通ることはあっても、中まで覗きに来るとは考えにくく、今のところその目論見は成功していた。



「噂なんて、いいかげんなものですよ。家柄が良くてお金持ちで、女たらしの美男子に、詩人の口説き文句で好きだ好きだと迫られたら、たとえグネギヴィット様といえどころりと参ってしまうだろうって、俗な想像しかできないような人たちが、好き勝手に吹いているだけのことです。

 シモンリール様や王太子殿下で目をお肥やしになって、誰より綺麗なお顔なら、毎日鏡の中に眺めていらっしゃる公爵様が、ご親族の方々に、『顔だけ』だなんて揶揄されるような殿方に、そう簡単になびくわけがないじゃありませんか」

 ふつふつと怒りをたぎらせながら、マリカは塩をふりかけた胡瓜をばりばりと噛み砕いた。


「な……、何だかものすごいこと言ってますね……? それじゃあ公爵様は、お婿候補の方のことを、まだそんなに好いておいでじゃないんですか?」

 毒々しいマリカの発言にも目つきにも、ルアンは度肝を抜かれて後ずさった。胡瓜を食べ終えたマリカは、グネギヴィットの切なる心情を、まるでわかっていないらしいルアンにちらりと目をやって、籠の中からゆで卵を取り上げる。


「好いてらっしゃらないどころじゃないんだと思います。だけどそんな好き嫌いだけで、簡単に蹴ってしまえるようなご縁談ではありませんし、世間に向けてはザボージュ様と熱愛中! と思わせておいた方が、何かと都合がよろしいようですし、本心をお出しにならないようになさっていますけれど」

「そんなんで、マリカさんにはよくわかりましたね。公爵様は他の人には、ごまかし切ってらっしゃるってことでしょう?」

 ゆで卵を剥く手を休めて、そのつるんとした光沢のある曲面に、湯上りの主人の肌を重ねながら、マリカはふるふると震え出した。


「……じんましん」

「は? じんま、しん?」

「そうです! じんましんです! じんましんを出されたんですよ公爵様! 私たちが丹精込めてお手入れさせて頂いている、あの、珠のお肌にっ!!」

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