12-5
「すまないアレグリット。どうやら炎の悪戯だったようだ。第一に父上は、今も達者に生きておいでだから、肖像画に取り憑く幽霊にはなれないね」
「!!」
顔を上げたアレグリットは、思わず伏していたのが王太子の胸であったことに気付いて、慌てて背後に飛び退いた。ユーディスディランから我が身を庇うようにして、繊細な手で自らの両腕を掻き抱く。
「そんな――ひどい!
糾弾するアレグリットの黒い瞳は、淡く涙を滲ませ潤んでいた。その眼差しが湛うのは、子供の潔癖と大人の色めかしさ。男女の性を知り初めて、憧れながら汚らわしく思う、狭間の時代にある少女にしか持ち得ない危うげな美だ。アレグリットを惑乱させているのは、従兄妹同士の関係とはいえ、ほとんど他人の男に抱きついてしまった羞恥だろうか? だとすれば、それは――、ユーディスディランには好ましい。
「これは失礼をしてしまった。どうすれば機嫌を直してもらえるかな?」
その怒りが本物でも、九つも年下の少女と思えばこそ、ユーディスディランは余裕が持てる。仔犬や仔猫は何をしていても可愛いと、感じる理屈に似ているかもしれない。
「――」
僅かに唇を開きかけて、アレグリットは躊躇した。心によぎった考えを、恥入りでもするようにさっと視線を流されてしまっては、ユーディスディランはどうしても、聞き出したくて仕方がなくなる。
「遠慮はいらない、思いついたままを言ってごらん。私にできることならば、お詫びに叶えて差し上げよう」
ユーディスディランの宥めるような物言いに、アレグリットは己を抱いていた腕を解いた。そうして俯きがちにして、もじもじと細く言の葉を紡ぐ。
「お約束通りに……、踊って下さいましたら……。わたくし殿下に誘って頂くのを、今日はとても楽しみにして参りましたのよ……」
「ああ……」
ユーディスディランは我知らず口元を覆っていた。しまった、というのが、彼の正直な感想だ。
そうだ――。およそ一年前、エトワ州城へグネギヴィットを訪ねたあの日に、ユーディスディランはアレグリットに、この新緑祭の舞踏会で一曲を踊る予約を入れていた。自分から取り付けた口約でありながら、ユーディスディランはさっぱりと忘れていて、うっかりと反故にしてしまうところだった。
「どうやらあなたには、重ね重ね失礼をしていたようだね。もっと早くに切り出してくれればよかったのに」
けれど、アレグリットにそうさせぬよう仕向けたのは、舞踏会の冒頭につれなくしてしまった、自分の態度であったかもしれないとユーディスディランは反省する。今こうして口にするのにも、おそらく勇気がいったことだろう。
「殿下のお近くには、ずっとお綺麗なお姉様方がおいででしたもの、わたくしの出る幕などありませんでしたわ。それに殿下は今宵、舞踏会をお楽しみになられるようなお心持ちではいらっしゃらないのでしょう? 無理やりに付き合って頂くのは、申し訳ないし寂しいですから……。今のお願いは取り消します、忘れて下さって結構です」
アレグリットはユーディスディランの薄情を責めることもなく、大人顔負けの気遣いを見せてあっさりと要求を引っ込めた。約束があったことを思い出し、謝ってもらっただけで満足だと言いたげな表情である。
だが、押しまくられると逃げたくなる分、すり抜けられると追いたくなるのがユーディスディランの
それはいずれ恋に変わる類の感情ではなく、ひょっとしたら緩やかな血の絆を、そうと錯覚しているだけであるのかもしれない。それともキュべリエールの進言に、面白いように唆されているだけかもしれない。いやもっと単純に、グネギヴィットに似た彼女に、ついえた理想を押しつけようとしているだけかもしれない。けれど……。
「戻ろうか、大広間へ」
「はい……。殿下がお先に行かれますか? それともわたくしが、先に出てゆけばよろしいのでしょうか? 申し訳ありませんが、また騎士を一人お貸し頂けますか?」
矢継ぎ早なアレグリットの問いかけに、ユーディスディランは揶揄するように尋ねた。
「私と一緒に、という選択肢はないのかな?」
「それでは殿下に、たくさんご迷惑がかかってしまうのではありませんか……? それにわたくしも……、ほんの少しだけ、困ります」
大広間から消えた時機が別々でも、二人揃って戻ってしまえば、ユーディスディランがアレグリットと、どこかで時を過ごしてきたことに気付く者がいるだろう。
それはもちろん、ユーディスディランとて承知の上で誘いをかけてみたのだ。仮にも自分は王太子の身の上である。おまけに母后の手によって、お妃候補選考中の看板を上げられている今である。受けて当然のはずのエスコートを気まずげに断られ、少なからず自尊心を傷つけられた気分だ。
「ではアレグリット、あなたから先に立ち去って頂いてもよろしいかな? 大広間までは彼に付き添わせよう――、ヘルヴォン」
「はい」
「披露目の以前から、人の口に上っておいでの若葉の姫君だ。決して粗相のないように。わかっているね」
「はい、謹んでお役目拝領つかまつります」
ユーディスディランが指名したのは、照明役をしていた騎士の方である。アレグリットにその気がないならば、少しでも目立たぬように帰してやろうという配慮であり、断じてキュべリエールを牽制したわけではない。
「あなたはお名前をヘルヴォンとおっしゃったのね。わたくしのために、ずっとお部屋を照らしてくれてありがとう。もうしばらくだけお付き合いを、よろしくお願いしますわね」
「はいっ、喜んで。『マイナールの蕾姫』を、エスコートさせて頂けるとは光栄です」
まだ少年に近い年頃のヘルヴォンは、アレグリットに礼を述べられ赤くなりながら、しゃちほこばった敬礼をしてみせた。それに花が綻ぶような微笑みを与えてから、アレグリットはユーディスディランに改まった表情を向けた。
「御手間をかけまして、申し訳ございません、殿下。『硝子の鍵』のこと、それにこちらで殿下にお会いしましたこと、わたくし誓って内密に致します」
「ああ、私は、陛下にだけは話すかもしれないがそれは許して欲しい。アレグリット、後ほどまた、大広間でお会いしよう」
「はい」
*****
ヘルヴォンに連れられて行くアレグリットを見送って、ユーディスディランは小さく溜め息を零した。それと入れ替わるようにして、部下から手燭を受け取ったキュべリエールが、気づかわしげに主君の傍へと近づいてくる。
「どうなさいました?」
「いや、サリフォール家の姉妹とは、つくづく縁がないようだと思ってね。披露目のエスコート役は姉君だったのだ。許婚は定まっていないはずだが、『マイナールの蕾姫』には、誤解されたくない男がいるらしい。ここで出逢ったことに意味を持たれては困ると、
去り際のアレグリットの態度を、ユーディスディランはそのように受け止めていたが、キュべリエールの解釈は違った。
「んー……。アレグリット嬢が、後ろめたさを感じている相手が、男であるとは限らないんじゃないですか?」
「どういうことかな?」
「例えば、というかですね、私は多分こっちのが正解じゃないかって思うんですけれど。うかつに殿下と懇意になってしまったら、サリフォール公に悪いって」
「うかつ……」
その一言がユーディスディランにはひっかかったが、傍目にも、仲の良さげな姉妹のことである。グネギヴィットを差し置いて自分と近づきにはなれないと、アレグリットがためらっているとするならば、その心根ははがゆくも、愛すべきものではないだろうか。
「本気になりゃあ遠慮なんてしてられませんけれどね、私だって、兄や弟と一時でも、そういう関係にあった女性にちょっかいをかけるのはいささか気が引けます。ま、異性として意識をしてしまっているからこそ、深入りしちゃ不味いって気持ちが働くのかもしれませんけどね」
かえって脈ありってことじゃあないですかね、と、キュべリエールはにやにやと笑い、それからこう続けた。
「さて殿下も、早いこと戻られませんと。『マイナールの白百合』の分まで引き受けて、『マイナールの蕾姫』は競争率が高いですからねえ。悠長になさっていると順番がまわってきませんよ」
「順番? 何のことかな」
ユーディスディランは空とぼけたが、少年時代には王太子の小姓を務め、長じて近衛騎士となって、兄のように友のように傍近く仕えてきた、キュべリエールには通用しない。
「私にはちゃーんとわかってますって。アレグリット嬢を、改めてダンスに誘うおつもりで大広間に帰されたんでしょう? あの姫君とお二人の時、殿下がどんなお顔をなさっているかは、王后陛下にきっちりはっきりご覧になって頂かなきゃいけませんもんね」
「いや……」
そうでなく、アレグリットは忘れていいと言っていたが、約束はきちんと果たしたくて――というのは、キュべリエールにはするだけ無駄な言い訳だろう。開き直って白状してしまえば、アレグリットが王太子妃になり得る姫であることを、世間に公示しておきたいと、ユーディスディランが思ったのは事実なのだ。それにしても……。
「他の令嬢たちに対するのと、扱いを変えたつもりはないが、私はそんなにも違っていたのだろうか?」
「そうですねえ、この場の雰囲気というのもあったのかもしれませんけれど、笑ってらっしゃいましたよ、殿下。お久しぶりに、作り笑顔でなく――ね。私室においでの時のように寛いだご様子で、そりゃもう楽しげに、じゃれておいでに見えました」
「じゃれる!? 私がか?」
頓狂な声を上げたユーディスディランに、キュべリエールは呆れたような眼差しを向けた。
「あんな悪ふざけをなさって、純な若葉の姫君に抱きつかせておいて、今さら何しらばっくれてんです?」
「あれは、まあ――、ちょっとした実験だ」
「一体何の実験ですか? やーらしい」
「小細工もたまには、捨てたものではない、とね。ここは素直に、ご先祖の下心に敬意を払っておこう」
役者のような仕種で、ユーディスディランは歴代国王の肖像に向けてお辞儀をした。壁に掛けられた幾枚もの絵から、一斉に苦笑が漏れたような気がした。
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