第二十二章 「総意」
22-1
グネギヴィットが目覚めると、そこには自分の寝台の、見慣れた天蓋があった。
醒めきっていない頭でぼんやりと、もう朝かと思うがやけに暗い。
今の時刻は……? いやそれよりも、自分はいつから休んでいたのだろう……? 床に就いた記憶が全く無いなと思ったところでグネギヴィットは、ルアンに抱えられながら、『マルグリットの夏の園』で気を失ったことを思い出した。
あれから自分は……。
己を夢見心地に昇らせた、ルアンの温もりと逞しさなんぞを思い返してしまいつつ、のたくりたくなる気持ちのままに、何かを握ったままにしていた右手の側にもぞりと寝返りを打ったグネギヴィットは、寝台脇にいてはならない人物の姿を認めてかちんと固まった。
「あ……、気が付かれましたか、公爵様」
こちらもこちんと緊張した様子でそこにいた――というよりも、凝固した状態で枕もとの椅子の上に置かれていたルアンは、起き抜けのグネギヴィットに向けて心底ほっとした顔つきでそう言った。
グネギヴィットの私室は――しかもここ、寝室は、下っ端庭師であるルアンが、立ち入るどころか近寄るどころか想像してもいけないような場所である。
使用人は性別男でも、許しがあれば女主人の私室に出入りすることが可能なわけだが、グネギヴィットはルアンにそんな許可を与えてなどいないし、ましてや婿取り前の女公爵が、若い下男を寝室に入れ、寝顔を晒していたなどもっての外の状態であるわけで――。
「で……」
「で?」
「出て行けルアン! すぐに! 今すぐだ!!」
「はいいっ!!」
グネギヴィットは左手で夜具を鼻先まで引き上げつつ、右手で掴んでいた何かを放り出し、その手で続き部屋の居間へと繋がる扉をびしりと指差した。グネギヴィットに命じられるまま、ルアンは動転しながら扉の方へとすっ飛んでゆく。
ルアンの姿が扉向こうへ見えなくなるのと前後して、何故だか「うっ!」という呻きが聞こえたが、グネギヴィットはそれを気に留めているどころではなかった。
見られた。ルアンに見られた。ルアンに寝顔を見られてしまった……! グネギヴィットは潜り込んだ寝具の中で、耳の先まで紅潮しているに違いない、火を噴きそうな顔を両手で覆う。
「公爵様……、今のはルアンさんが、少々お気の毒様です」
身悶えするグネギヴィットの上に、寝具を通してマリカの声が降ってきた。ひょこりと顔の上半分を覗かせながら、
「何だ。いたのか、マリカ」
「いました。お休みになられておいでの公爵様を、ルアンさんとお二人にはできませんので」
「待て。その前提がそもそもおかしいだろう。どうしてルアンがここにいた?」
「公爵様がお引き留めになられたからですが……」
すかした顔つきでマリカは、さらりと問題発言をしてくれた。グネギヴィットにそんな覚えが無いことは言わずもがなである。
「わたくしが?」
「はい。よろしれば順を追ってご説明致します。記憶はどこまでおありですか?」
「ひどく具合が悪くなって、庭で意識を失くしたところまでは……」
どうしようもない気持ちの悪さは、ルアンに抱き止められた時に回復をしているが、そこは省略である。適度なところでグネギヴィットは語尾を濁した。
「はい、では、その後ですね、公爵様がご気分を悪くされた原因を重く見て、肩を落とされながらもローゼンワート様が、公爵様をご寝室までお運びするようルアンさんにお言い付けになられました。それが終わったらルアンさんは、ローゼンワート様から聞き取りを受けるご予定だったのですが、公爵様がルアンさんの服の袖を掴んでお放しにならなくて……」
「そ、そう……」
さきほどまで右手でしっかりと握っていた『何か』は、ルアンの衣服であったのか。無意識にも、そんな引き止め方をしてしまうだなんて、果たして自分はどこまでルアンを好きなのだろう……。己が眠っている間に、彼を遠くへやられてしまうのは嫌だという、不安があったのかもしれない……。ああそうだ、悠長にしている場合ではなかったのだ――と、冷静さを取り戻しながらグネギヴィットは、寝台の上に身を起こした。
ルアンがいたので着替えさせられた跡は無く、グネギヴィットの着衣は、政務後に上着だけを脱いできた執務服のままである。解かれていた髪を背中に払って、グネギヴィットは右襟を肩口に向けて開いて見せた。
「マリカ、どうなっている?」
「はい、じんましんは治まっています。公爵様がお掻きになった痕と、肩の痣は残っていますけれど……。ご気分はいかがですか?」
「もう、平気。マリカ、靴を」
「室内履きでもよろしいですか?」
「構わない」
グネギヴィットは手櫛で軽く髪を梳き、寝台を下りながらマリカが用意をしてくれた室内履きをつっかけた。そうしてルアンを追い出した扉の前へ行き、こん、と一度それを叩いて扉越しに呼び掛ける。
「そこにいるか? ルアン」
「……いっ、いますよっ」
微妙に高く上擦った声で、少しの間を置きルアンからの返答があった。ルアンは隣室のすぐそこでまごついていたらしく、扉を挟んだ返り声は遠くない。
「ルアン、頭ごなしに追い払うような真似をして悪かった。今マリカから聞いたよ。お前はわたくしがせがんだものだから、わたくしに付き添っていてくれたのだな」
「そ、そうなるんですかね……? 眠っておいでの公爵様に掴まえられていただけですけど」
「うん、そうだと思う。わたくしの身体は、心よりもずっと正直なのだろう……。目覚めてお前が傍にいて、とてもね、恥ずかしかったけれど、お前がわたくしの知らない内に、わたくしの前からいなくなっていなかったことに、わたくしは今、胸を撫で下ろしているところだ」
「……俺は勝手に、どっかに行ったりはしませんよ。これから先の俺の処遇を、お決めになるのは公爵様でしょう?」
平素に戻ったグネギヴィットと会話をするうちに、ルアンも落ち着いてきたのだろう。答えるルアンの声から、わたわたする姿が瞼に浮かぶような狼狽が引いていた。
「それがそうとも、言い切れない時がある。お前の罪科は、わたくしの心の咎と切り離して、使用人の不始末で片づけられる話じゃない。一番良くなかったのはきっとわたくしで、だけど、だから、お前をこれからどうするかは、わたくしの一存では決められない。親族会議で諮らねばならないが、一門の者たちに、わたくしの意を汲んでもらえるかどうかもわからない。此度のことはそれだけの
「そう、ですか……。ああ、それで……」
妙に納得をした口調で、ルアンは言葉を途切らせた。ザボージュに拳を振るったその時から、既に腹を据えてしまっているルアンは、足掻くこともなく静かな様子であった。
「ルアン」
「はい」
「お前の口から、どうか聞かせて欲しいことがある。お前がマリカに託してくれた
「……」
息詰まるような沈黙が下りる。ルアンの背に当てるような気持ちで扉に両手を重ね、グネギヴィットはその上に火照った頬も付ける。
「言えない? ルアン。わたくしはわたくしの気持ちを、お前にはっきり示したつもりだ。それでもまだ言えない?」
唇から、唇へ。越えてはならない一線を越えて、自分から触れ合わせた口付けに、グネギヴィットは心密かに募らせてきた想いの全てを乗せたつもりだ。それに何も感ずるものがなかったとは、ルアンに言わせたくない。
「……そう――ですよ」
その熱が伝わったかのように、グネギヴィットの胸を喜びで張り裂けそうにする、観念したルアンの、照れが透かし見えるような肯定が返ってきた。
「言っちゃいけないことだから、面と向かって言えませんでした。俺が今こうして、公爵様とお話しできているのは、お狸様たちがお情けで恵んで下さった奇跡で、二度とあなたに会えなくなる言葉だってわかっていましたから……。
だけどあんな風に、格好付かない打ち明け方を中途半端にしてしまって、何て馬鹿なことしちまったんだって悔いしかなくって……。直接じゃなくても、公爵様に本心を知ってもらえる最後の機会になるんなら、俺が一番言いたくて、ずっと言えずにいた言葉を、公爵様に届けてもらえたらって……」
「そう……、嬉しい……」
嬉しくて、嬉しくて、グネギヴィットはこの時、常ならば聞き咎めていたであろう、ルアンの奇妙な言い回しを聞き流してしまった。花を介した告白を認めたルアンは、実直に続けた。
「そういう風に受け止めてもらって、俺も嬉しいですけど……。いやなんかもう、状況について行けてなくて、それよりも途方に暮れてます」
「ルアンらしいな。……ねえルアン、それでそれは、何て言葉?」
ルアンの率直さに笑みを零しながら、ようやく通じ合えた恋の歓喜にふわふわと浮かされて、グネギヴィットの問いかけは甘えるようになった。
「何てって、公爵様、あの花の花言葉を知っていなさるなら、もうおわかりなんでしょうに」
「それでも聞きたい。ルアンの声で言って欲しい。お前はわたくしのお願いを叶えてはくれないの?」
「今この場で……、言わなきゃ駄目ですか? どうしても」
ルアンの声は、当惑をありありと滲ませていた。彼の身分と性格を考えれば、軽々しく口にできる言葉で無いのは、グネギヴィットとて承知の上だ。けれど、だからこそ――、グネギヴィットはルアンから、きちんと告げて欲しいのだ。
「どうしても。わたくしとお前に、明日があるか知れないから」
「……公爵様」
「うん」
「今日だって無くなった俺には無理です……! もう勘弁して下さいっ!!」
グネギヴィットのときめきを裏切って、ルアンはなんとも腑抜けた叫びを上げた。乙女な気持ちで待ってしまっていた分だけ、ばしゃりと冷や水を浴びせられた、グネギヴィットの怒りはひとしおだ。
「……ルアン」
「はい……」
「わたくしがこんなに頼んでいるのに、勘弁しろとはどういうことだっ!?」
グネギヴィットはがっと取っ手をひっ掴んで、勢いよく扉を開けた。するとその先の、グネギヴィットに居間には――。
これ以上は赤くなれないだろうという顔を俯けて、ローゼンワートに拘束されたルアンがいた、のみならず。
シュドレーが、バークレイルが、テッサリナが……、親族会議に集まるようなサリフォール家の面々が、ソリアートンに茶菓を供されながら、ずらりと顔を揃えていた。
――『お狸様たち』!!
長椅子とその周辺で寛いでいた、正に『お狸様たち』の視線全部が、二の句が継げないでいるグネギヴィットに集中する中、ばっちりと目を合わせてきた大叔母セルジュアが、上席でひらりと扇を翻し、にんまりと笑った。
「純愛ねえ、ガヴィ」
一度は開けた扉を、グネギヴィットはばたりと閉めた。
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