3-2
「これは叔父上、お久しぶりにございます。かような時間からお越しになられるとはお珍しい。何か急ぎの用件でもおありですか?」
一斉に振り返った文官たちの中央で、州公の椅子に就いたまま落ち着き払った声をかけたのは、華やかなレースやリボンで甘く飾られた、砂糖菓子のようなアレグリットではなく、颯爽とした男装に身を包んだ、今そこにいる筈のないグネギヴィットであったのだ。
「グ、グネギヴィット……」
「はい」
「い、一体いつから戻っていた?」
「昨日の夜に」
動揺するバークレイルに短く答え、グネギヴィットは手にした羽ペンの先をインク壷に戻すと、冷静に周囲の官を見渡した。
「ローゼンワート、お前はこのままこの場に残っていなさい。他の者はわたくしが呼ぶまで、秘書室で控えているように」
「はい」
グネギヴィットの命に従い、数人の官たちが、処理済の書類を納めた箱や、不要になった資料をいっぱいに抱えて、順にきびきびと退出してゆく。最後の一人の手で、扉が確かに閉ざされるのを待ち、グネギヴィットから目を逸らしたまま一呼吸をおいて、バークレイルは衝撃により失われていた威儀をどうにか取り繕った。
「さて叔父上、何の御用でしょう?」
正面に向き直ったバークレイルに、グネギヴィットは意地悪く質問をした。公爵家の正統な後継者に、執務室を乗っ取りにきましたとは答えられる筈もなく、バークレイルは分別臭い叔父の顔つきで、グネギヴィットのいでたちに文句をつけた。
「王都での暮らしで、王宮を彩る貴婦人たちに薫陶を受け、充分に更生をしているものと思っていたのに……。グネギヴィット、そなたは故郷に戻るなり、またそのような倒錯的な格好で、男の真似事をしているのか!?」
「これは異なことを申されますね」
グネギヴィットは怯みもせずに、非難するような眼差しを叔父に向けた。
「わたくしは別段に好き好んで、男の服を着ているわけではございません。わたくしが着飾った姿で政務に携わっておりますと、若い官の気がそぞろになって困ると、お小言を下されたのは叔父上ではありませんか」
「だからと言って、由緒正しいサリフォール家の姫が、よもや男のなりに身を改めてまで、政務に執着を見せるとは誰も想像すまい!!」
「それは叔父上のご勝手な思い込みというものです。わたくしには、父上のご遺言に従い、些末ながら兄上の補佐をさせて頂くという義務がございます」
半ば叫ぶようなバークレイルの言い分を、グネギヴィットは冷淡に一蹴した。
先代のサリフォール公爵は、嫡男シモンリールの資質に満足をしながらも、その身体の弱さに懸念を抱いていた。そこで二人の娘たちにも、万が一の際には兄に代わり兄の役目を補えるようにと、淑女としての嗜みや教養に加えて、帝王学も学ばせていたのである。
年長のグネギヴィットには特に入念な教育が施され、グネギヴィットもまた父親の期待に十二分に応えて、十八で成人する以前から、優秀な片腕として兄を支え続けてきた。
「王太子殿下も物好きな……。このような男勝りの姫を、猫を被った外面に惑わされ、よもやお妃候補の筆頭に挙げられようとは」
開明的な兄の教育方針が、保守的なバークレイルには未だ理解できない。女は男の目を楽しませ、心身を憩わせるものと決めてかかっている彼にしてみれば、グネギヴィットは女性の規範から大きく外れた存在なのである。
「聞き捨てならぬお言葉ですね、誰がそのような戯言を流布しました?」
「白々しいことを! 今や国中の話題ではないか! ユーディスディラン殿下がそなたを王太子妃に立てられるかどうか、賭けの対象にしている者もおると聞くぞ!」
「世間には実に、暇人が多いものですね。それで叔父上はどちらに賭けられました? 叔父上の懐を温めて差し上げる為には、わたくしはこの身に余る光栄を、殿下から賜る必要があるのではないかと推測致しますが」
ユーディスディランから求婚を受け、さらにはその返事を保留にしている素振りなど露ほども見せずに、グネギヴィットはバークレイルを追及した。さらりとした物言いであったが、倍以上も年の離れた姪に痛烈に皮肉られて、バークレイルの頭に血が上った。
「いっ、言うに事欠いて、そなたはわしを暇人呼ばわりするのか! そなたがおらぬ間にシモンリールが死にかけて、みな困っておるだろうと思ってだな、わしはわしなりに、粉骨砕身していたのだぞ!!」
「仰せになりたいことはそれだけですか?」
バークレイルの感情露わな怒声とは対照的に、グネギヴィットの声は真冬の冷気を帯びて響いた。
青く透ける炎の如くに、静かな怒りを燃やすグネギヴィットの傍らから、出しゃばることなく無言で控えたローゼンワートが、小憎らしくも同情的な眼差しを向けてくる。
「決して楽観視できるご病状ではございませんが、兄上は今も懸命に病魔と闘っていらっしゃいます。叔父上のご本意がいずれにおありでも、わたくしの前で、そのような不吉を軽々しく口になさらないで頂きましょうか」
「う……」
グネギヴィットを怒らせた失言に気づいて、バークレイルは返す言葉に詰まった。たとえ一門の総領であろうとも、たかだか二十歳前の小娘、怯んでいては沽券に係わると思う。思うのだが――。
「兄上が快癒なさるまで、サリフォール家の総領であるわたくしが、暫定的にエトワ州公の代行も行います。この
鋭く瞳を閃かせながら、グネギヴィットが噛んで含むように述べているのは、反論の余地を全く与えぬ正論である。公爵家の令嬢に止めておくのが惜しいほどの、強い目力に呑まれるようにして、バークレイルは冷や汗をかきながら諾った。
「あ、ああ……」
「ご理解頂けたようで幸いです」
自分が留守であるのを良いことに、州公代理の座にあからさまな色気を見せていたバークレイルをしっかりと脅しつけてから、グネギヴィットは厳しい表情のままで続けた。
「朝早くから、せっかくご足労頂いたことです。わたくしは当分の間、州城を空けることが叶いませんので、叔父上にお力添えを頂きたい次第があるのですが、聞いて頂けますか?」
「内容によるが、何かね?」
「簡単にご説明を致します。ローゼンワート、先ほどの嘆願書を」
「はい」
ローゼンワートは州公の脇机に積み上げられた書類の中から、一綴りを選んでグネギヴィットに示した。
「こちらでよろしかったでしょうか?」
「それでいい。叔父上にお渡しするように」
「はい」
形ばかりは恭しく、ローゼンワートから手渡されたのは、公共事業についての嘆願書である。書面に目を走らせるバークレイルに、グネギヴィットはかいつまんで用件を述べた。
「領境の谷川に掛かった橋が落ち、民が往来に難儀をしているのに、各々の領伯の言い分が割れて、工事の目処が立っていないのだそうです。雪解けを迎えたら速やかに着工できるよう、早急に調整をお願いします」
「そのようなことなら、わしでなくとも――」
マイナールのように発達した『市』とは違って、『領』というのは町や村が点在する広大な田舎である。厳しい冬の最中とあって、バークレイルの腰は重かった。
「その通りではありますが、こういった役目にあたって頂くには、一門の中でも顔と名の知れた方が望ましいのです。調停役はお得意でいらしたでしょう?」
「それはそうだが」
「自信がないと思し召しなら、残念ですが他の方をあたりましょう。叔父上に代わって下さろうという方は、幾らでもいらっしゃるでしょうから」
「ま、待て――!」
あっさりと手の裏を返そうとしたグネギヴィットに、バークレイルは慌てた。当主シモンリールの病によって、サリフォール家の一門は大きく揺らいでいる。根底にあるのが良心であれ野心であれ、健気にも兄の代行を務め上げようとしているグネギヴィットの、後見役を買って出ようとするのは一人二人ではないだろう。
もしもシモンリールが儚くなり、このままグネギヴィットが当主として立つことになったとしても、バークレイルはその最も本流に近い地位を、他者に譲るつもりは毛頭無かった。
「わかった! そなたがそうまで言うのであれば、引き受けてやろう!」
「ご快諾ありがとうございます」
鞭と飴とを使い分けて、バークレイルの言質を取ると、グネギヴィットはそこに至るまでの確執などまるでなかったかのように、麗しいまでの微笑みを浮かべて叔父を魅了した。
「叔父上がお引取りになられます。ローゼンワート、扉を開けて差し上げなさい」
「畏まりました、我が姫」
ローゼンワートの手によって開かれた扉の向こうへ、意気揚々と乗り込んできた時とは別人のような殊勝さで、バークレイルはすごすごと引き下がっていった。
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