21-3

「――っ!!」

 仰天の出来事に、ルアンは口元を片手で覆って真っ赤に沸騰し、グネギヴィットも思い出したかのように羞恥して甘やかに頬を染める。そんな面映ゆい空気を漂わせる、できたてほやほやの恋人たちとは対照的に、一人弾かれたザボージュは蒼ざめて硬直した。

 動きを忘れ、言葉を失くして、その場に立ち休らうばかりの三者の間に、第四の人物が割り込んだのはその時である。



「どうしてまあ……、こういう事態に……、なっているのだろうねえ……?」

 大急ぎで駆け付けた――、という表現がぴったりな様相で、金芽黄楊の陰から姿を現したシュドレーは、笑う膝に両手を置いてぜいぜいと息をした。

 左脇に挟んだ望遠鏡が、彼がここに至った経緯を物語っているように、物見台の長い階段を駆け下りての疾走は、遊びを仕事にしてきた有閑貴族の三十路半ばの肉体に、相当応えたようである。

 さらにはそれに被せるようにして、ぱかぱかと馬の蹄の音が近づいてきたかと思うと、軽い嘶きが聞こえた後に、ローゼンワートが悠々と園の中に入ってきた。


「シュドレー様、馬の用意がございましたのに」

「お前……、とことん、いけ好かないなっ……!」

「焦り過ぎなのでございますよ、シュドレー様が。庭師が先に動いたので、野暮を避けたようですが、すぐそこに衛兵も配置しておりました。まあお気持ちはわからないでもないですが、物見台から離れられる際には、望遠鏡を置いて行って下さらないと。題するならば、真昼の徒事あだごと劇場とでも言ったところでございましょうか? 衛兵たちが揃って目頭を押さえるような、めったにない見物でありましたのに、主演女優の貴重な表情を、拡大して見られなかったではありませんか」

「主演女優って、お前ね……。ローゼンに、文芸の才能が無いことは、よーくわかったっ……。そんな冷やかしを言える余裕を持って、ある程度の顛末を、物見台から見届けてきた冷静さは褒めてやろう」



「え――? み、見て……?」

 サリフォール家の狸二人の会話を受けて、ぎくりと問うザボージュに――衛兵たちのある意味人気者である、ルアンも唖然としているがそちらは無視で――、シュドレーは小脇に挟んでいた望遠鏡を手にとって示した。


「そう、週末のことがあっただけに心配でね。貴公の庭での行動は、悪いがこれでずっと見張らせてもらっていたよ、ザボージュ殿。ガヴィは我々の監視を予測していただろう?」

「ええそれは……、まあ……。四阿の中が、どこまで覗けたものか知れませんけれど……」

 叔父はやっぱり見ていたかと思いつつ、グネギヴィットにはローゼンワートの冷やかしの方が気にかかる。この城の衛兵たちはみな、果たして真面目に働いているのだろうか?


「それは、そう、この場に私が急行しなけりゃならなくなる程度に――、だね。誰からでもいい、改めて聞かせて欲しいのだけれど、これは一体どういう事態か?」

 そう言いながらもシュドレーの目は、ザボージュ一人に厳しく向けられていた。

 グネギヴィットがルアンに助け出され、彼に泣き付いて背中をぽんぽんされるところまでを確認してから物見台を下りたローゼンワートとは違って、シュドレーは望遠鏡を使って食い入るように注視していた、 四阿内の異変に気付くや否や飛び出してきていたのだ。



「それはこちらが伺いたいものです。叔父君には、グネギヴィットが庭師の恋人を持つことを、黙認しておられたのですか?」

 質疑の意味を十二分に理解しつつも、ザボージュはシュドレーにきつく問い返さずにおれなかった。自業自得であるとはいえ、逢瀬の場を覗き見されていたことは非常に不快であり、自分が欲して得られなかったグネギヴィットの心も唇も、庭師などという下賤の者に与えられたことが口惜しく屈辱的だった。


 後ろ暗さをまるで持たないシュドレーは、目を赤く充血させ、ルアンの胸元に片手をかけたままでいる、グネギヴィットを溜め息混じりに見やりながら正直に答えた。

「いや、私の知る限りでは、恋人などでは無かったし、貴公をお迎えする前に、それ未満の関係もきっちり絶たせておいたのだがねえ……。ガヴィ、いつの間にその庭師を、恋人なんぞに昇格させたんだい?」


「つい今しがた」

「は――。ずいぶんと思い切ったことをしたものだ。そんなにまで好いていたのか!」

「そのようです」

「えええええっ!?」

「ルアン、いま少し静かにしていなさい」

「はい」


 グネギヴィットに窘められて、極力声を抑える努力はすることにしたが、ずっと自分の片想いだとばかり思ってきたルアンに、いきなり主人に熱愛される恋人にされたこの境遇を、驚くなというのが土台無理な話である。

 おまけにどうやらグネギヴィットとの秘密の関係は、例の日傘を介して接触してしまったシュドレーのみならず、一度も接点を持ったことの無いローゼンワートにも把握されているようで……、いやもう何がどうなっているのかわからない。


 グネギヴィットに服従しながらも、この場の誰よりも目を剥いているルアンの様子に、とりあえずは傍観者を決め込んでいるローゼンワートが笑いを堪えている。

 緊迫した場面のはずなのに、締まりの悪いその空気を、シュドレーは利用することにした。

「ガヴィの身の潔白は、その庭師の驚きようで信用してもらいたいね、ザボージュ殿。私が叱って係わることを禁じるまでは、恋をしている自覚もなかったような鈍さだから」


「単純に鈍いというのとは、少し違うのだと思います、シュドレー叔父上。后がねの姫として育ち、当主として相応しい婿を取ることを求められ……、わたくしにとって恋は、自由にしてはならぬものでした。たとえ許されていなくとも、男女である意識など持ったつもりがなくても、恋が時に、身分も立場も超えて落ちてしまうものであるのだということを、叔父上にご指摘を受けるまで、わたくしはわからずにいただけです」


 自らの心を知るに至った流れを、ルアンにも教えるようにそう語り、瞳に瞳を合わせながら柔らかく微笑みかけて、グネギヴィットはルアンの服から名残惜しく手を放した。

 恐怖心はまだ克服されておらず、片手だけでもルアンに掴まっていたかったが、グネギヴィットにはどうしても自力で立って、きちんとザボージュに向き合わせ、告げねばならないことがある。



「わたくしはルアンを、恋人にするつもりなどさらさらありませんでした。自覚を持ったその時には、わたくしの心を占める彼の存在が、どれだけ大きく重きをなしていようとも、諦め、忘れるしかないのだと……。

 ザボージュ、嘘臭く聞こえるかもしれませんが、あなたの想いに応えあなたを愛して、あなたを婿にお迎えするのが正しいことだと……、わたくしはサリフォール家の当主として判断し、可能な限りにあなたを受け入れて、あなたが望む形での交際をして参ったつもりです。……それをこんな風に、破綻させてしまう前に、わたくしは気付くべきであったのでしょう。わたくしの夫となって頂く方には、必要不可欠な条件があるのだということに」


「条件?」

「ええ。大変申し訳ございませんが、この縁談はお断りさせて下さいませ。それを欠いていらっしゃるあなたと、わたくしは結婚することができません」

「ほお、それは」

 グネギヴィットのきっぱりとした謝絶を受けて、ザボージュの頬がひくひくと引きつった。こういった局面を迎えてしまって、グネギヴィットから破談を申し出るのは妥当なのかもしれないが、ザボージュにしてみれば述べられた事由が問題だ。


「この私が、一体どんな条件に適わぬというのです? 破談になさるとおっしゃるならば、誰もが納得できるだけの理由をお聞かせ頂きたい!」

「申し上げても構いませんが……。聞かなければよかったと後悔をなされても、わたくしは責任を持ちませんよ」


 渋るグネギヴィットに、ザボージュは首を二三度横に振った。そんな軽い動作にも、ルアンに負わされた殴打の痕がずきずきと痛んで腹立たしい。

「聞かずに承服できるわけがないでしょう、グネギヴィット。私を蔑ろにして、業腹な庭師などを選んで……! なのにあなたは私の不足を訳合わけあいになさる。そんな理不尽がよもや通るとでも!?」


「それでははっきりと申し上げましょう」

 すう、と大きく息を吸い、強い力を込めた黒い瞳でザボージュを睨み据えて、グネギヴィットはなめくじが這ったような感触が蘇る右の耳から首筋に、逆の手を当てながら感情のまま吐き捨てた。


「あなたにされたことを思い返しただけで、わたくしは鳥肌が立ち虫唾が走ります! あああもうっ、気色の悪いっ……! あんな嫌な思いをするのは二度と御免です!!」


「きっ、気色の悪い――」

 男というのは、女が思う以上に繊細な生き物だ。

 無理やりであるとはいえ――否、無理やりであったからこそ、ザボージュは抵抗するグネギヴィットを手っ取り早く大人しくさせようと、独りよがりな愉楽にただただ溺れてしまうのではなく、彼女の身体を蕩かせてゆくために技巧を凝らしたつもりである。

 それを、『鳥肌が立つ』『虫唾が走る』『気色が悪い』、挙句の果てに『二度と御免』とまで言い切られてしまっては、自尊も矜持もずたぼろだった。



 急速に勢いを失くして、しょんぼりとしてしまったザボージュに、シュドレーはなんとなく事情を察して同情的な気持ちになる。だからといって酌量してやるような、義理もつもりも一切無いが。


「ずいぶんと嫌われたものだねえ、ザボージュ殿。貴公はこの白昼に、しかもこんな野外でうちのガヴィに、一体何を仕出かしてくれようとしたのかな? 下男を木石のように捉えるのは勝手だけれど、一婿候補者の分際で、我らがサリフォール家の宝の当主を、慰み者にされては困る。アンティフィント家の三男坊は所詮『顔だけ』、室内で許していないことは、屋外ではもっと駄目なのだと、諭してやらねばわからぬものかね?」


 弱り目に祟り目とはこのことだろう、満を持して詮議を始めたシュドレーに、ザボージュは慌てふためいた。

「『顔だけ』……? いやその……、そんな庭師の名前を呼ぶ、薄情なグネギヴィットに頭に血が上って、つい……。さっ、最後まで致すようなつもりはありませんでした!」


「――嘘つき」

 両腕で自分を抱くようにしながらグネギヴィットは、行為を示唆する声によって嬲られ、『女にされ』かけていた身体を縮こめた。心身の双方に強く残されてしまった、記憶のおぞましさに脂汗が浮いてくる。


「ガヴィはああ言っているけれど?」

「それでも――、実際に、着衣も乱さぬほどのことしかしていないでしょう! 早々にそこの庭師が、私の顔を殴りつけてくれたのだから!!」

 未遂に終わった出来事よりも、そちらの方がよほど重罪だろうと言いたげに、逆切れしたザボージュは、そのまま背後から抱き締めてやりたそうな顔つきで、グネギヴィットを心配げに見守っている、ルアンを指差しながら声を荒立てた。シュドレーは白々とした表情で一言返した。

「で?」


 ぐっと言葉を詰めたザボージュに、脇からさらなる追い打ちが掛けられた。

「なのにこれほどまで、嫌がっておいでですからねえ……。ああ、つまるところ、仮にご結婚をなさったとしても、夫婦の営みを持たれるのはご無理――、と」

 ぽんと手を打つ音が聞こえてきそうな、憎たらしげなローゼンワートのつぶやきを拾って、ザボージュは赤く顔を燃やした。

「なっ……! 何を失敬なっ!?」


「いいえ、ザボージュ」

 最後の気力を振り絞って、背中に感じるルアンの気配に勇気をもらいながら、グネギヴィットは背筋を伸ばした。援護はもう十分だ。 他者に頼ったままにせず、決着は自分自身でつけねばならない。


「ローゼンワートが申した通りです。わたくしはあなたと、本当の意味での『結婚』はできそうにありません。ですからザボージュ、どれだけ食い下がられても、あなたはわたくしが求める夫の条件には永遠に適わない……。これ以上この城に滞在されていても無意味でございましょう。どうぞお引き取りになって下さい」

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