6-2

「お前の名は、ルアン、だったか?」

「そうですが、はい……」

「どうした?」

「いえ、下っ端の庭師の名前まで、よく覚えていらっしゃるもんだって」

 それは若者――ルアンにとって、よほど意外なことであったらしい。グネギヴィットにしてみても、死を前にしていた兄との思い出が絡んでいなければ、とうに忘れ去っていた名かもしれないと思う。


「お前はあの時、良い仕事をしてくれたものだから……。もういいよ、立ちなさい」

「はい」

 許しをもらってルアンは、遠慮がちに立ち上がった。グネギヴィットの眼差しに促されて、ぱたぱたと服の汚れを払い落とす。


「それにしても、とんだ愁嘆場に居合わせてくれたものだ。お前、口は堅いのか?」

「軟らかくはないって思いますけど」

「おざなりな返答だね。しかし正直なのは認めてやろう。ルアン、お前ここで、見たことも聞いたことも、絶対に誰にも言いふらさぬように」

「いっ、言いませんよっ、そんなっ」

 うろたえたルアンはあからさまに目を逸らした。一体どのあたりから見られていたものか? ユーディスディランに求められた口づけを思い出して、グネギヴィットも今更ながらに羞恥心を抑えきれなくなってしまう。


「お、お前が約してくれるなら、お前の過失をわたくしもみなに黙っておいてあげるからっ……。夜中に凶器を持って、わたくしの庭に潜んでいたのだからな。首を飛ばされることになっても文句は言えないところだぞ」

「え……? これくらいのことで解雇なんですか?」

「寝惚けているのか? それで済む筈はないだろう」

「そ、そうですよね……? て、ことは――」

「言葉通りの意味だといい加減に気付きなさい。罪状は、わたくしの傷害未遂。何なら王太子殿下の暗殺未遂にしてやってもいい」

「はあっ!?」

 あまりの衝撃によって、ルアンは一気に真っ青になり、あわあわとぶっ倒れそうになっている。念のためにと鎌を掛けてみたのだが、これではとても刺客は務まらないとグネギヴィットは思う。


「……お貴族様の発想って……、理解できない……」

「お前の脳天気さの方がわたくしには不思議だ」

 ぼそりと漏らしたルアンの手に、呆れるような羨むような心持ちで、グネギヴィットは剪定鋏せんていばさみを返してやった。


「そ、それじゃあ、俺はこれで」

「待ちなさい。わたくしはまだ、下がっていいとは言っていない」

 グネギヴィットは高飛車に、そそくさと逃げ出そうとしたルアンを引き止めた。

 この上に何を言われるのかと、困惑するルアンの全身を、頭の上から爪先まで検分するように眺めやってから、グネギヴィットはルアンに詰め寄ると、殊更に声を潜めた。


「これから何が起こっても、他言は無用だぞ」

「……」

「返事は?」

「……はい」

「よし」

 言うなり、グネギヴィットはルアンの胸に寄りかかった。

 とっさのことで、我が身に何が起こっているのかを把握できずに、ルアンはただただ棒立ちになる。


「ま、まままままっ……待って下さいっ……! 何を……っ!?」

「煩い! お前はそのまま、黙ってじっとしていなさい!」

「そ、んなこと言われてもっ……!」

 正気に戻ったルアンの背に、どっと冷や汗が流れてきた。不可抗力であるとはいえ、もしもこのような現場を誰かに押さえられてしまったら、それこそ一体どうなってしまうのか? 肝の冷える想像ばかりがルアンの頭をよぎってゆく――。

 この状況はどうにも耐えられない。はらはらしすぎて心臓が持ちそうにない。縋り付くグネギヴィットを引き離そうと、恐る恐る彼女の肩に指をかけて、ルアンはそのか細さにどきりとした。


 グネギヴィットは背の高い女性だ。のみならず、色濃く継いだ王家の血のなせる技なのか、咲き誇る花のような存在感があり、隙のない男装で身を固めていても、匂いやかな淑女に立ち戻っていても、遠巻きに見かける姿はとても大きく見えていた。

 けれどもその生身の身体は、実際に触れてみると、驚くほど華奢で頼りなく感じられた。それと同時にルアンは、小刻みに身を震わせながら、グネギヴィットが声を殺して泣いていることに気づいてしまった。


「こ……公爵様……?」

 女の涙には、特別な魔力があるに違いない。それが気丈であるとばかり思っていた、佳人のものであるならばなおさらに。

「えーとその……、平気、ですか?」

「……っく……」

 案じてルアンが呼びかけてみると、グネギヴィットは嗚咽を漏らした。

 そうしてしまうと涙腺が一息に緩んだものらしく、閉じた睫の間から、大粒の涙が幾つも幾つも零れ落ちて、白い頬を絶え間なく濡らしてゆく……。


 唐突にグネギヴィットは、ルアンの胸座を両手で掴んで、きつく睨み上げてきた。

「このっ、馬鹿者っ……! お前が声などかけるから、止まらなくなってきただろうっ……!」

 なんとも理不尽な言い種である。

 けれども、癇癪を起こした酷い泣き顔ですらも、間近で咲く『マイナールの白百合』は、見とれるほどに麗しかった。怒りながらしゃくり上げるグネギヴィットを、ルアンはそれまでの利己的な恐怖心も忘れ去るほど、無性に愛おしく感じてしまった。


「……どうして無理に止めようとするんです?」

 ルアンが問うとグネギヴィットは、虚をつかれたような顔つきをした。

「何故って……。こんな、わたくしは……、駄目だから……。こんな、情けないわたくしを、いつまでもお前の目に晒していたくな――」

 グネギヴィットが答え切らぬうちに、ルアンは彼女の頭を両腕でふわりと包み込んでいた。思いもよらぬその行動に、グネギヴィットは言葉を失う。


「なら、目を瞑っていますから」

 大胆なことをしているという自覚はルアンにもあった。本来であればグネギヴィットは、一介の庭師に過ぎないルアンなどが、触れることはおろか、影を踏むことすら許されない高嶺の花だ。けれども頑なに自尊心を守り、片意地を貫こうとする女公爵を、慰めてやる方法を他に思いつけなかった。

「嫌だっておっしゃるなら、俺は公爵様を見やしません。身体が泣きたがっているんだ。我慢なんてするこたあこれっぽっちもないんです」

 ルアンは腕に収めたグネギヴィットの頭を、子供をあやすようにぽんぽんと叩いた。

「お気が済むまで付き合ってあげますから、どうぞ好きなだけお泣きなさい」


 それは普段のグネギヴィットであれば憤慨するような、無礼な扱いであり物言いであった。

 しかしルアンの真心は胸に沁み入り、グネギヴィットの肩からすとんと力が抜けた。こんなにも簡単に、甘えて良いのだと言ってもらったのは、兄を亡くしてから初めてのような気がする。

 庭仕事で鍛えられたルアンの体躯はがっしりとしていて、まるで大樹に身を寄せているような心地がした。温かな胸板に耳元を 押しつけると、強い心音が快く響く。幼子のように素直になって存分に泣いてみると、いつしか心の痛みは和らいでいた……。



*****



「……恥ずかしいところを見せて済まなかったな。迷惑をかけた」

 グネギヴィットがあらかた泣き終わるのを待って、二人は四阿あずまやに移動していた。グネギヴィットは噴水で濡らした手巾ハンカチで目を冷やし、ルアンは彼女の背もたれ代わりになって、石造りの長椅子に背中合わせで腰掛けている。


「いいえ……。だけど一つ、聞いたっていいですか?」

「何だ?」

 ようやく涙声でなくなったグネギヴィットに、ルアンは思い切って、どうにも釈然としないもやもやとした疑問をぶつけてみた。

「公爵様は、王太子殿下と好き合っておいでだったんでしょう? そんなに泣かれるくらいなら、どうして殿下をふったりしたんです?」

「……わたくしはもう、公爵だから」

 グネギヴィットの唇から、答えはするりと滑り出た。誰にも語らぬ胸の内で、想いは幾つも錯綜していたが、要約してみるとそれだけだった。


「公爵様が公爵様でありなさることが、殿下とお幸せになられることよりも、ずっと大事なことなんですか?」

「そう」

 もたれかかった広い背中から、ルアンが緩く首を振る気配が伝わってくる。

「公爵様のお考えになることは、やっぱり俺にはさっぱりわかりません。……けど」

「けど?」

「お辛い時だって、あるでしょう?」

「……」

 不意をつかれて、グネギヴィットは返答に詰まった。ないと言い切る強がりが、今の彼女には欠けていた。


 グネギヴィットが否定しないのを確かめるように待ってから、ルアンはおもむろに言を継いだ。

「俺みたいな使用人が、公爵様にこんなことを言うのは正直おこがましいとは思いますけど……。でも、俺でよかったら、いつでもどんな愚痴でも、弱音でも、泣き言でも、何だって聞いて差し上げます」

 この庭師は、どうしていとも容易く心揺らぐ言葉を贈ってくれるのだろう? ルアンに不覚をとられてばかりの自分自身をグネギヴィットは口惜しく思った。

 けれども、それは今の自分に、何よりも必要なことに感じられて――。


「……それはいいね。どうしたらお前に会える?」

 グネギヴィットが意地を張らずに受け止めると、ルアンの温かな背中が、穏やかに笑った。ような、気がした。

「俺はこの城の庭師です。日がある内は、たいてい庭のどこかにいますよ」

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