第二十一章「恋人」

21-1

 州府の終業を告げて鐘が鳴り渡る――。

 ああとうとう、今日のこの時間がきてしまったかと思いながら、ルアンはマリカに指定された待機場所へと、これから先の仕事場を移動することにした。

 マリカにそこにいて欲しいと言われた場所は、『マルグリットの夏の園』から最短距離で、南棟に向かう道すがらにあった。そぞろに無難な庭仕事をこなしながら、ルアンは、マリカがグネギヴィットの側から離されて、自分を呼びに来ぬことを一心に祈る。



「あ、いたいた! ルアンさん、ルアンさん!」

 その願いも空しく……、息急き切る勢いでマリカはやってきた。ぴしゃりと額を叩き、思わず天を仰いだルアンの前で立ち止まって、マリカはふーっと肩で大きな息をして、せかせかと状況を説明する。


「ザボージュ様に、お茶の用意をして来るようにと言い付けられてしまいました。茶器はケタ磁器にしてくれだとか、今の気分は薄荷茶だとか、執事の淹れるお茶じゃないと嫌だとか、お茶受けは花の砂糖漬けがいいだとか……、注文が多いんですよねあのケダモノ。公爵様の御用でしたら張り切ってするのにぃっ!

 お二人は今、『マルグリット様の夏の園』で憩われておいでです。私一っ走り南棟へ行って、ワゴンと一緒にソーティ小父様を押してきますから、それまでルアンさん頼みましたよっ」


 ルアンの返事を待たずにそう言い残して、マリカはぱたぱたと行ってしまった。

 下っ端庭師であるルアンに、執事が到着するまでの間、女主人とその婿候補者の恋路の邪魔をしておけと……。無茶振りの度合いがさらにもう一段階、上がってしまっているではないか。


 やれやれと肩を落としながら、ルアンはとぼとぼと、『マルグリットの夏の園』に足を向けた。そうしてほどなく辿り着いたはよいが、秘密の花園めいたその形状に途方に暮れる。

 先々代の公爵が、新妻のために造園させたという園は、夫婦の愛の語らいの場でもあったのだろう。二人の世界を周囲と隔て目隠しをするように、円いその園をぐるりと囲んだ生垣は、大柄なルアンの、目線を越える高さの金芽黄楊きんめつげだ。邪魔をするためには内側に入り込むしかないだろう。


 さらば安定の城勤め――。


 えいやっと腹を括って、ルアンはでき得る限りさりげなーく、『マルグリットの夏の園』へと足を踏み入れた。本人は夢にも知らないうちに、某所の窓に集った人々の関心を引きながら。



*****



 さて、その時。

 グネギヴィットはどうしていたかといえば、『マルグリットの夏の園』の涼しい四阿あずまやの長椅子に、ザボージュと並んで腰掛けて、お茶談義の最中であった。この城の執事はお茶を淹れるのが実に上手いと――、舌の肥えたザボージュに、爺やの妙技を褒められてグネギヴィットは鼻高々、ではあるのだが、ソリアートンの淹れるお茶で無いと、ザボージュは満足してくれなくなってしまい、同時に少々面倒でもある。


 今もまた、ソリアートンを捕まえる手間が増す分だけ、お遣いにやったマリカの戻りは遅くなってしまうだろう。ザボージュがソリアートンの職人技に感嘆しているのは本当だろうが、執事の淹れるお茶が飲みたいというわがままは、その為の口実かとも勘繰ってしまう。


 マリカほどぴりぴりとしないようにはしていたが、ザボージュに対してグネギヴィット本人も警戒心を強めていた。じんましん云々はひとまず横に置いておくとしても、ルアンを心に住まわせたままの自分には、ザボージュにこれ以上先に進まれるのは無理だという、限界をひしひしと感じていた。


 信用してグネギヴィットを、毎夜部屋の前まで送らせていたのに――と、シュドレーはそれを損ねたザボージュの振る舞い、そして扉の鍵まで掛けたという悪質さに、著しく腹を立てていた。グネギヴィットももちろん叱られ、ローゼンワートはとばっちりを受け、マリカはマリカでソリアートンにこってりと絞られたらしい。


 さしものザボージュも、笑わぬ目をした笑顔のシュドレーに真綿で首を絞められて、これ以上この叔父の不興を買っては不味いと判断をしたようだ。昨日今日とシュドレーがいる場では、実に好ましい紳士と化していたが、こうしてグネギヴィットと二人きりでいる間も、その態度を継続してくれるという保証はどこにも無い。


 シュドレーは、ひょっとしたら今この時も、物見台からグネギヴィットを見守ってくれているのかもしれないが、屋根によって大きく視界を遮られる、四阿の中の様子は探りにくいだろう。遠くでやきもきとしているくらいなら、一緒にお茶を飲みに来て欲しいものだと思う。


 そんな気持ちを微笑みの下に押し込めて、主に聞き役に回るグネギヴィットを相手に、紅茶はどこ産の茶葉が良いか? 何を入れるのが好きか? 王都の邸でメルグリンデに振る舞われたものも美味しかった――というような話を、機嫌良くしていたザボージュの表情が、ふと曇った。

 不快そうなザボージュの視線の先を追って、グネギヴィットはぎくりと、そこにいた者を二度見してしまった。


 ルアン――!


 見慣れた胡桃色の癖毛頭に、夏の定番である手拭いを撒いて、麻袋を片手にのこのことやってきたルアンは、一体何を思ったか、泉水脇の花壇の前にしゃがみ込み、居心地悪そうに草むしりを始めた。


 どうしてルアンがそこにいるのか――?


 いやもうその、視線が刺さって痛いですよと背中に書いてあるような、ぎくしゃくとした働きぶりからわざとであるとしか思えない。姫向日葵の花の前で物別れをして以来、ずっと庭で気配を感じることすらなかったものだからなおさらに……。ルアン、お前は何のつもりでここに来て、そのまま馬鹿のように居座っているのかと、グネギヴィットは詰問したくて仕方がない。



「グネギヴィット?」

 じっと庭師の姿を見つめたままのグネギヴィットに、ザボージュは不審そうに呼び掛けた。はっとしてグネギヴィットは、軽く頭を振った。

「……注意をして参りましょう。この園から、離れるように」


 そんなことをしているような場合ではないのに……。

 その声が聞きたい。もっと近くで、顔が見たい……。叱るためであるのなら、名を呼んで構わぬものだろうか……? 恋しくて恋しくてたまらなかったルアンに、声を掛ける理由があることに、グネギヴィットの鼓動は忙しなくなる。

 いそいそしさをザボージュに気取られないようにしながら、グネギヴィットは長椅子から腰を浮かしかけた。かけた――で止まってしまったのは、ザボージュに肩を押さえられたからだ。


「その必要はありません」

「ですが……、お目障りにございましょう?」

 ようやく自分を振り返ったグネギヴィットに、ザボージュは困った人だと言いたげな吐息をついた。執務終わりとあって男の姿のグネギヴィットだが、だからこそ醸し出る色香もある。親族や執事は我慢するしかないが、彼女の薫香が届く距離に、自分以外のどんな男も近づけたくは無い。


「確かにそうではありますが、グネギヴィット、わかりませんか? あなたから直接お叱りを受けるとなれば、下々の男にはむしろご褒美でしょう。そんな良い目を見せてやらずとも、あの庭師には別の方法で、己が不徳を知らしめてやれば済むことです」

「それは、どういう――?」

「こういうことです」

 もう片方の肩にも手を掛けられ、傾けた顔を一息に近づけられて、グネギヴィットは咄嗟に顎を引いていた。


「やっ……、ルアン……!」


 触れようとした寸前の、グネギヴィットの唇から漏れ出た小さな悲鳴に、ザボージュは動きを止めた。

「……誰の名前ですか?」

「え……?」

 グネギヴィットの両肩に置かれたザボージュの指先に、強い力が込められる。痛みに眉を顰めながらグネギヴィットが視線を上げると、ザボージュの表情はがらりと変わっていた。


 普段のきらきらとしていながらに、気だるさを漂わせた甘ったるさは微塵もなく、険しく寄せられた眉の下、三白眼となった青灰色の瞳の奥に、肉食獣のような獰猛さが閃いている。

「私の名でも、殿下の御名でもありませんでしたね。一体誰の名前ですか?」

 問い詰められてグネギヴィットはやっと気付いた。直前まで視界に入れていた、庭師の名前を呼んでしまったことに。そうしながら拒んだ自分の態度が、ザボージュを恐ろしく妬ませていることに。


「あ、あなたには、関係がない……! 誰にでも、胸に秘めておきたい想い出の、一つや二つはあるものでしょう?」

 見せてはならない動揺の浮かぶ顔を背けながら、グネギヴィットはザボージュの追及から逃れようとした。しかしそれをザボージュは許してくれない。指の痕が痣となってしまいそうなほど、きつく掴んだままのグネギヴィットの肩を激しく揺さぶる。


「関係がない? まさか――。グネギヴィット、あなたに求愛するに当たって、私は身と共に心も洗って参りました。ですがあなたは、どうやらそうではないご様子だ……。

 人に語れぬような想い出があるのなら、無理にでも消してしまいたい。それが叶わぬというならば、逢瀬の最中に、他の男の名を呼ぶ憎らしいあなたを、いっそ汚してしまいたい」

「ザボージュ! 何をっ……!」


 男のなりをしていてもグネギヴィットには、何ら護身の心得があるわけではない。ただの女の力は、腕力に勝る男の前にあまりにも非力で、重く圧し掛かってきたザボージュに、長椅子の上に易々と組み敷かれてしまう。

 切実に迫る身の危険に、真夏であるにも係らず、グネギヴィットの背筋が凍えた。これまで感じたことのない恐怖に、全身がわななく。


「ああこんなに震えて……、あなたはなんと可愛いのでしょう」

 ザボージュはうっとりと、首を捻ってもがこうとするグネギヴィットの黒髪に鼻先を埋め、その耳を食みじっとりと舐りながら、凶悪な愛の囁きを注ぎ込んだ。


「怖がらなくても大丈夫ですよ、私の愛しい白百合の君。あなたが私のものだという印を、この膚に刻ませて頂きたいだけです。あなたが私以外の男を、夫には選べなくなるように」

「い、嫌――」

「すぐに、嫌でなくして差し上げますよ。白日の下で、男の服を暴いてあなたを女にする……。背徳的で素晴らしい」

「嫌あっ……!」


 拒絶の言葉は煽りにしかならず、剥き出しの首筋に食い付かれる。長椅子にきつく押し付けられながら、肉の柔らかさを確かめるように二の腕を揉まれた。屈辱的に抑え込まれた上での望まぬ行為に、快感ではなく怖気が走る。


 しかも、それを、今。


 きっとルアンに見られてしまっている。それとももう既に、庭師はこの場からすたこらと、逃げ出してしまった後だろうか?

 駄目だ見ないで――! そうじゃない、行かないで――!! 怖さのあまりにおかしくなりかける呼吸を懸命に整えて、グネギヴィットは叫ぶ。


「ルアン!!」


 その声は、一つの単語にしかならなかった。意味を考える余裕も無しに、グネギヴィットはただひたすらにそれだけを繰り返した。

「ルアンルアン、ルアン――!!」

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