12-3

 煌びやかな大広間から漏れ聞こえる円舞曲。隣接する宴会場も、歓談と酒食を楽しむ人々で賑わい、テラスの陰や庭園の茂みでは、俄作りの恋人たちが熱く睦言を交わしている。

 けれども迎賓のための区画から離れてしまえば、長い回廊に明かりは少なく、すれ違う人影もほとんどない。キュべリエールと連れ立ってゆく、ユーディスディランの姿に気付いて臣下の礼をとるのは、それぞれの持ち場を巡回している衛兵ぐらいのものである。


「どこまで行く気だ? キュべリエール」

「何おっしゃっているんです。肖像の間に決まっているでしょうが」

「――は?」

 半歩ほど先を行く、キュべリエールにさも当然といった風に答えられて、ユーディスディランは唖然とした。不審なものを感じてその場に立ち止まる。


「お前こそ何を言っている? 何故このような時分に、私が肖像の間などに足を運ぶ必要がある?」

「――あれ?」

 キュべリエールも困惑しながら足を止めた。首を捻りつつ主君を振り返る。


「『百の瞳が千夜瞬く追想の間』って、肖像の間のことじゃありませんでしたっけ?」

「その通りだが……」

「じゃあやっぱり、合っているじゃあありませんか。私はちゃんとこの耳で聞きましたよ。『汝、白百合の庭の番人か?』って、あのお決まりの問答の最後に、『硝子の鍵は、百の瞳が千夜瞬く追想の間に』って」

「何だって――?」

 まさかの答えに、ユーディスディランは渋い顔をした。『硝子の鍵』とは――、思いがけない単語を耳にしたものである。


「そんなはずはないのだけれどね。私は今日、誰にも、『硝子の鍵』を渡した覚えはない。みだりにばら撒いてもいないことは、キュべリエール、お前が誰より知っているだろう?」

「それはまあ……そうなんですけれどね。過去に『鍵』をお渡しになったお相手は、サリフォール家のグネギヴィット嬢だけでしたっけ?」

「ああ」

「参りましたね……。私としたことがとんだ失態だ。ようやく殿下も、他の姫君に目を向けられる気になられたかと、はりきってご案内しちゃいましたよ」


 天を仰ぐようにしてキュべリエールは額に手をやった。実は国王の仕業であることを、現時点でこの主従はまだ知らない。結果として、確かに失態のようになっているのだが、キュべリエールの対処は近衛騎士として、至極当然のものであるのだ。


 『硝子の鍵』は本来、王宮主催の舞踏会や園遊会の最中に、デレスの王子が気に入りの女性を誘い出すために用いるものである。鍵といっても実際は、形あるものを手渡すのではなく、相手の女性に自分付きの近衛騎士にのみ通じる合言葉を教えるのだ。

 密会の手引きをする近衛騎士――合言葉の中で、『白百合の庭の番人』と称される彼らは、扇に隠して耳打ちされた『硝子の鍵』の在り処まで、まずはその女性を送り届け、それから主君を迎えに上がる寸法になっている。

 誰からの誘いかを確かめるための問答や、場所を示す隠語は、兄弟王子がいる場合や、詩心のある王子ならば一捻りしたりもするのだが、ユーディスディランは必要を覚えず、父祖伝来のものをそのまま使っていた。


「今日に限ってそれはないと思わなかったのか? どこの誰かは知らないが、近衛二番隊の騎士の中から、よりにもよってお前を選んで使い走りにするとはたいした姫君だ」

「いや、それはたまたまなんだと思いますよ。人酔いをなさったとかで、寝椅子で休んでおられる可憐な姫がおいででしてね。これは騎士としては放っておけないと、控え室までお送りしましょうかと申し出たところ、後見の伯母君からくれぐれも宜しくと頼まれまして……。私と二人になったところでその姫君が、もしも、それほど遠くない場所ならば、控え室ではなく『硝子の鍵』の合言葉が示す場所に連れて行って欲しい、と――。まさかそんな状況で、おいたをするような方には見えませんでしたし、それに……」


「それに?」

「何て申しますかね、わざわざ呼び出して口説かれるには、まだちょっとお小さい気がしないでもなかったですけれど、殿下のお好みは実にわかりやすい――、と」

 キュべリエールの言葉に、ユーディスディランは今取り沙汰されている姫君が、一体誰であるのかを敏感に察した。


「肖像の間で待っているのは……、サリフォール公爵家のアレグリット姫か?」

「ご名答です。いやー、殿下が、少女嗜好に走られたわけじゃないってわかって安心しました」

「何だその安心は……」


 咎めながら、ユーディスディランはちらりと思う。昨年の春、グネギヴィットにふられて以降の自分の落ち込みようは、傍目によほどひどかったのだろう。それだけこの側近にも、心配をかけ続けてきたのかもしれないと。


「アレグリット嬢には、麾下の者を一人付き添わせています。伯母君に頼まれた手前もありますから、私がお迎えに行っても構いませんし、懲らしめに放っておけとおっしゃるならば従いましょう。殿下は大広間に戻られますか?」

「いや、急いで戻りたい場所ではないね。それよりも、アレグリットが『硝子の鍵』のことを知っていた訳を確かめておきたい」


 明確な目的を持って、ユーディスディランは肖像の間に改めて向かうことにした。

 問い質すためにというのではなく、失われた恋の残照が眩しくて、つい目を逸らしがちにしてしまう『マイナールの蕾姫』と向き合うには、よい機会でないかと思ったのだ。


「理由なんて簡単です。アレグリット嬢はグネギヴィット嬢の妹御ですからね。麗しの姉君に教わったんだって考えるのが妥当でしょう」

 主君に若干遅れて、キュべリエールも再び歩き出す。身も蓋もないキュべリエールの見解にユーディスディランは首を振った。


「それがありえないから気になるのだよ。私はグネギヴィットとの逢引きに、肖像の間を使った覚えはない。そもそも誰が考えたのか知らないが、『百の瞳が千夜瞬く追想の間』などという隠語からして悪趣味だと思わないか? 恐怖心を増長させるような言葉を吹き込んで、夜の肖像の間のような薄気味悪い場所で、女性を待たせておくのは不憫だろう」


「そりゃあやっぱり、ふんだんな下心をお持ちの方がご考案になったんじゃありませんか? 怯えた女性の方から抱きついてきてもらえたら、そこから先に進みやすいっていうもんです」

 キュべリエールの当意は明快だ。彼の言う通りだとすれば祖先の小ずるさが、ユーディスディランは気に入らない。


「つまらない小細工だ。相手の弱り目につけこまずとも、手を出したければ堂々と出せばいい」

 ユーディスディランらしい正大な物言いに、キュべリエールは思わず吹き出した。


「まあ確かに、小手先の技は必要ありませんよね。殿下ですもんね」

「茶化しているのか?」

「同情してるんですよ。王太子殿下ってだけで、それしか見てないような連中に目の色変えて追っかけまわされて。ほんとお疲れ様です」

 キュべリエールの同情はどうやら本物らしい。ユーディスディランは溜め息を落とした。


「キュべリエール……、わかっているならお前の妹を、真っ先にどうにかしてもらいたい」

「ははっ……、ケリートには重々、言ってやってるんですけどね。殿下は押して押して押しまくった分だけ、どんどん後ずさってしまわれるような方だって。けどまあ、ケリートを近くに置いておけば、残りは全員追っ払ってくれるはずですよ。小煩い虫除けに、貸して差し上げますがいかがです?」

「それで――。そのままケリートルーゼを私の妃に納めてしまおうというのが、アンティフィント家の総意というわけかな?」


 ユーディスディランが導き出したのは、ごく簡単な計算式である。やんわりと主君に非難されながら、けれどキュべリエールは悪びれる風もない。


「ばれましたか。万年二番手のアンティフィント家が、州公筆頭のサリフォール家を出し抜いて、国王の外戚になれるかもしれない千載一遇の機会ですからねえ。おだてられてケリートは張り切っていますし、親父殿も兄貴殿も、王后陛下のご機嫌取りと、周囲への根回しに余念がありません。私にも、何としてもケリートを殿下に売り込めって、喧しいのなんの」


 あっけらかんと笑いながら、キュべリエールはそう白状した。主君の妹に対する苦手意識を承知しているので、悪あがきもなくさばさばとしたものである。


「ケリートルーゼには人を集め、従わせるだけの華がある。私との年の釣り合いもまずまずだ。何よりアンティフィント公の一人娘を、私の妃候補者から、母上が漏らしてしまうことは十中八九ないと思うね。だが、心が一切伴わない、損得だけの結婚をしたところで、結局はケリートルーゼにも不幸だろうに……」


 裏表を見せないキュべリエールを信用して、ユーディスディランも本音を語った。

 自己愛の強いケリートルーゼを愛せるとは思えず、王太子の身の上ではわがままなのかもしれないが、 夫婦仲が冷え切ること確実な、政略のみの結婚は避けたかった。


「まあ、愛されて当然だと考えていますからねえ、たとえ殿下でも、自分になびいてくれない男というのは、ケリートには許し難いでしょう。我が妹にも至らないところはあると思いますが、だいたい女ってもんに対して、殿下は理想を持ち過ぎなんです。

 そうだ殿下、今日グネギヴィット嬢に激しく幻滅したでしょう? っていいますかね、手酷く裏切られたようなお気持ちになったんじゃありませんか? くそー、ずっと騙されていたのかーって」


 主君との関係に、キュべリエールは遠慮の二文字を持ち込まない。複雑な胸の内にずばりと切り込まれて、ユーディスディランは鼻白んだ。


「……何故わかった?」

「そりゃあまあ、短くない付き合いですからねえ。ついでに言えば、まんま私の感想でもあります。

 グネギヴィット嬢はただ綺麗で、ちょっとばかり頭が切れるだけのお人じゃない。狸の巣窟といわれるサリフォール家で、一門や人臣の上に立てるよう、男並みの教育を受けて育ったような女性です。優雅に引いた裳裾の下に、どでかいしっぽを隠しておられるっていうのはわかっていたつもりでしたけど、あの色男ぶりには参りました。もう嬢なんて可愛く呼ぶような気にゃあなれません。サリフォール公は男の敵です」


 今宵のグネギヴィットを男の敵と認定したのは、何もキュべリエールに限らず、といったところだろう。

 男装の女公爵から受けた衝撃と戸惑いが、最も大きかったのは青年たちであり、さらには少女たちからの熱狂的な支持を見せつけられてしまっては、憧れの貴婦人を一人失ってしまった悲しみも込めて、強力な恋敵のようにみなしてしまうのは仕方がない。


「サリフォール公か……。州政を人任せにはしていないようだし、名実ともに今のグネギヴィットは、【北】エトワ州公サリフォール女公爵なのだろう。『マイナールの白百合』と呼ばれていたあの人とは、すっかりと別人のようだ」

「そうですね、一緒に我々まで、まんまとしてやられた感がありますけれど――。もしも、殿下の夢想を粉々に打ち砕くことが目的なら、公の目論見は大成功だ」

「……」


「ま、男装でお越しになろうと決められたのは、それだけの理由じゃあないのかもしれませんけれどね。殿下をふったけじめを付けるに、あそこまでやってくれたんだとしたら、悔しいぐらいにいい女ですよねえサリフォール公は。思い出は思い出として、片付けられる決心がつかれたなら、殿下もいい男になっておあげませんと」

「……そうだね」


 憎しみ合って、別れた人ではないから幸福を願う。二人の道は違えられ、男と女に戻ることはできなくても、かつて誰より愛した人を、大切に想う気持ちは消えていない。ユーディスディランの中にも、そしておそらくは、グネギヴィットの中にも――。


「ケリートが駄目。他の美女たちにも一向にそそられないというのなら、いっそ若葉の姫君に目を向けられてはいかがです?」

 目前に、肖像の間が迫っていた。キュべリエールの先ほどとは遠く矛盾した意見に、ユーディスディランは苦笑する。


「キュべリエール、お前は私が少女嗜好に走ったのではなくて、安心をしたのではなかったのかな?」

「そりゃあ、十四、五の子供を寝台の中に引き込んで、今すぐどうこうしたいっておっしゃるような主君は御免です。けど、相手の姫君のお年によっては、婚約が調ったからって、即ご成婚ってことにはならないでしょう? 数年後の成長を楽しみに、愛情と信頼を育みながら、見守ってゆかれるというのであれば大賛成ですね。若葉の姫には、完成されていない良さがあるって思いませんか? 手間暇をかけて慈しんでゆけば、いつか自分の色に染まってくれそうな――」


 ぎいと重い音をたてて、キュべリエールは主君のために肖像の間の扉を開いた。室内に足を踏み入れたユーディスディランを、夜目にも白いドレス姿の蕾姫が、驚いた顔つきで振り返った。

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