番外編

公爵様の旦那様

 今朝起きた時、ルアンは、今日という日が、自分とグネギヴィットの晴れの門出の日になるだなんて、夢にも思っていなかった。

 そんな状態なので、今夜からお床はこちらですよとマリカに案内された先が、非常に気後れする場所であるのもまた、あまりにも唐突な話である。



「ああやっぱり……、公爵様の寝室だ……」

「当り前だろう。やつれた顔をして、どうした?」

「いえ、ここへ来るまで会う人会う人に、頑張れ頑張れと言われ通しだったもんで……」

 日中にささやかな結婚式を取り行い、今宵が二人の初夜であることは、城中の人間に知れ渡ってしまっている。


 城主であるグネギヴィットを掴まえて、揶揄するような不届き者はいるはずもないが、下っ端庭師のルアンに対しては、誰も彼も遠慮がない。あからさまなからかいと卑猥に過ぎる助言と、異様なまでの声援をたっぷりと受けて、かえってルアンは『頑張る』気持ちをがんがんと削がれてしまっていた。

 湯上りのグネギヴィットは、薄い寝衣姿で寝台にいて。自分もまた似たり寄ったりの格好で。よい匂いのする、微妙な明るさの部屋に二人きりにされて――。状況は整い過ぎるほど整っていると思うのだが、とても今すぐは、そんな気分になれそうもない。


「何をそんなに激励されてきたかは知らないけれど、別段に無理をおしてまで頑張るようなことでもないだろう? 疲れているなら今日のところは、ほどほどで休んでしまいなさい」

「あ、じゃあ、そっちの長椅子をお借りして――」

「それは駄目。隣で寝て」

「……お邪魔します……」


 突っ立っていても仕方がないので、ぼそりと一言断わると、ルアンはグネギヴィットの寝台に近付いてもぞもぞと潜り込んだ。グネギヴィットは手にしていた綴りをぱたんと閉じた。

「お仕事なさってたんですか?」

「うん。ルアンを待っている間、何だか落ち着かなくて。……全然捗らなかったけれど」


 書類の綴りを脇机に置いて、グネギヴィットは洋灯ランプの灯りを消して、寝具の中に身を沈めた。広い寝台の端と端。二人の間には、もう一人二人は休めそうな空間がある。

 空気を揺るがすほどに鼓動は高鳴り、くっきりと意識は覚めきってしまっている。すんなりと眠りに落ちられるはずはなく、暗闇に慣れ始めた目で、二人は相手が作る黒い小山の顔の辺りを見つめ合った。沈黙が怖くなり、破ったのはグネギヴィットだ。


「手を、繋いでも、いい……?」

 お願いをする声が微かに震え僅かに掠れた。もうしばらく待ってみようかとも思ったが、ルアンはここまできていてもやはり消極的で、グネギヴィットから切り出してやらないと、化粧を落とした素肌には、なかなか触れてくれない気がした。


「……どうぞ」

 身体の距離はそのままに、互いに向かって伸ばした指先が、寝具の中で巡り会う。重ねた手と手を握り合うと、それだけで満ち足りた気分だった。



「ルアン」

「何ですか?」

「うん、何だかとても、幸せだな、って。わたくしの心は、とうにお前のものだけれど、わたくしはもうすぐ、身もお前の妻になれるんだな」

 受動的にその時を待つグネギヴィットが、心構えをしてしまっている一方で、能動的に動かねばならないルアンの方が躊躇する。


「本当に、いいんですか? 夫婦は同じ床で寝るもんだってわかっちゃいますけど、何ていうかこう、段階ってもんが全然なくて、いきなりすぎやしませんか?」

 ルアンが気になって気になって仕方が無いのがそこだ。初夜まで含めて『結婚』の儀式だと理解はしているが、衝撃的な逆求婚をされたことも記憶に新しく、その日のうちに同衾までしているとか……。冷静にならずとも、心配になる進度である。


「いいも何も、サリフォール家の世子を設けるため、というのを前面に押し出して、どうにかこうにか許してもらった結婚なのだぞ。お前がちゃんと……、ええと、だから、そういう意味で、わたくしを妻にしてくれないと、わたくしたちは一緒におれない。それに逢引きならば、お前はわたくしと、何十回としてきただろう?」


「そう……、いえなくもないんですかね?」

「うん。ルアンとする『気晴らし』が楽しかったのも、しばらく会えないってなった時に次の約束が待ち遠しかったのも、好きな人との逢引きだったからなんだって今ではわかる。恋人期間は引き離されて、婚約期間は皆無だったけれど、そう考えたら、わたくしたちはそれなりに時間をかけて、お付き合いをしてきたんだって気持ちにならない?」


 なかなか、説得力のある小理屈だ。ルアンは想いを隠していたし、グネギヴィットは無自覚だったが、『気晴らし』と称した密会を重ねる中で、いつのまにやら自分たちは両想いになっていたわけで……。


「いやなんか、人目を忍ぶ恋人っぽいというか、変な約束をさせられちまったなーとは、実は最初の頃思ってました」

「そうなの?」

「はい。自分が本気で公爵様を好いちまって、その上公爵様から好いてもらえるようになるなんて、そん時には、まさかもいいとこでしたけど」


 グネギヴィットと会うことが、会えることが、言葉にできない片恋をしてきた間、ルアンにとっては喜びだった。こうして話すことは歓びであり、触れることは、悦びだ。


 幾分緊張がほぐれてくると、若さ溢れるルアンの体内で、『頑張る』気力がむくむくと頭をもたげてきた。グネギヴィットと繋ぐ手に、ルアンは思い切って力を込めた。

「そっちに行って、いいですか?」

「いいよ。来て……」

 表情の読めない夜陰の中、差し伸べられた白い腕と、艶を帯びた返答がルアンを誘った。



*****



 今日から暦は秋だというのに、【北】エトワ州城の新婚夫婦の寝室だけは、昨夜は季節を逆行したかのような真夏夜だった。

 これまでよりも夫一人分、狭くなった寝台で、グネギヴィットが息苦しさに目覚めると、ルアンに鼻をつままれていた。


「お早うございます」

「……お早う、もう、朝なの……?」

「朝ですよ」

 傍らで休むグネギヴィットの寝顔を、腹ばいの体勢で頬づえをつき、覗き込んでいたルアンは、寝惚け眼をしたグネギヴィットと目が合うと、くすぐったそうに笑った。


「俺としちゃあ、起こすに忍びなかったんですけれど、マリカさんが起こして欲しいって」

「まるで気づかなかった、マリカが来たのか……?」

「はい、公爵様と俺の為に、風呂の準備をしてありますからって扉の外から」

 熟睡中のグネギヴィットの代わりにルアンが答えると、やけに朗らかな調子でそう言われた。昨日は『頑張れ』と送り出されたルアンだが、今日は一日何とからかわれるのだろうか? 寝室を出た瞬間から、意味ありげな含み笑いで出迎えられてしまいそうで、どうにもこうにも気恥しい。


「そう……。それにしてもね、もう少し別の起こし方というのがあるだろう? 何というか、もっとずっと新婚らしいのが」

「いやだけど、こそばゆくありませんか? そういうのは」

「まあ、ね……」

 朝の光の下に晒された、ルアンの野性的な肩の稜線から目を逸らしながら、グネギヴィットは自らの裸身を寝具でくるみ込んだ。昨夜のうちに身体の隅々までをも知られているのだとわかっていても――、否、だからこそ、その記憶が火照るようで、見られているのが恥ずかしい。


「ところでその、お身体は平気ですか? ええとあの、痛みとかあったりは」

「うん、平気。痛いのは痛かったけれど、ルアンはずっと気遣ってくれていたから、だから――」

 嬉しかった、と、グネギヴィットは、はにかみながら唇を綻ばせた。


 初めての二人による共同作業であり、正直、上手にできました、と胸を張れる、甘美なばかりの初夜ではなかったとルアンは思う。けれど何度も互いを抱き締め合い、たくさんの口付けを交わして、ようやく結ばれた達成感は素晴らしかった。肉体的な快感を得るよりも何よりも、愛する人と一つになれた歓喜に震えたのはルアンも同様だ。



「公爵様」

 その色気のないルアンの呼びかけに、グネギヴィットはつんと拗ねる。

「駄目、今すぐその呼び方は改めなさい。ちゃんと呼んで。ガヴィ、と」

「――ガヴィ……」

 すると今度は、宝物のようにそう呼ばれた。グネギヴィットの黒い瞳が蜜のように蕩ける。

「なあに?」


 鮮やかに染まるグネギヴィットの頬を、ルアンは両手で包み込んだ。触れた個所から愛しさが満ち満ちてゆく。触れられた個所から幸福感が沁み渡ってゆく……。

「ずっと言わなきゃって思ってて……、だけど、何だかんだで言いそびれてきた言葉があります。聞いてもらえますか?」

「うん」


 頷くグネギヴィットにこつんと額を寄せて、かしこまってルアンは告げた。愛しています――と。


「……遅いぞ」

「申し訳ありません」

 詫びるように合わせられた唇は優しく、受け入れた口付けは求め合い深くなる。息苦しさに唇を離して、二人照れながら微笑を交わした。けれどもじきに、互いの熱が恋しくなる。

 固く掻き抱かれた耳元で、ルアンの胡桃色の癖毛に指先を埋めながら、グネギヴィットは熱に浮かされるまま囁いた。


「わたくしもお前を、愛しているよ。末永くどうぞよろしくね、旦那様……」





 【番外編完結】

  作品はここまでです。最後までご読了ありがとうございました。

  関連作品に「緑指の魔女」「王女殿下の不機嫌日」がございます。

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黒衣の女公爵 桐央琴巳 @kiriokotomi

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