8-2
雪曇りの空の下、厚く雪化粧を施された州都マイナールの市街に、時計塔の鐘の音が正午を知らせて荘厳に響き渡った。
その余韻を引き継ぐようにして、式典の開始を告げる
「準備はよろしいですか?」
「ああ」
グネギヴィットは短く答え、差し伸べられたローゼンワートの手のひらに指先を重ねた。それが以前は、いつになく畏まった顔つきの、兄の手であったことをふと懐かしく思い出す。
一昨年は、シモンリールと肩を並べて、州民に慕われる兄を誇らしく見上げていた。
昨年は、特別な招待を受け、国王夫妻と共に王宮のバルコニーに立つユーディスディランの背中を、心躍らせながら見つめていた。
今年は、グネギヴィットの視線の先に、敬愛を捧ぐ人は誰もいない。エトワ州城の前庭に集った民衆は、白い息を凝らしながら、グネギヴィットその人の登場を待っている――。
グネギヴィットはローゼンワートに付き添われて、大理石の床の上をしずしずと歩いた。
襟の詰まった黒いドレスの上に、黒狐の毛皮で裏打ちをした黒いケープを打ち掛け、暗紫色の花をつけたオルディンタリジンを一枝携えて。
アレグリットの意見を容れて、どのような表情であれ包み隠してしまわぬようにと、黒いヴェールは顔の前から除けて髪だけを覆う形に直させていた。
代替わりをした翌年の年始顔見世で、州公が喪服を纏っているのは通例のことだ。長身のグネギヴィットには黒がよく映えたが、予定外の経緯で家督を継いだ女公爵が、兄のみならず恋の喪にも服しているのは万人が知るところである。
人々の記憶にあるよりも痩せた身体に、祝賀にはそぐわない黒衣は感傷を誘って、あがりかけた歓声は行き場を失くして尻すぼまりにやんでいった。
「それではこれより、ご挨拶を――」
群衆がしんと静まり返る中、バルコニーの先端にグネギヴィットを送り届けると、ローゼンワートは励ますように囁きかけて数歩後ろへと退いた。
振り向かない。
俯かない。
州民たちの注目を一身に集めながら、グネギヴィットは凛乎として背筋を伸ばす。
椿の枝をきつく握り締めていると、心に住むシモンリールの面影が、道を示すようにしてグネギヴィットの意気地を奮い立たせてくれる。そしてもう一人、この花の咲く庭で出会った庭師の温情が、見えざる手となりそっと背中を押してくれた。
「親愛なる民に、新年の寿ぎを。みなにとって、幸多く実りある年になるように――」
グネギヴィットは人々の顔を確かめるようにぐるりと見渡すと、ゆったりと口上を述べ嫣然と微笑んだ。そうしておもむろにもたげた手を、耳の横で緩やかに振る。
この一年の来し方が、辛くなかったといえば嘘になる。けれどもグネギヴィットの心の内に、あの日あの時の選択を誤ったのではないかという悔恨はなかった。前庭にひしめいて、一心にこちらを見上げてくれる群衆の向こうには、失われた過去への哀惜ではなく、光差し初める未来への始まりが見えるような気がした。
逆境を越えたグネギヴィットの顔つきには、女だてらにという侮りを寄せ付けぬ逞しさと、それでもなお艶やかに陰翳を増した美しさがあった。
すっくりと佇む黒衣の女公爵を包むようにして、われんばかりの拍手喝采が巻き起こった。
*****
ローゼンワートに促されて、グネギヴィットが室内に引いてからも、民衆の興奮はなかなかに冷めやらなかった。老若男女を問わぬ人々がグネギヴィットの名を呼び、『マイナールの白百合』と称えて、万歳と叫ぶ声が今もなお聞こえてくる。
驚くほど熱く好意的に迎えられて、グネギヴィットの気分もまた高揚したままであった。浮ついた心をどうにかして鎮めようと、控室から見守ってくれていたアレグリットを招き寄せ、押し潰すような強さでぎゅうと抱擁する。
「ああっ……、素敵でしたわね、お姉様。わたくしも一緒にどきどきとしてしまいましたっ!」
アレグリットは色白の頬を紅潮させて、黒曜石の瞳を感じ入ったように煌かせていた。答えるグネギヴィットの唇も自ずと綻ぶ。
「そうだね――」
州民から貰ったものはとてつもなく大きかった。方々から打ち寄せる、うねりのような歓声に身を浸される心地よさは、グネギヴィットの背中をじんじんと痺れさせていた。
「ソリアートン」
身体には熱を残しながらも、幾分平常心を取り戻したグネギヴィットは、アレグリットをそっと放してソリアートンを呼び付けた。周囲がいくら騒がしくとも、老練な執事は主人の命を聞き逃すことはなく、グネギヴィットの間近へすかさずやってくる。
「何でございましょうか? お嬢様」
「ソリアートン、庭師長を呼びなさい」
黒い瞳に、艶めかしい
「グネギヴィット様、生憎ではありますが、この場に庭師長を召しておられるような猶予はございません。マイナール市教会での礼拝の時間が迫っておりますので、これより速やかに発って頂きませんと」
「そうですよ。マイナール市教会の正牧師殿は厳格な方ですからね。あなたがもしも遅刻をなさったら、ありがたいお小言が付加されて、お説教が殊更に長くなること請け合いです。一門の煩型の方々に、後からちくちくと皮肉られるのはお嫌でしょう」
ソリアートンの肩の向こうから、ローゼンワートも口を挟んだ。
マイナール市教会は、その名の通りマイナール市内にある教会で、サリフォール公爵家の菩提所である。
普段の祈りは州城内の礼拝堂で済ませるのだが、特別な日には一門総出でマイナール市教会へと赴き、寄進をして礼拝に参列するのがしきたりとなっていた。
サリフォール家の当主であるグネギヴィットは一門の者たちに、そしてまたエトワ州公として州民たちにも、正しく秩序を守らせる為、国教会の模範的な信徒であることを率先して示さねばならない。
「今すぐでなくていい。礼拝を終えて、城へ戻ってからで構わないから……。ソリアートン、ほんの僅かな隙間すら作れないの?」
けれどもグネギヴィットには、庭師長の口から直接に、どうしても確かめておきたいことがあった。急き立てたくなる気持ちを抑えこみ、譲歩して食い下がった。
「左様でございますね……」
グネギヴィットの懸命さにソリアートンは折れた。もとより、主人の意を得るのは彼の喜びでもある。
「然らば、晩餐会前のお召し替えの後に、時間を取れるよう調整を致しましょう。庭師長にはお嬢様の居室まで向かわせることになりますが、問題はございませんか?」
「それでいい。庭師長には椿の礼を言いたいのだと伝えて。花は全てわたくしの寝室へ運び飾らせておくように」
「畏まりました」
グネギヴィットから差し出されたオルディンタリジンの枝を、ソリアートンは命令と共に恭しく受け取った。
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