山羊飼いの敵は剣闘士
須能 雪羽
第1話:遊牧民の少年(1)
草の間に間に、赤土が目立つ。そろそろ移動の頃合いかな、とウミドは視線を高くした。
視界の半分を塞ぐような山。左右へ両腕を広げるかの峰々を、ウミドや仲間たちはスベグと呼んだ。また同じく、自分たちを。
高いところの草地が青々としていた。山羊を追うのに、という言い分の細枝で空を掻き混ぜる。
スベグの山々を除けば、およそ地平線に囲まれるこの土地で、実際に用立てた記憶はないが。
赤土と同じ色の頬を、温く乾いた風が撫でる。強く弱くはあっても、止むことのない風が夏草の香を運ぶ。
百を超える山羊の毛が、仲間はずれなしに靡く。ウミドが頭から衣服として被る、裾のすり切れた一枚の布も。
「なんでお前だけ黒いんだ?」
炭で染めたような、漆黒の山羊に問う。二、三年前に産まれた仔で、十一歳のウミドも取り上げたさまを覚えている。
答えがあったことはない。自分の髪色と同じだからだろうが、なぜ問うかはウミド自身にも分からなかった。
でも明日、あるいは明後日。それとも次の草地へ移ったあと。
いつかは分からないが、いつでも。また同じように語りかけるだろう。黒毛を撫でて整えながら、ウミドは笑った。
陽が中天を過ぎ、大人の男たちは一斉に馬へ乗り始めた。ウミドには、やはりという光景。移動のために山羊の数を減らすのだ。
ウミドより年少の子らが、地面に線を描く。長い直線を一本と、寝転ぶにも狭い円が直線の真ん中へ一つ。
山羊の胃袋で拵えた水入れを片手、男たちは誰が一番かと賭けを始めた。
水入れの中身は乳酒だが、酔って「俺が一番に決まってる」と叫ぶ者。酔ってなお「カシムに決まってる」と、ウミドの父の名を呟く者に分かれる。
馬に乗れなくなった年長の男が、最初の山羊を連れる。百歩も先の山羊を睨みつつ、男らは子供たちの引いた線に馬首を揃えた。
手を空けた順に、女たちも見物に集まった。天空には巨大な鷲が舞い、合図とばかり低く呻く。
年長の男が、山羊の角を静かに放す。どっと地面が揺れ、円の左右から十数頭ずつの馬が翔く。
山羊は動かない。後背はどこまでも続く平原で、多少は生きる時間を稼げように。
なぜなのか、ウミドも問うたことがある。すると父はこう答えた。
「怯えちまって動けないのさ。逃げようか、どこかへ隠れようか、一遍に考えすぎなのかもな。人間でも、ああなったらお終いだ」
あと十数歩にまで迫り、ようやく山羊は跳ね始めた。あちらへこちらへ忙しくするものの、遠く離れることはしない。
もう、まばたきの間に先頭の男の手が伸びる。
山羊は宙で身を捩り、死神の指を躱した。二人目の死神は角に触れたものの、弾かれる。
三人目。ウミドの父、カシムはしかと握った。片手に手綱を握ったまま、もう一方の腕で肩の高さまで吊り上げた。
父の馬は弧を描き、戻る方向へ速度を上げた。除く男たちも速やかに追う。
真っ正直に山羊へ手を伸ばす男は、空振りで体勢を崩した。落馬していく反対から、速度を合わせてカシムに並ぶ者が。
殴る蹴るをしてはならない。けれども引き摺り落とすことは許された。手綱を持つほうの肩を揺さぶられ、カシムの手から山羊が離れる。
地面へ叩きつけられ、倒れた山羊が一度は立ち上がった。しかし膝でない箇所が折れ曲がり、再び倒れる。
また、ぐるり回って戻った死神たちが一点を目指す。伏した山羊に、馬上からでは届かぬ手を伸ばして。
カシムを揺すった男が、草編みの鞍から尻を落とした。足を固定する馬具などなく、馬体を挟む脚力と手綱だけを支えに、指先を地面すれすれへ近づけた。
男の先を駆ける者はない。この遊戯の勝利を、男は確信しただろう。
だが、男の後方から猛然と近づく姿はあった。
利き手で手綱を握ったカシムは、馬体の左へ身を投げる。地面を撫でられる高さで、山羊の後ろ脚を握った。
角を掴んだ男とほぼ同時、力を合わすように山羊を持ち上げる。
しかしそのまま仲良く勝利という場面を、少なくともウミドは見たことがない。
男と父、双方が咆える。
汗が弾け、男の手から角が抜けた。十数人の騎馬を引き連れ、父が駆ける。高らかに掲げた山羊を、小さな円に
ウミドを先頭、子供たちが歓声を上げる。すぐに観客側の大人たちも。やや遅れ、参加した男らも。
カシム。カシム。十数度、父の名が叫ばれた。
馬の脚を緩めた父に、ウミドは駆け寄る。さっと飛び降り、肩を抱き寄せられた。
讃えるのも待たず、父の駆った馬を別の男が奪う。勝利した者は遊戯から外れるきまりだ。
まだ遊戯は続く。次に連れられた山羊が黒いことに、ウミドが頬を引き攣らせても。
──夜。夏を目の前にしても、住み家たる天幕の内へ火はかかせなかった。
灯りであり、煮炊きに使い、外を吹く冷気に負けぬよう。
平原のどこにでも勝手に生える、野生の麦の粥。いつもは大ネズミのところ、山羊の臓物が入った煮込み。
哀しいことに、ひどくうまい。食いでのないネズミとは比べるまでもなくご馳走だった。
「可愛がってたのか、あの黒毛」
ウミドが椀を空にすると同時、とっくに食べ終わっていた父が問う。
コトコトと、母の手鍋に乳酒が香る。
「黒毛?」
「知ってりゃあな。次へ行くまで待っても良かったと思うが」
とぼけるふりをしたが、父はウミドの表情を見てもいなかった。
逆さに呷った椀を、父は母へ突き出す。すぐさま、白濁した滝が細く速やかに注ぐ。
「ものにはなんでも
「そう言うなら、余計は言わんが」
口癖を真似ると父は自嘲気味に笑い、乳酒の並々とした椀をウミドに持たせた。
底冷えのする冬などは飲むこともあったが、暖かい時期には飲んだことがない。ウミドの舌には乳酒より、ただの乳のほうが百倍もうまいのだ。
「特別なことはないよ。ときどき、あいつのほうから寄ってきて、天気の話なんかしてたってだけで」
生殖に必要なだけの雄、乳を出す雌。そうでない山羊は肉として食う。あの黒山羊は、雄として長く生かされたほうだった。
今日は血抜きを施し、明日じゅうに煙で燻される。明日の遊戯で屠られた山羊は、明後日。
そうやって保存食を蓄え、日照りや冬を乗り切ってきた。ウミドもよく知るからこそ、声の震えることもない。
「雨はまだ先だな」
「──明日、オレも馬に乗っていいんだよね?」
骨をしゃぶる父に問い、答えの前に乳酒へ口をつけた。妙に甘い舌触りの奥、酒気が喉を刺す。
どうにか堪え、半分で息を継いだ。
「毎度のことだ。手加減はないからな」
「当たり前だよ」
草地を移る都度に行われる
しかし黙って、乳酒の残りを飲み干した。
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