第82話:遊牧民の牙(8)

 * * *


 待つ、という行為がどれほど苦しいものか。僅かなりと、ウミドも知ったつもりではいた。

 それは父の戻りを待つ一夜。

 強大すぎる仇に肩を並べようとした六年余。


 けれど岩屋で待った二ヶ月ほどは、また異なるものだった。

 レオニスの無事が、完全に保証されたわけでない。待ちさえすれば、あのバカな男が解放されるのでもない。

 時が来れば、救出のために命を賭けねばならない。ウミドだけでなく、アリサもリーディアも。アテツたち、レオニスの家族も。


 ──オレの考えたとおりにいかなかったら。

 その不安を押し殺す時間であったかもしれない。同じ荷車に揺れる二人の女を交互に眺め、やはりレオナードで待っていないかと喉まで上がったままの言葉を押さえ込む。


 そうして、町から一日と半分を行ったころ。切り立った谷へ差し掛かった。

 轟々と激しい流れの音が遠く聴こえる。荷台の端から見下ろしても、川の姿を見ること叶わない。

 自身で覚悟を決めて飛び込むのも考えたくないが、そのあとを追うなどと真似ができるだろうか。


 胸の前へ両手を組み、天を仰ぐ隻眼の女。リーディアには、生きたレオニスが必要なのだ。

 だから、と言ってはおかしな話になるが。ウミドはアリサを呼ぶ。


「なあ。オレはアリサに、なんて言えばいい?」

「ええ? 唐突に、なんの話」

「もし、ただ死にに行くつもりなら、レオナードへ追い返す。でも、そうじゃないはずだ」


 アリサが死ぬのは嫌だ。

 言って止めたい気持ちは、ウミド自身にも計り知れない。だがそんなことで止められては、この先を生きる方法がなくなる。

 人にはそんな思いが存在し得ると知っていた。


「ああ、そういう」


 ふっと小さく、アリサは噴きだす。

 荷車の後ろの隅にもたれ、置き去りにされた景色を見ている時間が多く思える。


「言ったよね、仕返しか八つ当たりだって。あんたに気にしてもらうような目的なんか──」

「分かった。仕返ししなきゃいけない奴がいるんだな」


 アリサが自分を卑下するのは聞きたくなかった。声を遮ったのはそれだけでなく、「うん、まあ」と頷く彼女に伝えることがあったからだ。


「アリサにやりたいことがあるんなら、邪魔はしない。手伝えることがあったら言ってくれ」

「あはは。そう、ありがと」


 なにをどうしたいかと問い質しはしない。応じたアリサは声を上げて笑い、また後ろの景色へ顔を向けた。


「あと、どうしても難しかったら言え。アリサの残したもやもやは、オレがどうにかしてやる」

「どうにか?」


 問い返されたとき、ウミドはアリサを見てはなかった。ナイフを抜き、高い陽に切っ先を突きつけていた。


「もしかしたら、頼むかも」

「任せろ」


 荷車は進む。雨や雪、賊に襲われることもなくスタロスタロまで。

 途中なにか変わったことがあるとするなら、アリサの座る位置が後ろの隅でなくなった。荷台のおよそ真ん中、ウミドの座る対面になった。


「皇帝領の炭だと?」

「ええ、そうです。聞けば闘技場では、灯りも暖も薪が多いとか。炭はちょいと値が張りますがね、長持ちしますよ」


 まずスタロスタロへ入るのには、アテツの表向きの仕事を理由にした。傷痕の男スラーンが仕入れたものとして。


「商人のくせに知らんのか? ここで新しい商いなんか、起こせるわけがない」

「ええ、知ってます。ですから、俺が直に売ろうってんじゃない。まずは持参した炭を全部、ただで使ってもらおうって話で」

「これを全部だと?」


 連ねた五つの荷車のうち、三つまで。高く積み上げた木炭で満載にしてある。それを視線で舐めた門兵が、正気を疑う声をしたのは当然だろう。


「ええ。これだけの炭を使ってもらえりゃ、次も仕入れたくなるに決まってるんだ。それをイーゴリの旦那が誰に頼むのでも文句はない。うちの炭売りよりいい木炭なんか、あるわけないんでね」

「なるほど? どうなるかは知らんが、話は分かった。商人会議所へでも持っていってみるんだな」


 ご丁寧にどうもと傷痕の男スラーンの愛想を最後、荷車は動き出す。やりとりを間近に、聞くのみだったウミドは安堵の息を吐いた。

 それでも。しばらく進み、角を二つも折れたころ。ようやく合図があるまで、気配を殺さねばならなかった。


「おい、今ならいいぜ」


 木炭の山の一部を、ウミドは内側から押し出す。纏っていた布から脱皮でもするように、狭い隙間を外へ抜け出た。


「足は治ってるんだろうな」


 何度も言ったはずだが、傷痕の男スラーンの疑いの眼が向く。返答の代わりに、ウミドは荷車から石畳へと飛び降りた。

 じん、と足の全体が響く。痛みというほどでない、つんと辛いものでも食べたような衝撃が脳天を衝く。

 歩けるようにはなったが、まだ完全でない。


「このとおりだ」


 とは強がりだが、多少の不調を今さら言っても詮ない。


「じゃあ。次は十日後だ」


 同じく炭の山へ潜んでいたアリサとリーディアが、それぞれ荷車を降りる。傷痕の男スラーンに一旦の別れを告げ、二人のもとへ歩いた。


 本当は、今にも走り出したい。

 だが闘技場の開催されるのは明日から。レオニスの出番に至っては、十日目だ。

 走るのは今でない。そのときまで、もう少し待たなくては。


「ええと、鍛冶職人さんのところへ?」

「だな」


 話し合いを重ねること、何回を数えたか。もう誰もが諳んじる段取りの、最初の目的地をリーディアが指さす。

 左眼を隠すための付け足した髪のせいで、別人のようだったが。

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