第81話:遊牧民の牙(7)

「……でかい肉だな」


 受け取った木皿から、薄切りの肉を摘み上げる。一枚でウミドの顔の半分ほどもある肉だ。

 鳥でも山羊でもない。口へ入れれば、濃厚な脂の旨味が広がった。甘い味付けも、初めてのものだった。


カバーンだ。この辺りじゃ見ないが、俺の故郷にはいくらでもいる。うまいだろ?」


 幼いころからしてきたこと。そう言われて思い浮かぶのは、毎日の暮らしで食う物がほとんどだった。

 カバーンとやらを見慣れぬために声に出ただけで、問いかけたつもりはない。

 ゆえに、応じた傷痕の男スラーンへ返事をしたかも曖昧だった。気づいて「ああ」と顔を上げれば、怪訝に首を捻られた。


 濃厚な豆のスープも食らい、腹はいっぱいになった。反対になにやら考えていたはずの、朧なあれこれは抜け落ちた気がする。

 結局。そろそろ戻らねば陽が落ちるという頃合いまで、まとまったことは思いつかなかった。


「そう急くな、なにか俺も考えとくからよ。今日や明日がどうこうって話でもねえしな」


 建物を出るときなど、傷痕の男スラーンにも見透かされていた。驚くことではないのだろう、しばらくまともに声も出していない。

 ただ、あせるなとは無理な注文だ。救出の算段が今日でも明日にでも決まれば、それだけ準備の猶予ができる。


 アリサに負われ、入ってきた門へ向かう。

 そういえば帰りにも話を聞くと言った門兵は、まだいるのか。交代でもしていて、自分たちのことなど忘れられていればいい。

 どうにも重い心持ちで、ウミドはそんなことばかりを願う。


「待ちやがれ、この食い逃げ野郎!」


 不意の怒声。遠いが、はっきりと方向の分かるくらいに大きなものだった。

 ウミドらは、ちょうど広場へ差し掛かったところ。怒声のほうへ眼を向けても、行き交う人々で見通せはしない。

 ──いや、人の群れが割れた。


「どけ、どけよ!」

「待てやコラァ!」


 なにがあったのやら、ウミドには分からない。しかし逃げる者の姿は見えた。

 ひょろっと痩せた男が、およそこちらへ走った。誰かとぶつかりそうになるたび、近くの人々は慄いて道を空ける。


「なんだ?」

「食い逃げだ。なにか──ああ、串焼きシャシリクだな。食っておいて、金を払わなかったんだ」


 悪人ということらしい。けれど誰も、取り押さえようとはしなかった。

 逃げる男は、お世辞にも強そうには見えない。ウミドなら、片手で相手をしても負けようがないと思えた。足が動けばだが。


「やれやれ、滅多にないことに出遭うもんだ」


 食い逃げ男が痩せているのは、食う物も食えない事情があるのかもしれない。それなら悪人と言えど、仕方のないこととウミドには思えた。


「いや、毎日のことだ。それ以上かもな」

「毎日?」

「この町は、帝国の中央から南への入り口の一つだ。それだけ人間も多く入ってくる」


 多く人が入れば、悪人の混じる率も高くなる。

 傷痕の男スラーンの解説は分かりやすかったが、ウミドの注意は既に別のところへあった。


「毎日のことなら、なんでみんなこんなに驚く」


 男も女も、若くとも年寄りでも。食い逃げ男の行く先、誰もが立ち止まる。多くは小さく悲鳴を上げ、行き過ぎてから「なんだあの野郎」と毒づく。


「そりゃあ──なんでだろうな。得体の知れんものに触りたくねえとか、そんなところか」


 右往左往しつつ、食い逃げ男はウミドらの脇を走り抜けた。だが追う男と、武装をした兵もすぐに続く。


「今なら面倒なことを問われんで済むかもしれんな」


 とうとう捕らえられた男を振り返り、アテツは呟いた。たしかに男を取り囲む兵の中に、先刻の門兵も見えた。


「いや、それどころじゃない」

「んん?」


 穏便に町を出る方法も、日の暮れることも後回しだ。そう言ったウミドをアテツだけでなく、アリサも「どうしたの」と訝しむ。


「おい傷痕の男スラーン。要る物は揃えるって言ったな」

「あ? ああ、たいていの物ならな」

「大して難しいもんじゃない。でも、たくさんだ」


 ウミドには見えた。レオニスを救うすべ

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