第57話:十七歳の流転(17)

 山羊狩りの遊戯ブズカシのあと、スベグは燻製作りの匂いに包まれる。塩と野生の大蒜や生姜と、作り手の好きな香草を思いつきで加えたりもする。


 懐かしいような、初めて嗅ぐような。今日は誰が燻製の番をしていただろう。

 一人、眠っていたウミドは香りに誘われて寝床を出た。けれどもそのはずが、どこを向いても暗い。真夜中、天幕の中でもこれほどの闇は記憶になかった。


 それでも燻製のところへ行けば誰かいて、火もあるはず。仕方なく手探りで足を踏み出した──途端、支えを失った。

 闇から闇へ落ちていく。足場を振り返ろうにも、どこが天でどちらが地かも分からない。

 生と死の境界を、いつ踏み越えるか。助けを求めるウミドの声は、声にならなかった。


「……っ!」


 顔面と、腹の辺りに強い衝撃があった。反射的に痛いと発したものの、痛みは感じない。

 閉じたまぶたの裏から、血の色が透ける。己を包む暖かさに、そっと眼を開いた。


 板張りの床。四角く組んだ木枠に、草を編んだ敷物。どうやらウミドは、ここから落ちたらしい。

 膝の高さもない木枠を使い、身体を起こそうと思った。が、動かない。

 正確には、手足が動いているかの感覚がない。


 首の動きも鈍い。目玉をだけで視界を動かし、引き摺って動く自身の手を見た。やはり縄で繋いで引っ張るように、実感がなかった。

 およそうつぶせの身体を、横向きにするのもひと苦労。いや、ふた苦労も三苦労もあった。地虫のごとく不様に身体をくねらせ、ようやく。


 石壁に、火を囲うための石組みが見えた。それとは違う壁際のテーブルには、細々した物が散乱しているらしい。見える限り、香草を潰す器のような。


「父ちゃん?」


 言った自分の声を疑う。あまりの事態に、おそるおそるでもう一度。


「母ちゃ──」


 誰の声だ。

 ウミドが発しようとした言葉を、まったく知らぬ声の誰かが言う。

 そんなバカなと思いつつ、そうとしか考えられぬ異様な声。


 ここはどこだ。父は、母は、スベグのみんなは。

 なにも理解できぬ中、扉の開く気配がした。


「おや、床から落ちては痛かろうて」


 スベグでは着ない、町に住む者のような上衣シャツの老人。頭頂を禿げさせた白髪にも見覚えがない。


「ウミド、目が覚めたか」


 レオニス。

 続いて部屋へ入った偉丈夫の名は知っていた。だがスベグの者では、と考えてやっと。記憶が闘技場にまで追いついた。


「目覚めた途端、痛みで狂い死にというのもあるでな。麻痺させる香を焚いておるゆえ、自由が利かんはずだ。追々、効き目を切らしてやるでな、不便は我慢せよ」


 よく分からぬことをぶつぶつと、老人はウミドを抱えようとした。けれども「俺が」と押し退けられ、レオニスに寝床へ戻される。


「分かるか? おい、なんとか言ってくれ」

「声の元も麻痺しておるはずよ。無理を言うな」

「ああ、そうなのか」


 目の前で、眉間に皺のレオニスが手を振る。老人に諭され、すぐにやめたが。


「ここはどこだ」


 求めに応じてやる。自分だけがわけの分からぬ現状が嫌だった。危うく恥をかくところだった。


「ええ、なんて言った? おいブラーチ先生、ウミドが喋ったぞ」

「うむ、強い身体の若者じゃなあ。この間のボル、ボルシチ? ボルなんとかいうのより」


 己の感じるより、まともな声でないようだ。近づけられたレオニスの耳に、精一杯で叫ぶ。


「ああ、ウミドも知ってるだろ。医者だ、医者のブラーチ先生のところだ。あれから二日、ずっと眠ってた」


 困った風に、強く眉間を寄せたまま。レオニスは口もとを綻ばせた。

 どうも生きているらしい。まったく身体の動かぬでは、いまだ夢の中と言われたほうが信じられるけれど。

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