第58話:十七歳の流転(18)
「──ウミドは強かった。ボルムイールとは違う意味でな」
と、振り返っての会話は翌日の昼間になった。そのころには痛みを麻痺させるという香の効き目も薄れ、元通りのウミドの声が自身の耳にも聴こえた。
「負けたことには変わりない」
「ぼやくな。お前が訓練を積んだのと同じだけ、俺も鍛えてた。その前の分もあるのに、ひっくり返されたら俺が悩む」
己の指で頬に触れたのさえ曖昧に感じていた。本当に生きているのか疑わしく思え、なにより思ったところへ持っていくのもままならなかった。
その感覚が戻っていくのには、ほっとした。
しかし同時に、全身どこにも痛みのない箇所のないような苦痛に襲われた。「ちょっと戻すってできないのか」などと恥ずかしげもなく問うたものだ。
「ぼやいてなんか。お前の理屈のとおりだ、オレはいつまで経ってもお前を殺せない。どうすればって思うだけで」
「じきだ。何年かしたら、俺は衰える。そのときウミドは、まだまだ強くなっていくだろう」
そんなことで仇を討ったと言えるのか。
自身の非力さを嘲笑い、とりあえずその疑問は放っておくことにした。
「まだまだ強くないオレは、なんで生きてる」
訊ねたものの、おそらくの答えは知っていた。両脚のそれぞれが、添え木とともに固く縛られている。ひと月前、ボルムイールも受けただろう治療の痕。
「手加減とか言われると面倒なんでな。むしろやり過ぎなくらい、
「ってことにしたんだな」
正しくは、してくれたのだ。
ウミドも、きっとボルムイールも、本気でレオニスを殺すつもりだった。むしろレオニスのほうから、本気になるよう仕向けた。
手加減とか言われると面倒、というのが理由に違いない。
「礼を言ったほうがいいのか?」
「お好きなように」
「じゃあ言わない。生きてても、二度と歩けないんじゃな」
医者のブラーチが、痛みで狂い死にと言ったのがよく分かる。だが腕も胴も、いずれ治れば消える痛み。
痛みが失せても動けぬ男を、スベグではどうするだろう。過去にはあったかもしれないが、ウミドは知らなかった。
山羊を追えず、草の芽を拾うのにも人の手を借りねばならない。そうなれば父へ、「置いていけ」のほかに告げる言葉が見つからなかった。
「お前、これからどうするんだ」
「ん? 晩メシまで、部屋の片付けでもやろうか。俺も人のことは言えんが、ここは散らかりすぎだ」
香草を思わせる匂いは、治療に使う薬草らしい。すり潰す途中のものが、ゆうべ見てから置きっぱなしだ。
収めている様子の大小の壺も、テーブルの上となく下となく。蓋を開けたままのものから、横倒しになったのも部屋のあちこち。
さらにはなんの入れ物か。木箱を積んで拵えた塔も歪んで、一つや二つでない。
「そうじゃない」
「まだ二、三日は、その寝床を使っていいそうだ。でもそのあとは、裏に空いた家がある。そこを借りることにした」
たった今まで、にこやかに話していたのに。レオニスは下手くそなあくびと寝ぼけ顔を作って見せる。
全身あらゆるところが痛むウミドだったが、顔と頭には小さな切り傷しかない。おかげで蔑む表情と舌打ちは存分にできた。
「お前はお前のやることがあるんだろ。なんだか知らないけど、そのために百勝したんだろ」
「まあ、なくはない」
「ならオレなんか──」
命を狙う刺客をいつまで抱えるのか。まして治療だけでなく、日常の世話までするとは。ウミドの知る罵倒の言葉ではまったく足らぬほど愚かだ。
だから、と吐くべき言葉が止められた。声の出ぬように、塞いだと生易しくはなく。正面から口と顎を鷲づかみにされ、動かせなかった。
「気にするな」
優しげな言葉、声。やはり下手くそながらも笑った口もと。
有無を言わせぬとは物理的にだが、その上にレオニスの手はいつまでも緩められない。
まさか応じるまでこのままか。
唯一、視線をだけが脅す者のそれだった。しばらく待ってみたものの、やはり束縛の解かれる気配がない。
仕方なく、動かぬ首に縦方向へ振る力を加えた。
「だろ?」
「なにが『だろ?』だ」
今度は下手でない、レオニスらしい高らかな笑声を聴かされた。
どこにどう腹を立てるのが正解か、よく分からない。だのにウミドは噴き出した。
「ぷははっ。ほんとバカだお前は」
貶して気分を戻そうとしても、笑いが収まらない。どころか勢いを増し、ウミドは笑声と傷との痛みに悶絶する。
「あはははは。い、痛いぃひひひひ」
「喜んでもらえて良かった」
いかにも納得というレオニスの顔に、今までとは違う殺意が生まれた。それでも久しく忘れていた腹の底からの笑いは、あとからあとから湧き上がる。
「一人より二人、二人より三人のほうが楽しいしな」
止まらない。ながらも「三人?」と首は捻った。
ブラーチのこと、ではないはず。すると思い浮かぶのは、闘技場で世話になり続けた女性の顔。
けれどもレオニスが百勝をしても、アリサとは関わりない。考えるうち、腹の痛みも消えていった。
「おぉい、なにか飲み物を」
我が住み家のごとく、レオニスは声を張り上げた。閉じた扉のほうへで、その先の誰かにだ。
返事はなかった。「誰だ?」と問うても、嘘つきのこの男が答えるはずもなかった。
先ほどの痛快な笑いはどこへやら、苛々と扉の開くのを待つ。
「お待たせしました」
小鳥の囀るかに、控えめの声。現れた女を、ウミドも知っている。
「え? お、あの、ありがとう」
薄く湯気の立つ、喉や腹に障らぬ風の飲み物を差し出され、口をぱくぱくとさせた。
痛々しく潰れた左眼と、傷痕だらけの顔。
「り、リーディア?」
アリサと二人。世話役として闘技場へいた、厨房を任された女。彼女独特の唇を横に伸ばすだけの笑みで、彼女は頷く。
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