第59話:十七歳の流転(19)
「……ええと、アリサも?」
冷ます必要のない温かさで、とろっと甘味のある飲み物。横になったままのウミドへ器用に飲ませるリーディアを盗み見た。
いるはずがない。分かっていても、この女だけがここへある理由のほうが辿り着くのに遠かった。ゆえに視線は、彼女の入ってきた扉へ動いてしまう。
「ううん私だけ、ごめんね」
「いるのかと思っただけだ。謝ることない」
「うん、ありがとう。アリサは『元気で』って」
「リーディアに?」
「ウミドに」
それだけか。
続きを待っても、首を傾げたリーディアを見るだけだった。
もう会うこともないだろうに、あっさりしたものだ。ウミドは胸のどこかへ、冷たい風の抜ける気がした。
同時に、最後の数日を思えば仕方ないと納得もする。どうであれ、気にしたところでやり直す機会も二度とない。
「二度と──」
己に言い聞かせようと、そっと繰り返した言葉が重い。
ただここにアリサがいても、一緒に桶へ入ることさえままならない。だからむしろ良かったと、それは声に出さなかった。
「で、リーディアはなんでだ?」
木のカップを、レオニスに手渡す背中へ問う。
まず振り返るリーディアだったが答えず、再びレオニスへ向き直った。
「レオニスさま?」
なにをか、問う中身の補われぬ問いかけ。追いかけてウミドも「さま?」と別のことを問う。
「リーディア。さま、はやめてくれって言ってるだろ。自分が偉くなったと勘違いしたらどうする」
「私はレオニスさまを尊敬しておりますよ?」
最初に話してからずっと変わらぬ、細い声。だがそこに、こればかりは譲らないという固さが加わった。唇を水平に引き伸ばしながら。
「いや、その、うん。気持ちはありがたいんだが、アレだ。恥ずかしいから、な?」
しどろもどろの百人殺しを不思議そうに眺め、しかしリーディアは頷く。
「分かりました。そこまで仰るなら、レオニスと」
「助かる」
満足げに首肯を繰り返し、リーディアは扉へ向かった。なんのやりとりを見せられたやら、ウミドこそ不思議な感覚に襲われる。
「いや、おい」
「なに?」
「だから、なんでリーディアがここにいるかって」
「ああ、そうだった」
呼び止めれば、面倒がることもなく戻った。とぼけてやり過ごそうとしたなら、素晴らしいまでの演技力と言える。結果、失敗ではあるが。
「私はレオニスさ──レオニスの持ち物なので。百勝をしたら、一緒に出してもらえるの。あなたもでしょ?」
「うん、まあ」
ウミドと同じ。そう言われると、リーディアの顔や足の負傷から目を逸らす努力が必要になった。ごまかすためにも「おい」とレオニスを呼ぶ。
「聞いたとおりだ。加えることはないな」
「そうか」
リーディアの故郷も、レオニス率いる者たちに滅ぼされたのか。隣室へ帰る背中を見送るには、同情の気持ちが篭もる。
けれどもそれでは、矛盾のあることに気づいた。彼女の出ていった扉が閉まり、物音も遠ざかるのを待つ。
「オレと同じで、さまっておかしいだろ」
「まあな」
「まあな、じゃ分からん」
「お前の傷が治ったら教えてやる」
本当に面倒な男だ。素直に答えることを知らないのか、と盛大な舌打ちを聞かす。
「なんでだよ。いま言えばいいじゃないか」
「俺の都合じゃなく、リーディアの事情だからな」
「あ……」
それはそうだ。考えなくとも分かるくらい当然のことだった。
羞恥で顔を熱くするより、嫌悪で寒気がする。勢い吐き気をもよおしたウミドの背を、レオニスの手がさする。
「俺も家の中のことはさっぱりだ。二人して世話になることだし、また話すときもくる」
哀しい思いをしたのなら、知って慰めてやりたかった。だがスベグのことを、誰になにを言われようと慰めにならない。
ウミドは答えることをせず、吐き気で苦しむふりをした。
──それから三日。医者のブラーチから「好きに出歩いていいぞ」と許しが出た。つまりはブラーチの家も出ていけということだ。
「出歩けって言われてもな」
二人並んで歩くのでやっとの裏通りを、レオニスの背中へ乗って進む。誰かの嘔吐した跡やら、壊れた食器や小物の散乱する中。
そこはかとなく、風が小便臭い気もする。闘技場へ入って最初に寝起きした部屋より、百倍もましだが。
「ボルムイールもここにいたのか?」
「いや、あいつはまた別のところらしい。詳しくは聞かなかったが」
通りに面して窓の一つもないことを除けば、石作りの家は似たりよったりだ。レオニスが思いきり殴れば割れそうであっても、木製の戸も閉まる。
「それにもう、故郷へ帰ってるだろうしな」
「そりゃあ、そうか」
中へ入れば、乾ききって埃っぽいのを我慢すれば快適と言えた。しかもすぐに水を汲んできたリーディアが、めぼしいところを掃き清める。
家に入った部屋には七、八人でも囲めるテーブルがあった。火を焚くところもあり、やはりリーディアが隣家から火種を都合してくる。
その部屋の奥は左右に二つで仕切られていた。さすがにブラーチの家のごとく、室内にまで扉が据えられてはない。
「ブラーチ先生から布を貰ってきました」
と。これもリーディアが、さっさと目隠しを取り付ける。
木板を敷いただけの寝床に横たわり、ウミドは動き回る女の姿を眺めた。
一つずつの動作はゆっくりだ。しかし片足を引き摺りながら踏み台を使い、手の届く限りは億劫がりも怖がりもしない。
さっそく晩の食事の準備らしい。
井戸に何度も水を汲みに行くのなど、ウミドでも手伝ってやれる。ほんの少しの身動ぎで悶絶させてくれる痛みさえなければ。
そう思って、はっと自身の足を見下ろす。
そのよそで、手伝いを申し出たレオニスが、にべもなく撥ねつけられた。「レオニスさ──レオニスにこんな雑用なんて」と、尊敬の言葉に偽りはないようだけれど。
座ってでもできることはないか。動けるようになったら、リーディアを手伝うことから始めよう。誓ってウミドは、手練れの料理人の働きを楽しんだ。
夕暮れ。天には陽の後ろ髪がかかっていても、建物の詰め込まれた裏通りは夜闇と同然になった。
「申しわけありません。いつもと同じにやっておりましたら、遅くなってしまって」
リーディアが謝るのは、食事のテーブルにランプを使っていること。外が明るいうちに晩の食事を終えられれば、この分のオイルを使わずに済んだと。
「このくらい、無駄遣いでもなんでもない。イーゴリから『莫大な恩賞』も貰ったしな」
イーゴリの口ぶりを真似たのだろう。皮肉めいたレオニスの声に、リーディアは却って身を縮める。
「レオニスさまが命を削って作ったものを。私などが」
「私など、じゃない。俺がここまで闘ってきたのはお前と──」
テーブルの角越し、レオニスは女の手首を握った。なにを言わんとしたか、いくつかの言葉が形にならずに消えていく。
「いや、リーディアのためでもある。すると恩賞はリーディアの物でもあるわけだ」
ふうん、とは胸に思うだけで。ウミドはどろどろに溶けた某かを口へ運んだ。
やはりレオニスの百勝には、リーディアが関わっている。もちろんそれを、不躾に訊くほど愚かではない。
まあいつか、笑って話すようなことがあれば。それより座っているだけでも激痛の増す身体が、どうにかできぬものか。
まだ寝床で食えと言われたのを、無理にテーブルまで運ばせたことを後悔した。
それでもやっと、自力で椀を空にしたころだ。表の戸を、そっと誰かが叩いたのは。
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