第60話:十七歳の流転(20)
手にした匙を置き、まず立とうとしたのはリーディア。その肩をレオニスの手が押さえつける。
「夜は危ない」
代わりに立ち、戸の脇へ。突っかいの棒に触れ
「誰だ」
と問う。
答えがあったのか、ウミドには聴こえなかった。
しかしレオニスは突っかいを外し、戸もひと息で開け放つ。
漆黒を背負い、立つ者は一人。
来訪者は、頭からすっぽりと布をかぶっていた。薄汚れたと言って世辞の過ぎる、汚泥で煮詰めたような斑の。
入れよと招かれたのにも、左右へ二度ずつ首を動かしてから応じる。夜に紛れるには相応しい装いだろう。
長身のレオニスと比べ、頭一つ低い。布がずり落ちぬよう、つかむ手は女のもの。テーブルの脇まで歩む間に、ウミドは正体を看破した。
「アリサ?」
ざっ、と素早く布が払われた。
現れた顔に、ウミドは思わず立ち上がろうとして激痛に襲われた。だがそれでも、よく来てくれたくらいは言いたかった。
伸ばした手が触れるより先、口早なアリサの声に耳を疑う。
「逃げて」
言いつつ、アリサは入ってきた戸を振り返る。また閉じられた向こうを見透かすように睨み、次には気忙しい足取りで部屋の奥へ進んだ。二つの部屋の一方、レオニスとウミドの寝室に「早く」と手を動かした。
「なにがあった」
低めたレオニスの声も
「逃げるのは分かった。なにから逃げるか知ってないと、下手をやらかす」
「そんなの──分かった」
しぶしぶで頷くアリサの前を、レオニスは寝室へ入っていった。すぐ戻った手には、カシムの大鉈とウミドのナイフがある。
リーディアは足音を忍ばせ、表の戸に耳を当てた。ウミドは奥歯を軋ませ、己の脚を握りしめる。
「どっちが言い出したか知らない。でもイーゴリとニコライ卿は、稼ぎ頭のあんたを手放すつもりはないってこと」
「だろうな」
「闘技場から、ドゥラクが兵を指揮するって。そのあとニコライ卿も来るみたい」
「兵がドゥラクを、じゃないんだな」
笑えるところはどこにもない。「ははっ」と聴こえた笑声に、ウミドはレオニスの正気を怪しんだ。
「だろう、なのか」
ウミドが問うたのは、別のことだ。まともに答えがあるか否かで、正気は測れる。
「近衛に使ってやるってのを、それこそ百回も断ったかな? 闘技場に居心地のいい部屋をくれるってのも」
「だからって兵を出すのか」
「ああ。俺ももうしばらくは、呑気にしてられると思ってた。闘技場を出ました、五日で連れ戻しました、ってのは人聞きが悪すぎる」
ニコライ卿の気持ちもほんの少し、微かに分かる気もした。しかしそれほど強引に、慌てるまでか。
「断るにも、お前はもう少し真面目に話すべきだろうな」
「なるほど。次から気をつける」
さて、とひと声。レオニスはウミドの腰へ、ナイフを据えた。自身の腰には大鉈を吊るし、「貸してくれ」と。
「大勢の気配が──!」
潜めた声で、強く。リーディアは表の戸から離れ、レオニスに駆け寄った。
「レオニスさま、逃げる道が」
「さま、は要らん。もともと、表から逃げるつもりはないさ」
互いが押し合うように建てられた、裏通りの家々。人の歩く道はその裏通りしかなく、リーディアの言い分はもっとも。
それをレオニスは悠々と「行こうか」などと寝室の奥へ。
「おい、そっちは」
「水浴びには遅いがな。たまには知らん道を行くのも、わくわくしていいだろ?」
窓を塞いだ板を外し、レオニスは外を窺う。そこにはたしかに、人の歩けるだけの空間がある。
ただし糞尿やゴミを捨てるための
まさかと思わす、いい逃げ道なのかもしれない。ウミドを背負ってでは、相当に歩きにくいという点を除けば。
あとふた月もすれば真冬という冷たさもある。
「分かった、気をつけていけよ」
「んん? ウミドも行くんだ」
「戻されるのはレオニスだけだろ?」
ウミドは残る覚悟をした。選んだわけではなく、それしかないと諦めたのが近い。
これから先、役立たずで長生きするよりはまし。そういう言いわけに納得もできる。
「聞いたろ、ドゥラクも来るんだ。奴に限って、俺よりお前のほうが危ない」
「まあな。誉れ高きレオニスとは、戦いたいんだろうから」
その邪魔をしたウミドを、どさくさで殺すのは容易。というより、ドゥラク個人の目的でもおかしくない。
「でもオレを負ぶってちゃ、いくらお前でもどうにもならない」
狭いどぶの中で見つかったとき、鉈を持つことも逃げることも間に合わない。そんな重しになることは御免だ。
──だからと残れば、死ぬ。ウミドの胸に、強い二つの思考がせめぎ合う。
「そんなことで、お前への貸しもなくならないしな。お前はオレに借りっぱなしってわけだ」
揺れ動く気持ちが強がりのほうへ傾いたとき、嘲笑う声とともに言い放った。
途端、乾いた音が頬で弾ける。いつの間にかのアリサの手が、振り抜かれるのも見た。
「おかしなことばかり。そんなに言うなら、あたしがあんたに貸してあげる」
上ずり、震えた声。アリサの手はまたウミドに触れ、今度は背中に乗せられる。
人の身体をという意味で、アリサよりも多く運んだ者はないかもしれない。彼女自身より背の高いウミドを負っても、まったく揺るぎなかった。
その上にリーディアが、裂いた布で縛りつけた。
「元剣闘士、レオニスとその一党に告げる!」
裏通りから、覚えのある下卑た声。イーゴリの叫びに、アリサの背がびくっと震えた。
「恩深きニコライ卿に対し、反乱の企ては既に知れている! また敵国へ情報を流すとあっては、帝国すべてへの敵対行為と見做す! ここに帝国商人イーゴリが、ニコライ卿に成り代わって捕縛を行うものとする!」
なんのことやら。レオニスに問うまでもなく、まったくの言いがかりだ。捕らえる理由として、根も葉もないでまかせを、辺りの住人に聴かせているらしい。
「アリサ、行けるか」
「もちろん」
「ウミド。借りは返させろよ」
レオニスに、アリサは力強く頷いた。ウミドは黙って、睨み返す。堪えられず、すぐに逸らしたほうにはリーディアがいた。
「リーディアにも声をかけろとさ、ウミドが」
「まあ。ありがとう、ウミド」
違う。否定を言う猶予もなく、レオニスは窓からどぶへ出た。続いてアリサが出るのを、後ろからリーディアの手が支える。
建物越しにも、大勢のざわめきが聴こえた。それはイーゴリの兵と野次馬と、区別がつかないけれど。
多少の水音は問題なさそうだ。レオニスの判断に従い、三人と一人は小走りの速度で進む。それ以上ではウミドを背負うアリサと、足の不自由なリーディアが着いていけまい。
人の気配の少ないほうへ、どぶを伝って進んだ。いくつか路地をまたがねばならぬ場所もあったが、夜闇が味方をする。
手や頬に、跳ねる水滴だけでも刺すような痛みを感じた。こんなものは、借りという生易しい言葉で済まない。
もやもやとしたなにかを、腹の底から吠えて吐き出したかった。汗くさいアリサの後ろ髪へ鼻をつっこみ、「ごめん」と繰り返すことで堪えた。
「着いた……」
レオニスでさえ、その声に荒れた息が交じる。どぶを下り、最後に町を出るところへ辿り着いた。
行く手を石壁が遮るものの、水の通り道はある。親指の太さの鉄棒が何本も立ち、合間を流れた汚水は川へ注いだ。どど、と勢いよく。白く泡だらけの。
大鉈で、レオニスは鉄棒を突いた。町じゅうに聴こえそうな音をさせても、鉄棒が折れることはない。
だが埋め込まれた石壁のほうが崩れる。二本も外せば、レオニスでさえ横歩きで通れよう。
「良かった」
しばらく誰も黙っていたのに、レオニスに続いてアリサも言った。
振り返れば、騒ぎは天井知らずで大きくなるのが明らか。人の持つ灯りなど、何百何千があるかと恐ろしくなる。
そんなものから逃げおおせたことを、口に出したいのはウミドも同じだった。言う資格を持たぬために、唇を固く結んだ。
「やあ、こんなところで出会うとは。誉れ高きレオニスと、やはり縁があるらしい」
ふいに、場違いな大声が響く。男の声で、レオニスでもウミドでもなかった。
どぶの両脇、並ぶ家の背中は見上げる高さになった。そこに駆け込む人の足が、十や二十では利かない。
「このドゥラク、糞尿に塗れてまで逃げようとは恐れ入った。しかし言っておくが、その先は泳ぐことなど不可能な激流よ。溺れ死ぬよりは、おとなしく従うことを勧めるが?」
剣を抜きながら、ドゥラクはレオニスの頭上へと足を動かした。いつもの取り巻きも含め、従う剣闘士らは全員が弓を構える。
「飛び込むよ」
レオニスとリーディアと、ウミドにだけ届く声でアリサが囁く。一人として頷きもしないが、頷くまでもないと言うのだろう。
「おや? そこにおいでは、お嬢さんでは。闘技場から出てはならぬと言いつけられているはずが、どうしてこんなところでお会いするやら。不思議なこともあるもので」
嘯く男の指がアリサに向けられる。すると何人かの持つ弓が、明らかに彼女だけを狙って動いた。
「さあ、武器を捨てろ。そのゴミも降ろせ」
大鉈とウミドを、どぶに捨てよ。そう言うドゥラクの剣先が、レオニスの眼に突きつけられる。
頭頂と同じ高さに、あちらの足。ドゥラクだけならともかく、これではたちうちのしようがなかった。
「ゴミを降ろすんだな?」
「早くしろ」
それなら手を動かさねばならない。レオニスはゆっくりした動きで、アリサに背中を向けさせた。
意を決して飛び込むのと、弓が放たれるのと。どちらが速いだろうか、ウミドは考えつつも息を止める。
次の瞬間、強い衝撃がウミドの背を襲った。
アリサが跳んだからでない。殴ったのと違わぬ強さで、レオニスの平手に打たれたのだ。
ほぼ同時にリーディアも川へ落とされ、落とした男は振り向いてドゥラクの足を取った。言われるまま、ゴミをどぶへ捨てるらしい。
視界から光が失せる。ぐるぐると回って、硬い壁に打ちつけられたのは数えきれない。
水に溺れるとは聞いた話でしかなかったが、息のできぬ苦しみを初めて知った。
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