第61話:新生のとき(1)
はっきりと、明確に。ウミドが意識を保ったのは、全身の負傷のおかげと言えたかもしれない。
磨り潰される薬草の気持ちは、叩いて伸ばされる山羊皮の気持ちはこんなだろうか。もとよりか新たにかも不明な苦痛が眼を閉じさせない。
ただ、月は美しかった。白と青と赤と、光が条となって瞳へ刺さる。水の中から見上げるのが、こんなにも眩く感じるとは知らなかった。
今度、レオニスにも教えてやろう。
そう思った一瞬だけは、呼吸の限界が近いことさえ忘れた。
そして気づく、もう回転を強制されないことに。
見回せば、波の立てる泡が消えていた。先と比べものにならぬ穏やかな流れに、木切れや布切れ、枝葉などが浮かんで見える。
ぎゅっと眼を閉じるアリサの顔も。ウミドは彼女の肩を叩き、上を見ろと指さした。
「はあっ! はあっ!」
「うえっ……り、リーディアは」
息を継ごうとして、逆に吐いた。しかし構わず、もう一人の姿を探す。
「リーディア──いない」
言いつつ水を掻くアリサは、まさに必死の形相をした。背負うウミドと繋がれたまま、二人分だ。
近くを過ぎようとした枝をウミドはつかむ。小さな葉ばかりの枝先だが、ないよりはましだった。
「馬の音が」
互いに話しても、水を飲まずに済む。おかげで聴こえた風の音に、土を蹴る蹄も混ざった。
スタロスタロを囲む石壁は、いまだひと目で全てを収めきれない。
追手の姿までは分からなかったが、リーディアを呼べば所在を知らせることになる。だが見捨てる選択肢もあり得ない。
迷ったのは一瞬。リーディアの「リ」までは声に出した。
しかし同時に、なにか聴こえた。さほど遠くない、少なくともどちらの岸より近いところで。
「アリサ」
ほとんど間なしに、リーディアの声。首の太さの倒木に手をかけ、眼と鼻だけを浮かせてやってくる。
「た、助かった」
「いいえ、まだ。ウミド、いい物を持ってるのね。それ、使いましょ」
倒木へ抱きつくアリサを、リーディアはそっと撫でた。しかし言うべきは言い、同じ手をウミドにも伸ばす。
枝先を奪われた。倒木に手の届かぬウミドには必要だったのに。
どうするかと思えば、アリサの頭に引っ掛けた。なるほどこれなら、倒木から枝が出ているように見える。水面から出たアリサの姿を、ごまかすことができる。
リーディアからすれば、ひと回りもふた回りも大きな彼女の背中が、足らぬ息を求めて上下し続けていた。
「あ、ありがとリーディア。なんだか慣れてるみたい」
「ええ。初めてでないから」
「……そう」
荒い呼吸を掻い潜り、発せられた声が噤む。喋ることでまた息が足らなくなった、のではないとウミドは思う。
「もう少し川を下りましょ。寒いけど、ウミドは平気?」
「あ、ああ。オレは全然」
正直を言えば、問われるまで忘れていた。寒いと言われた途端、身体じゅうが冷えきって感じる。
折れた足の上で、誰か太鼓でも叩くようだ。一定の拍子で強く重い痛みが繰り返す。
水の流れは穏やかだったが、歩くよりも速い。ふと見ればスタロスタロの石壁が小さくなり、馬や追手の声も聴こえなかった。
そのまましばらく、スタロスタロの反対岸へ自然と近づくまで流された。「そろそろ」とリーディアが言うのに従い、呼吸を戻したアリサが水を蹴った。
「どうしよう」
繋いだ布を外し、衣服を絞るアリサは岸から川面を見渡した。それはウミドもリーディアも同じく。
遅れて飛び込んだはずの男が見えない。
「もっと手前で上がったのかもな」
ウミドが言ったのは、そうであってほしいという願いに近かった。溺れることはあるまいが、それ以前の話かもと想像を打ち消すために。
「どこか、はぐれたときの場所を決めとけば良かった。あたしが急かしたから──!」
こちら岸からあちら岸まで、広さで言うなら
洟を啜るアリサが上ずらせて言うとおり、落ち合う場所があれば悩む必要はない。
「アリサ。来てくれなかったら、逃げられなかった」
「でも」
「大丈夫だ、あのバカは殺されたって死なない。オレが補償する」
気休めでしかないのは、ウミド自身が分かっている。それでもアリサは頷いてくれた。嗚咽を噛み砕いて飲み込むように。
オレはこんな顔しかさせられない。
せめてもの慰めに手を握ろうとして、やめた。空をだけつかみ、震わせた拳を静かに下ろす。
「よし、もうちょっとだけ待とう。どのみちオレたちも、ずっといたら寒さで死ぬ。どこか隠れられるところを探して、また後のことを考えよう」
なにも解決にならないことを。またオレは逃げるだけで、なにもできない。
喚き散らしたい気持ちを叩きのめし、努めて平静な声をウミドは作った。
「震えてるよ」
「寒いからな」
アリサは平静というより、叩きすぎの平たい声をした。なにやら怒っているようでもあったが、それはあるまい。「へえ」と、アリサは腰を下ろした。
へたり込むウミドの隣へ、肩を押しつけながら。
「なんだ?」
「寒いから」
「だな」
冷えきった身体も、くっつけば暖かくなる。当たり前のことと、ウミドはぎこちなく頷いた。
すると反対の側に、リーディアも肩を押しつけて座る。
「ウミド、ありがとう」
「うん?」
礼を言われるなど、覚えがない。顔を見返そうとしたが、リーディアは川をばかり見て視線もくれなかった。
「色々」
「オレはなにもできてない」
「呼んでくれたもの」
「呼んだ?」
きちんと名前で呼べとは、かなり昔のアリサの言葉だ。名前を知ってから、リーディアはリーディアとしか呼んでいないはず。
なんのことやら。ウミドが首を傾げても、やはり補足はない。きつく唇を噛む女に、求めようとも思わなかった。
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