第42話:十七歳の流転(2)
レオニスを殺すのは自らの手によって。六年前に誓ってから、行動に移したことはない。
月末に向け、試合の行われる十日間の初日。目覚めたウミドが伸びをするのと、レオニスのそれはほぼ同時だった。
「今回こそ、アリサに尻を蹴られないといいな」
最近、地下へ下りる階段で決まってレオニスは言う。顔を見なくとも、厭らしいにやにやとした笑みを浮かべてだ。
「蹴られたことなんか」
否定の途中で、九十八勝の剣闘士は暗がりの奥へ消えていく。鍛錬のためにだが、なんの儀式か待っているアリサと手を打ち合わせて。
「今日はまた
首の後ろで束ねた赤毛が、右へ左へと忙しく揺れる。しかしアリサは、目の前へ立てば「おはよう」と笑ってくれた。
大きく変わった点を挙げるなら、彼女の背丈はウミドより低くなった。頭一つ分を見上げていたのが、逆になった。
六年前とあちこち少しずつは違っても、ほっとするのは変わらない。いや、これも少しは違っているかもだ。
胸の奥から喉、頬と、緩めた息の通る場所が温かくなる。盛夏はとうに過ぎ、じっとしていれば震えのきそうなこの地下で。
「ウミドが押してくれると、やっぱり楽だね」
「オレじゃなくても変わらないだろ」
「変わるよ。息が合うっていうのかな」
「そうか? 『違うだろ!』っていまだに怒鳴られるけど」
「えっ、あたしそんな?」
あえて、かなり男っぽい声色で口調を真似た。太い眉が寄せられるのは怒ったようであり、困ったようであり。
ウミドには後者と明白だったが、慰めることはしない。怯えた表情を作り、むしろ煽る。
「さ、さあ」
「もう。あたしで遊ばないでよ」
遊ばれている理解はあるのだ。ウミドが噴き出すと、彼女もわざとらしく頬を膨らませて見せる。
最近ではなかったかもしれないが、きっといつか交わしたような会話。こんなことができる相手は、アリサしかいない。
「でも本当に、ウミドが手伝ってくれるようになって助かったよ」
そう続くのも、何度を聞いたことやら。
「オレがやるって言いだしたわけじゃない。客寄せにやれって、仕方なくだ」
「そうだけど。子供のころは可愛いって評判だったし、今はカッコイイってうるさいくらいだよねえ」
じっとり粘つくような視線。乾いた含み笑い。
アリサの反撃も常だが、腹の底から胸の鼓動をつかまれる感覚がする。それでいて決して不快でないのは、己のことながらどういう心持ちかウミドにも不明だった。
「いやいや……」
「でもさ。本当にって言うなら、本当に良かった。ウミドが剣闘士にならなくて」
不快ではない。だがこう言われたときには、なんと答えていいか分からなくなる。
スベグの仲間の、父や母の仇を忘れたかと言われたようで。
「そりゃあ。剣闘士になったって、いいことないしな」
「だよね。うん、そうだよ」
結果、なんとなくの人ごとめいた返答を選ぶことになる。それをアリサが我がことのように笑えば、喉が細く狭まって苦しい。
「──そういえばこの
僅か生じた沈黙に、思いつきを捩じ込む。なにを意識した風もなく「うん?」と、十九になったはずの少女──女性は首を傾げた。
「図体がでかいからさ。どこでどうやって飼ってるんだ?」
低く石壁へ染み入るかの唸り声は、闘技場のどこからでも響きそうだ。だから別の場所で餌を与えられているのだろうと、問いながらも予測する。
「ううん」
しかし違ったらしい。アリサは首を横に振った。
それにしても、ううんでは受け答えとしておかしな感じがする。ウミドも同じく、首を傾げた。
「飼われないよ。試合が終わったら、肉にされるんだ」
曇りの差した微笑に、ウミドは頭を掻き毟りたくなった。もちろん間に合わず、「そうなのか」と平静を装うしかない。
「皇帝陛下やニコライ卿に献上されるのと、残りはお金をたくさん出してくれた人に」
「食う、んだよな」
「だと思うよ」
人を喰い殺した獣をと思うと、なにやら引っかかるところはあった。それでもウミドには、ただ殺して捨てるよりはましに思えた。
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