第43話:十七歳の流転(3)

   * * *


「は、話を──」


 試合の始まって九日目のこと。中天を過ぎた頃あい、アリサに言われてパンを腹へ入れるところだった。

 地下の空間でも奥まった辺りに、訓練をする剣闘士用のあれこれが並んだ。その脇へ寝転び、同じくパンを噛じっていたレオニスは起き上がる。


「どうも熱い視線があると思ってたが、お前か」


 話がしたいというらしい男は、三歩先の柱へ寄り添うように立ち、頭を前へ押し出すように頷いた。

 お前か。と意外そうな言葉のわりに、レオニスはにやり笑う。

 話すどころか、まともに声を聴いたのも少ない相手だ。ウミドなど、何度「ええ?」と繰り返しても言い足りない。


「えっ、いつからだ」

「九日前だな」


 今月の試合が始まる前日。それはアリサが、レオニスの対戦相手を聞きつけてきた日。

 となると、と考えてようやくウミドも頷く。


「まあ、傍へ来いよボルムイール。話そうっていうなら、なおさらだ」


 石畳へ座るウミドからすると、山を見上げるほど顎を持ち上げねばならない。言われてその長身の男も、素直に柱から離れてくれて助かった。


「で? 最強の呼び名も高い剣闘士さまが、俺なんかになんの用だ」


 レオニスの九十八勝に対し、ボルムイールは七十五勝を数えた。九十六勝に達したドゥラクと三人、誰が最も強いかを語る者は多い。

 当然、直に戦わせなければ知れぬことだが。


「あ、明日。おらの足ぃ、砕いてくれ」


 口の中でもごもごと喋るボルムイールの声は聴き取りにくかった。手の届くところへ座ってもだ。

 なんの後ろめたいことがあってそうなのか、と今までウミドは感じていた。しかしどうも、これが生来の話し方らしい。


「はあ? インチキしろってのか」


 イーゴリが連れ、ドゥラクが面倒を見る剣闘士。妙な企てでもあるのか、ウミドは疑う。周囲をぐるり見渡し、立って木箱や樽の蓋も開けてみた。

 特にこれというものはなかったけれども。


おらぁ、し、死にたくない。両方の足ぃ砕けりゃ、出て行けるって」


 ガーヤーに限らず、そういう例はあった。年に一人か二人くらいだろう。望んでとは、少なくともウミドに初耳だ。


「みんな死にたくない。でもインチキがバレれば、お前も俺も殺されるぜ」

「し、知ってる」

「覚悟の上か。お前はそうでも、俺はどうする」


 勘弁しろよとレオニスは笑った。今なら冗談で済ませられる、おそらくそんな風に。


「お、おらぁ、帰らなくちゃいけないんだ」


 ぼそぼそした声をさらに低め、ボルムイールは石畳の一点を見つめた。応じてくれるまで動かないとでも言うのか、放って去ることも容易なここで。


「……そう睨まれてもな。まあ、なんでそんなこと言い出すかくらい、話してみろよ」


 構わずに食い進めたパンがなくなり、レオニスは元通りに寝転ぶ。それでも動こうとしないボルムイールに、温情めいた言葉が出るのはさほどかからなかった。


「お、おらの村は、一人でも働けるやつが惜しいんだ」

「働く? 足を砕いて帰ってか」

「き、木ぃ切ってくるやつ。割って板にするやつ。け、削って道具にするやつ。や、やれるならなんでも」


 木を倒し、木材や木工品にする。それを村人全員で協力して行うから、腕だけでも役に立てる。

 たどたどしい声を、ウミドはそう翻訳した。木を山羊に、木材を皮や燻製に置き換えればスベグの姿だ。


「へえ、なるほどとは言うが。そんな仲良しの村から、なんで奴隷が出る」

「は、流行り病。村のみんな、急に立って歩けなくなった。ものも食えなくて、おらだけ元気で、麓の町ぃ医者ぁ頼んだ」

「で、借金が?」

「うん。く、薬ぃもらったら、すぐ元気になった。それで木ぃ切って、作って、売ったけど。た、足らなかった」


 そんなことが起こるのか。

 流行り病はスベグにもあったが、全員が倒れるようなことはない。それほど恐ろしいものを治す、医者の薬とは大したものだ。

 複数の意味で驚くウミドをよそに、レオニスの発する「へえぇぇ」はひどく白々しい。


「面白い話があるもんだな。あ、いや、お前の仲間が病気になったことじゃない。突然に病気になって、突然に治ることだ」


 それは否定になっているのか。ウミドが首を傾げると、ボルムイールも同じだった。


「お前だけ元気って、まったく調子も崩さなかったのか」

「いや、な、何日か、腹ぁ壊した」

「そりゃあ、毒だ。お前の村は山の上らしいが、同じ川の水でも飲んでるんじゃないか? 何人か知らないが、みんないっぺんにとなると、流れの少ない沼かもな」


 返答を待つまでもなく、目を見張るボルムイールを見れば察せた。


「そ、そうだ」

「沼へ毒を流して、毒を消す薬を医者が配る。それで大儲けだ」


 騙されたのだ。そこからどんな道を辿って闘技場へ来たか、俯くボルムイールの心持ちを思うと、ウミドは指先ひとつ動かすのさえ慎重になる。

 かといって、ただ見つめるのも憚られた。仕方なく、手にあるパンを片づけることにした。普段より硬く、まずかったが。


「……あ、あの」


 ウミドもパンを食い終わって、しばらく。やっとボルムイールは顔を上げた。

 寝転んだままのレオニスは「どうした?」と、天気の話でもするように気安く応じる。


「もう。そ、それはもういい。おらやっぱり、生きて戻らないと」

「ふん? よし分かった、って答えたとする。見てるやつらにバレないように、お前はできるのか」

「や、やる! 言うとおりにする。し、しなきゃいけないんだ」


 ランプの細い灯りだけが揺れる暗がり。そこに新たな光源が生まれたと錯覚するくらい、ボルムイールの表情は輝いた。

 だがレオニスは微笑をも消し、平たく告げる。


「無理だな。言うとおりになんて言うやつに、そんな芝居ができるとは思えない」

「が、頑張る」

「勝手に頑張れ。俺にもう一つ気に入らないのは、話しかけるのがなんで今かだ」

「まよ、迷って」


 膨れ上がった希望が、みるみる萎んでいく。それをウミドにはどうもできない。

 手伝ってやったらどうだ、と思い浮かべはしたけれど。失敗してレオニスが死ぬことになれば、ウミドが困る。


「迷った? ああ、どういうときに言えば俺が断らないかだな。ウミドと、息子と一緒なら甘いことを言うと思ったんだろ?」

「そんな──」


 ボルムイールの否定を、終いまで聴くことはできなかった。誰が息子だとも、さすがに言い出せない。


「俺がそういう優しい人間じゃないってのを、誰より知ってるのがウミドだ。ウミドが居ても居なくても答えは違わなかったがな」


 まるで凍りついたかに、ボルムイールの瞳は動かなくなった。開いたままのまぶたも。

 まま、のそりと立って去る。


「明日、俺はいつもどおりにやる。お前もちゃんと俺を殺しに来いよ」


 レオニスの追い討ちにも、なんら応答はない。

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