第32話:剣闘士の死合(12)
今日、何度目か、暗い階段を下りる。目の慣れるほど、その暗さがより分かる。松明でも並べて煌々と照らせば、石畳の継ぎ目も顕わだろうに。
足裏の感覚で不自由なく歩けることを、どうも認めたくないとウミドは苛立つ。
「次の試合、もう始まってる」
などと走るアリサの背中に着いていくことが、腹にもやもやと気持ちの悪いものを増やした。彼女のせいではないのにと舌打ちしつつ。
「お。忙しいな」
そこへ気安げに声をかける者が、なおさら苛立たせた。今日は出番のないはずのレオニスが、地下の奥のほうからやってくる。
「いつものことだよ」
「その忙しいときに悪いが、ウミドを借りても? この試合の間だけでいい」
忙しいと知っていて、なにを。それにレオニスの用など、構ってやる理由がない。
素晴らしく速い思考で導かれた結論に従い、ウミドは顔を背けた。そのまま昇降台へ足を向けようともしたが、また同じでいいのか分からなかった。
「いいよ」
振り返ると、アリサが返答をするところだ。反抗のために「アリ──」と途中まで名を呼んで、やめた。
「助かる」
「その代わり、なにか食べさせてあげて。忙しいんだからさ」
「なにか? どこか用意があるのか」
広い地下をレオニスは見渡して見せる。わざとらしく、額に手で庇も作って。
対してアリサは、とぼけた真似をする剣闘士の腰を指さした。そこには布の袋が下がる。
「あいにく、一つしかない」
「良かった。ウミドも一人しか居ないから」
言いながら昇降台へ向かうアリサに、レオニスは参ったという風に鼻を噴く。それから布袋を探り、両手にちょうどのパンを取り出した。
「アリサ」
名を呼び、半分に割ったパンを投げつける。およそ顔面にまっすぐのそれを、見返った少女は見事に受け止めた。
そのまま昇降台へ乗り、ちょっと振ってから口へ運ぶ。アリサの姿が見えなくなるまで、ウミドが黙っていたのはなんとなくだ。
「今日は寝てるんじゃなかったのか」
「言った覚えがないな。どのみち、ずっと寝てるのは退屈が過ぎる。ちょっと身体を動かしたくなった」
差し出されたパンを、ウミドは撥ねつけようとした。だが半分をアリサが食っているのだ、なにやらやってはいけない気がした。
仕方なく、できるだけ乱暴に奪い取る。かぶりつくのも、
「どうだった」
「なにがだ」
「見たんだろ? ええと、もう五試合目か」
「見たくて見たんじゃない」
わざわざ呼び止めて、なにかと思えば。くだらないとため息を吐きつけ、ウミドは石畳へ座り込んだ。
「中には好きこのんで、腕試しに来るバカもいるけどな。ほとんどは金で買われたとか、成り行きで逃げられなくなったとかだ。そいつらの殺し合いに金を賭けたり、酒の肴にする客も見ただろ?」
そんなことを問うてどうする。意図の分からぬものに応じるのも腹立たしく、いかにまずそうにパンを咀嚼するかだけを考えた。遠く暗い地下空間の闇を見据え、くちゃくちゃと音を立てて。
いつから隠匿していたのか、ひどく硬いパンだ。野生の麦と芋で焼くスベグのパンより、日陰で三日ほども乾かしたように。
おかげで、ひと口を噛む数も増えた。だのにレオニスは、次の言葉を重ねようとしない。三口、四口目でも、すぐ脇へちょうど見えるかどうかの長い脚が目障りだった。
「うるさいな!」
「なにも言ってない。あ、いや、さっき訊いたやつか? 聴こえてたんなら良かった」
良かったという言葉に見合って、薄く微笑むのが忌々しい。
などと。ウミドは考えた自分に唖然とし、ごまかすためにパンを投げつける。
「もう要らないのか?」
また、答えてやらない戦法を使う。幅のなさに悲しくなったが、ほかにやりようのないものはない。
レオニスはパンを割り、半分の半分にした。どうするのかと思えば、食べかけの部分は自身の口へ放り込む。残りは別の布袋へ入れ、「腹が減ったら食えよ」と差し出された。
「お前、百勝なんてできるのか」
もちろん受け取る気にはなれなかった。ゆえに別のことをと考え、それならいつか訊くべきことを訊いた。
「できるかは、やってみなきゃ分からん。やろうとはしてる」
「またそれか。口に入れなきゃ、硬いか柔らかいかも分からんみたいなことを言うな」
そんなことは当たり前だ。パンが食ってうまいかは、口に入れれば分かる。百勝しようというなら、そうする方法くらい考えているだろうに。
くどくどと言ったところで、またはぐらかされそうで口を噤む。
「どうした、俺のことが知りたくなったのか。ほかならぬウミドになら教えてやるぞ。教えてくださいって言えばな」
「バカじゃないのか。いや、バカだな」
今のはいい皮肉だった。「疑って悪かったな」と付け加える。しかし「まあな」と堪えぬレオニスは、その場に腰を下ろして笑った。
「俺がバカだと知って、百勝を狙ってるのも知った。次はなんだ? ほかにもあるんだろ、訊きたいことが」
にやにやとした笑みが鬱陶しい。「ん?」「ん?」と、ほとんど吐息のような問いかけが煩わしい。
「ものにはなんでも
教わったのは、初めて
「ああ、なるほど。そんなのを教えてくれる誰かが居たんだな」
お前の殺した父ちゃんだ。
絶叫を呑み込むのに、奥歯が割れるかというくらい噛み締めた。射殺す視線までは抑えられなかったが。
「だから、お前の
「倒すなら。ってことは、倒さないやつはどうする? 自分の守りたいやつは」
守るなら包み込む。身体でも気持ちでも、己の全力を以てと父は言った。
胸に何度も繰り返される声を、レオニスに伝えるなどできるはずがない。代わりにウミドは、先の問いに答えてやることにした。
「剣闘士も客も。この闘技場ってところにいるやつは、どうしようもないな。ハイエナの糞より
スベグにあって最も役立たない、どころか有害なものの喩えだ。レオニスには理解できないだろうと分かっていて、あえてウミドは言った。
それをなぜか、憎き剣闘士は嬉しそうに頷く。
「そいつは良かった」
言って、また。二度、三度と繰り返す首肯に、ウミドは気味悪く顔をしかめる。
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