第31話:剣闘士の死合(11)

 いつしか、歓声は罵声としか言えなくなった。「のろま」「クズ」などと子供の悪口のようなものから、「俺が代わってやる」という嘲笑も。

 じゃあ代わってくれと言われても、代わる気はないだろうに。というくらいはウミドにも分かるが、分からないこともあった。


「二人とも、こうまで言われてなんで動かないんだ」


 一歩たりと変わらぬ場所で、睨む眼と眉間の皺にばかり力が入り続ける。いつの間に、先に動いたほうが負けとでもなったのか。それとも笑わせたほうが勝ちとか。


「小さなナイフだって、料理で以外は使ったことがないってさ。だから当たりさえすれば相手を殺せる、あんな大きな武器に頼ってるんだよ」


 なんとなく、体格に合っている気がしていた。ゆえに好んで選んだ得物と思っていたが、聞けばなるほど。


「つまり。思いっきり叩きつけてやるから、ちょうどいい感じのところへ向かって来い。か?」

「だと思うよ。いくら練習したって、元から兵士をしてたような人に敵いっこないもん」


 最初に選んだ武器と戦法が、これまでは功を奏してきたのだろう。しかし同じ思惑同士が向かい合えば、どちらかが賭けに出ねばならない。


「じゃあ客のほうも、それくらい知ってるんだろ。なんであんなにバカにするんだ」

「みんな、お金を賭けてるから。今日の試合はそれほどじゃないだろうけど。自分の賭けた剣闘士が怠けてるって感じたら、怒りたくなるんだろうね」

「お金ねえ……」


 お金とはなにか。ウミドには興味もなく、詳しく訊いてはない。

 たしか、たくさん持っているほど偉いのだと聞いた。すると賭けた剣闘士が勝てば、そのお金が増やせるというわけだ。


「お前らはそこで文句を言ってるだけなのにか?」


 無意識に、唇の先へ声が漏れていた。気づいて固く閉じたものの、既に発した声をは引き戻せない。


「そう思う? 剣闘士は人殺しなんでしょ?」

「──人殺しだよ。人殺し同士でやりあってりゃいいのに、オレの仲間まで殺したとんでもないやつらだ」


 決して、モォブとガーヤーへ向く罵倒に苛ついてなどいない。苛ついてはいけないのだ、とウミドは奥歯を噛み締める。


「でも見てるやつらは、人殺し以下だ」


 とってつけたような言葉だ。けれど本心と言って間違いない。

 心の中で頷いたウミドは、あえてアリサに眼を向ける。彼女のほうは一瞥もしてくれず、二人の剣闘士をばかりだったが。


「いいかげんに動きやがれ、使えないデブ野郎!」


 野次るのにさえ飽きたらしく、落ち着きかけた客席から一人の声が上がった。「そうだそうだ」と多少の同意は出たが、また沸き立つまででない。

 ただそれから三拍か四拍ほども遅れて、「そうだ行け!」と絶叫が立った。

 大斧使いガーヤーが走ったのだ。


「走れデブ!」

「転ぶんじゃないぞ、喜劇を見てるんじゃないからな!」


 無責任な声は聴こえぬこととして、ウミドは鉄柵を握った。頼ってきた戦法を捨て、なにをしようというのか。馬の背から身を投げだした、山羊狩りの遊戯ブズカシが脳裏を奔る。


 迎えるモォブは、まだピクリともしない。ガーヤーの大斧が横薙ぎを狙い、後ろへ引かれても。

 どたどたと重そうな足取りは、侮蔑でなく心配の声をかけたくなる。だが馬鹿正直にまっすぐを走った大斧が、水平の筋を宙へ描く。

 対する大槌は弧を描く縦の筋。どちらが先に動いたか、ウミドの眼には見極められなかった。


 二つの得物が、その軌跡を交叉さす。互いに一撃必殺の殺意は、果たして衝突さえしなかった。

 大斧の刃が向かう先は、モォブの腹だった。大槌が叩きつけられたのは、ガーヤーの手。石畳へ落ちた大斧が、背丈の倍も撥ね上がる。


「うっ、うがぁぁ! 手がぁぁぁ!」


 ガーヤーはモォブの眼前にひれ伏した。両の肘を石畳へ突き、許しを乞うようでもある。

 これで勝負は決まったはずだ。両手を砕かれ、痛みに悶えるガーヤーなど、とどめを待つだけの存在だった。


「バカ、やめろ!」


 ウミドは叫ぶ。高々と大槌を上げたモォブに。

 一転して「殺せ」を合唱し始めた歓声には、まったく及ばなかったが。

 せめても、ガーヤーが仰向けに転がり、振り下ろされんとする槌に気づいたのは救いだけれど。

 それでも避けるだけの猶予はなく、大槌は人体を潰す醜悪な音をさせた。


「くそ、やめろって──」


 ウミドの足が、がくがくと揺れた。全力で走ったあとのように、息も切れた。罵倒の半分は混じった歓声が、やかましくて堪らない。

 勝負のついた知らせと共に、鉄柵が下りる。大槌を引き摺り、うなだれたモォブが裏へ戻っていく。


「ウミド、早く」

「早く? 急いでなんの意味があるんだよ」

「まだ生きてる。医者に診せないと」


 早口のアリサが走った。「ええ?」と呑み込めぬまま、ウミドも。

 演舞場のおよそ中央。膝を抱えた恰好で、ガーヤーは目を剥いていた。既に赤黒くなった手は、見るからにぐしゃぐしゃで使いものにならない。


 でも。

 頭の側を持ったアリサに倣い、尻と大腿を持ち上げる。と、聴こえた。

 息がある。か細くはあったが、たしかに生きている。

 ウミドが足を持たなかったのは、やはり折れているのが明白だったからだ。きっと縮こまった両脚を大槌が打ち、命までを奪わなかったに違いない。


 アリサは演舞場を出ると、闘技場の外へ向かう通路を急いだ。ウミドがやってきたとき、歩いた順路を反対に。

 何日かぶり、外壁よりも外へ足を踏み出す。すぐ何人もの兵が集まり、景色を見るのも満足でなかったけれど。


「すぐそこだよ」

「なにが?」

「医者。死んでほしくないんでしょ」

「そりゃあ、死んでるよりは生きてるほうがいい」


 用が済んだなら、さっさと中へ戻れと兵に押された。だがガーヤーは、たしかにアリサの指さした建物へ運ばれつつあった。

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