第76話:遊牧民の牙(2)
「起きて平気か?」
駆け寄ったアリサに支えられ、リーディアがやってくる。なにやら久しく見た気のする顔は、げっそりと頬を痩けさせた。
「私のは怪我じゃないもの」
左足を引き摺るリーディアから、「ふっ」と笑声めいて聴こえた。いつもに増して、表情は硬かったが。
そうだな、と言えるわけもなく。「いや、うん」などと曖昧にしか答えられなかった。
「私も行く」
先までアリサの座っていた、ウミドのすぐ脇へ腰を下ろすなり。リーディアの意志と声は明確だった。
「えぇ?」
「なに。置いていく気だったの」
「置いていくというか──危ないだろ」
足を悪くしているリーディア。もはや歩けぬウミド。行動を同じくするなら、どちらが危ないか。より辛辣に言うなら、どちらが邪魔になるか。
見え透いたと言うのさえ馬鹿馬鹿しい明らかな事実を、ウミドは無視することとした。
「聞いていたわ。でも行かなきゃいけないの」
「なんでそこまで」
岩の地面に両手を突き、リーディアの顔が覆いかぶさった。
「り、リーディア?」
「私には、もうレオニスさましかないから」
どうする気だ。目を見張るウミドをよそに、リーディアはそのまま訴えた。
窪んで見える眼が充血しているのは、想いの強さゆえか。そうでなかったとしても、「なんでだ」と問い重ねるほかに選ぶ言葉はない。
「レオナードからスタロスタロに向かう途中、谷際を通るの。私はそこで死んだの」
「死んだ?」
炎とは別の暖かさが、真上から降り注ぐ。たしかに危うさは感じるけれど、リーディアは生きた人間に間違いない。
でなければ、アリサとまた異なる汗の香などするはずがなかった。
「もう戻れないと思ったら、怖くて。深い谷へ落ちれば、楽になれると思った」
「ああ……」
「でも。冷たい流れに呑まれても、私は生きていた。レオニスさまがあとを追って、助けてくれたから」
レオニスが捕まったのは、見たこともない大雪のあとと聞いた。雪にも川にも縁の薄いウミドと言えど、近々の記憶が想像を補って余りある。
「『絶対に連れて戻る』と約束してくださった。だから私は、いま生きているの」
「……オレと同じか」
命を救われたリーディアと、まるで反対。だがウミドには同じと思えた。言った自分に気づいて、同じ? と自問しても、訂正しようとは思えない。
「ウミドも?」
「オレはレオニスを殺すためだけどな。あのバカが死ぬのを放っちゃおけないってことだ」
ウミドの口から話したことはないはず。しかし闘技場で連れ添った、たった二人の女同士。今もアリサの手が、リーディアの背に触れている。
「ええ、そうね」
「アリサもリーディアも。なんて言えば説得されてくれるか、オレには分からん」
命が要らぬと言う者を、止める言葉など存在しない。もしできるとすれば全身全霊を以て止めるか、諸共に行くかのどちらかだろう。
誰に教わるでなく、ウミドはそう感じ取った。
「そんなことはないと思うけど。ねえアリサ?」
「だね」
それでようやく、リーディアはウミドの直上を去った。二人揃って言うことには
「はあ?」
としか答えられないけれども。
「でも良かった。私、ウミドの秘密を握っていると気づいたの」
「オレの秘密? そんなのないぞ」
「いいえ、あるわ。でも連れていかないと言われたら、教えないつもりだった」
怖ろしげな企てではある。が、肝心の秘密というところに心当たりがない。どれだけ首を捻ってもだ。
「なんだか分かんないけど、教えてくれるのか」
「ええ。でも言わなくても、いずれ分かることよ。ウミドの足は、治るの」
リーディアは笑わない。今まで、当人としては笑ったことがあるのかもしれないが。たぶん笑ったのだろうと、ウミドも感じたことはあるが。
初めて話すような者では、絶対に気づかないと言えた。
ゆえに耳へ入った言葉がなんなのか、判断のつけ難いこともある。
たった今も。
たちの悪い冗談、あるいは聞き違い。そう思うのに、常に真剣とも見えるリーディアの顔が、希望を捨てさせてくれない。
「なんだ? そんなのでオレは騙されないぞ」
「騙してない。医者のブラーチ先生が言っていたわ。元へ戻すと狙っていたように、ひと欠片も砕かず綺麗に折れているって」
リーディア独特の笑みを探した。しかし見つからず、そも冗談を言われたこともないと思い出した。
ブラーチが言った。それもリーディアが考えつくには、具体的すぎる。
「本当に治る、のか?」
「そう聞いたわ」
「え。いや、じゃあ今まで、なんで黙って」
「レオニスさまから伝えたと聞いていたもの。でもずっと聞いていたら、知らないのかなって」
嘘や冗談を証明するものがない。どうも真実ではないか、もう一度だけ「本当に治るんだな?」とたしかめる。
「ウミドの足は治るわ。元通りに歩けるようになる」
「そうか」
胸の底へ溜まった某を吐き出す。ひどく粘る、どろどろとしたなにかだ。
「あのバカ野郎、こんなことまで適当にしやがって。絶対に二、三回は殺してやるからな」
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