第75話:遊牧民の牙(1)

「しかし、なんだ」


 おおかたの者が酔って寝入ったころ。おもむろに伸びるアテツの手が、ウミドの太腿を叩いた。

 足先と脳天を繋ぐように、針を通したかの激痛が走る。悲鳴も出ない。止まった息が徐々に「ふ……ふぅ……」と漏れるだけで。


「そんな体たらくじゃ、連れてくのも難しいわな。せめて痛みが引くまで、もうちょっとおとなしくしてろ」

「いや、でも。その間にレオニスが」

「大丈夫だ」


 捕まったなら、なにをされるか。怪我をしているなら、治療が必要だろう。

 当然と思う声を発する前に制され、ウミドは真横に首を傾げる。


「いやにきっぱり言うな」

「お前たちが来てから、儂らが食っちゃ寝するだけだったと思うのか?」

「えぇ?」

「息子の居場所くらい、もう調べがついてる」


 いつの間に。ウミドは声を失ったが、疑う理由もない。

 訪れて最初、レオニスが先に戻っているかもとリーディアは言った。むしろ今まで、詳しく訊かれなかったことに合点がいくというものだ。


「どこだ」

「お前さんの想像のとおり。たぶん闘技場へ連れ戻されてる」

「たぶん? 調べたんだろ」


 曖昧に言っても、アテツの声は萎まなかった。やはり首を傾げたアリサが「誰か見てたの?」と重ねる。


「見てたかもしれんが、まだそこまで調べきれちゃいない。しかし間違いないはずだ、なにしろ次の次の月、百勝を賭けた試合に出るって話だからな」

「百勝?」


 レオニスの百勝は既に達成された。それなのに、とウミドは悩む。


「ドゥラク──!」


 答えを出したのはアリサ。たしかにそうだ、ボルムイールもいない中、百勝に近いのはあの男だけだった。


「あの、げっぷ野郎。どれだけレオニスとりたいんだ」

「げっぷ?」

「腐った肉でも喰う、ハイエナってのがいる。そいつらのげっぷより、息がくさいんだよ」


 そんな奴は勘弁、とアテツは顔を歪ませる。しかしすぐ戻って、「だからよ」と続けた。


「少なくともその日まで、息子は無事ってことだろう?」

「うん。剣闘士は、寝る場所と食うものだけはきっちり貰えるからね」


 アテツの言い分は理解した。今日や明日を争って出発する必要はないと言うのだ。アリサの応じたとおり、剣闘士が死ぬのは試合の結果によってのみ。

 ただし、そもそも怪我などしていなければだが。


「なら。慌てて行くことばかり考えてねえで、どうやって息子を助け出すかを考えてくれや。頭領さんよ」

「とうりょう?」

「儂らに指図する役ってこった」


 わははと笑い飛ばし、アテツは立ち上がった。敷いていた毛皮を拾い、少し火から離れた岩壁に向かう。

 先に横になっていたマーチを抱き締めながら寝転び、ほとんど間なしにいびきをかき始めた。


「──弓に囲まれて、オレたちを逃がして捕まった。無傷と思うか?」


 機会を逸した問い。アリサはウミドの身体へ視線を走らせ、首を横に振る。


「レオニスがどんな状態でも。試合に出て負ければ、ドゥラクは百人殺しを殺した英雄だよ」


 そのとおり、勝つか負けるかがすべて。吐き気のするほど身に馴染んだきまりだが、心からくだらないと思う。


「げっぷ野郎のためにレオニスが死ぬなんて、もったいなさすぎる」

「もちろんだよ。でもアテツの言うとおり、どうやって助ける? 闘技場は出るにも出られないけど、入るのだって難しいよ」


 それはこれから考える、とは情けなくて声に出せない。

 漠然と、スタロスタロのどこかと考えるより。具体的に闘技場と決められたほうが、なにも思い浮かばなくなった。


 入り口を閉ざす鉄柵。目を光らす兵。

 寝起きする部屋、地下の空間。どこをどう通るも、己の足で走らねばならない。

 アリサに負われ、戻ったと告げたとして。温かく迎えられるはずもなし。


「なあアリサ。やっぱり一緒に戻るのか?」

「なに、しつこいね」

「だってお前は、死ぬ思いまでする理由がないじゃないか」


 ウミドにはある。

 死ぬ理由よりも、レオニスを失えば生きる理由のほうが分からなくなると言うのが近いけれど。


「お前じゃない」

「アリサにも、なにかあるのか? しんがあるって言ってたけど、そうまでしなきゃいけないのか?」


 アリサとて、ウミドより長い期間を過ごした場所だ。鎖付きの男たちから「お嬢さん」と慕われるまでには、想像もつかないできごとがあったかも。

 あったのだろう。察しても、なにもしてやれなかったが。


「オレはアリサにだけは、どこかで楽しく──」

「あたしにもあるよ。あんたみたいに仇討ちとかじゃなく、仕返しか八つ当たりか。そういう、しみったれたことだけどさ」


 言って、アリサは微笑んだ。いつか見たような、しかし決して見たことがないと間違いなく言える。

 演舞場へ出た剣闘士を思わす、冷たい眼だった。


「私も」


 不意に、小さな声が耳へ届いた。か細いながら、誰がどこからと探す必要のない声だ。アリサも気づいたようで、さっと顔を向ける。

 先ほどの眼に、思わず唾を飲んだのが知られずに済んだ。

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